菊花



早朝の凛とした空気が、花梨の頬を刺す。
ジャージに身を包んだ花梨は、ゆっくり歩きながら、平安記念公園を目指していた。
まだ少し足の傷が痛む。
一昨日のアルバイト中に花梨は怪我をした。
大事をとって昨夜早めに寝たら、逆に今朝早くに目が覚めてしまった。
カーテンを開けたら良い天気だったので、ジョギングをしているであろう彰紋に会いに行く事にしたのだ。
先ほど彰紋にメールをしたら、今公園に向かっていると返事が戻ってきた。
彰紋の家の最寄り駅から随心実業高校の最寄り駅まで、私鉄とJR快速で1駅ずつとはいえ、乗り換えもあるのだし、あまりゆっくりしてはいられないだろう。
せっかく早起きしたからゆっくり話そうと思ってたけど、今日はやめとこうかな、と花梨は遠くに見えてきた公園を見つめる。
花梨は先日駅前で見かけた彰紋が深刻そうに悩んでいたのが気になっていた。
確か、好きでもない人と付き合っている友達の事で悩んでいると言っていた。
花梨にしてみれば、当人同士が良ければ何も彰紋があんなに悩む事はないだろうと思うのだが、周りの人を気遣う彰紋だからこそ、そんな他人の恋にまで心を痛めるのかもしれない。
練習中に、険悪になったメンバー達を一番年下の彰紋が一生懸命になって仲裁するのを、花梨は何度も見ている。
花梨がまだ練習に参加できなかった頃、つまらなくないように気遣ってくれた事もあった。
逆に、彰紋がメンバーに迷惑をかけたりした時には、すごく自分を責める。
優しすぎるせいで、傷つきやすい。
ま、そこがいい所でもあるし、放っておけない所でもあるんだけどね、と花梨が頬を染めた。
公園に入ると、芝生の広場で手を振っている彰紋を見つけて手を振る。
「おはよう!彰紋君!」
「おはようございます。花梨さん。足、どうかしたんですか?」
わずかに片足を引きずっている花梨に気付き、彰紋が心配そうな顔になった。
「うん、バイトでドジっちゃって・・・大した事ないよ。」
たはは、と花梨が自嘲的に笑うと、彰紋が微笑む。
「そうですか・・・良かった。いいなあ、アルバイト。僕もやってみたいです。」
「え?ウチの店でやらない?翡翠さん、人が足りなくて困ってるみたいだよ。」
花梨が言うと、彰紋が残念そうに首を振る。
「いいえ、僕の家はアルバイト禁止なんです。学業に専念しなさいって。」
花梨が目を丸くした。
「そうなんだ?!」
「僕は学業よりも、社会の事をたくさん学べるアルバイトの方が何倍もためになると思うんですけどね・・・」
そう言いながら、彰紋は周りを行ったり来たりしている大型犬を撫でた。
彰紋の話に深く頷いていた花梨が、それに気付いて顔を輝かす。
「もしかして、これが菊花ちゃん?」
「はい、そうです。菊花、おすわり。」
彰紋が花梨に答えてから、菊花に向かって、少し厳しい声を出す。
菊花が、大人しく芝生の上に座った。
「わ、頭いいねえ。おはよう、菊花ちゃん。」
花梨が跪いて菊花を撫でると、菊花は再びソワソワと立ち上がる。
「菊花・・・すみません、初めての人で緊張してるみたいです。」
彰紋がそう言うと、苦笑しながら手綱を首輪から取り外し花梨の隣へ座った。
「当然だよ、気にしないで。」
花梨は彰紋が申し訳なさそうにしているので、話題を変える。
「朝の空気って、気持ちいいねえ!なんかさ、ピリッとした空気をいっぱい吸い込んで、元気になれる感じ。テスト勉強とかでなかなか起きれなかったけど、もっと早くにジョギング始めれば良かったよ。」
花梨が明るい声で言うと、彰紋が嬉しそうに微笑んだ。
「そうですか?僕も朝の空気が大好きだから、花梨さんに気に入ってもらえて良かったです。」
菊花は落ち着かずに花梨の匂いを嗅いだりしている。
彰紋君、元気そうで良かった、と花梨がホッとした顔で横に居る菊花の背中をポンポンとあやすように叩く。
菊花が、興奮気味にひとつ吠えた。
「わ!菊花ちゃん、どうしたの?」
花梨が驚いて大声を出したので、菊花はますます興奮して二人の周りを走り回る。
「可愛い〜。」
犬の扱い方を知らずに菊花を興奮させてしまっていたのだが、花梨はその様子を眺めて目じりを下げる。
そんな花梨の横顔を、彰紋も嬉しそうに見つめた。
「菊花も花梨さんの事が好きになってしまったのかもしれませんよ。」
「ホント?だとしたら嬉しいなあ。」
言葉の隅に彰紋の気持ちが現れてしまっていたのだが、二人とも気付かずに菊花が跳ね回る様子を眺める。
彰紋がバックパックからペットボトルの水を出して一口飲むと、手ぶらの花梨に差し出した。
「花梨さんも飲みますか?」
「あ、うん。ありがとう。」
花梨は一瞬ドキリとしたが、心の中で日常茶飯事、と唱えながらペットボトルに口をつける。
何も入っていない朝の体内に水が染み渡った。
「はあっ、おいしいね〜。」
花梨が感激した顔で言いながらペットボトルを返すと、彰紋は微笑みながらもう一度一口飲んで、ペットボトルのふたを閉める。
「もうすぐ文化祭だね。楽しみ〜。練習大変じゃない?」
ペットボトルをバックパックへしまう彰紋の背中に、花梨は何気なく言葉をかけた。
「そうですね・・・」
歯切れの悪い答えがかえって来る。
バックパックのチャックを閉め身体を戻した彰紋は、何かに耐えるような顔をしていた。
「彰紋君、練習辛いの?」
花梨が眉根にしわを寄せる。
「いいえ・・・」
「じゃあなんで・・・」
「ごめんなさい、花梨さん。今はまだ言えません。」
彰紋は、花梨と目を合わせずにきっぱりと言うと、ピュイッと口笛を吹いた。
かなり遠くまで離れていた菊花が戻ってくる。
「彰紋君、お願い。私・・・彰紋君の力になりたいの。」
心配そうに言い募る花梨が、ただのお節介で言っているのではないのを感じ取り、彰紋がはっとした顔で花梨を見つめる。
しかし、彰紋は首を振って、静かに言った。
「僕・・・もう、行かなきゃ。」
花梨は彰紋が自分で解決しようとしているのを感じて、それ以上は聞かないことにした。
彰紋が申し訳なさそうな顔をしてから、走ってくる菊花に目を向ける。
すぐに目を見開くと花梨を振り向いた。
「花梨さん、危ない!」
次の瞬間、菊花が花梨に飛びついてきた。
「きゃあっ!」
大型犬の扱いに慣れていない花梨は難なく押し倒される。
「んっ・・・んぅ〜」
菊花に顔をベロベロと舐められて、困ったように声を出す花梨を見て、慌てた彰紋が低い声を出す。
「こらっ、ダメ!」
菊花は驚いて花梨から離れると、興奮が冷めやらぬまま周りを走る。
「すみません、花梨さん・・・」
彰紋が、首にかけていたタオルで花梨の顔を拭こうとしていると、今度はその背に菊花が飛びついた。
「わあっ?!」
慌てていたところへ不意打ちされて、彰紋も花梨の上に倒れこむ。
とっさに肘で自分と菊花の体重を支えて、目を開けると、目の前に花梨の大きな瞳があった。
「・・・!」
「・・・!」
彰紋と花梨が同時に息を飲んで頬を染める。
菊花が彰紋の背から離れて再び周りを走り始めても、二人は見つめあったまま固まっていた。
「花梨さん・・・」
彰紋がうっとりとした声で呟くと、花梨の瞳に吸い込まれるように、顔を近づける。
彰紋の瞳が近づいてくるのに気付いて、花梨は真っ赤になると、小さく声を上げた。
「あ、彰紋君・・・?」
彰紋が、はっと我に返ると、がばっと起き上がって真っ赤になる。
「ぼ、僕は何を・・・そ、そうだ、花梨さんのお顔を・・・」
そう言ってもう一度タオルを握りなおすと、慌てて花梨の顔を拭こうとする。
「だ、だ、大丈夫・・・もう乾いたから!」
花梨も慌てて首を振った。
「そ、そうですか・・・すみません。」
彰紋が恥ずかしそうに目をそらすと立ち上がり、走り回る菊花を捕まえて、めっ、などと言いながら手綱を首輪に取り付ける。
花梨も頬を染めたまま立ち上がると、身体についた芝生をはらった。
彰紋がバックパックを腰に取り付けると、花梨の背中を軽く叩いて芝生を落としながら口を開く。
「花梨さん・・・残念ですが、僕があなたに秘密を打ち明けられない状態では、文化祭に来ていただいても貴女が嫌な思いをする事になるかもしれません。本当は僕のソロ、見て欲しかったんですけど・・・文化祭には、来ないでください。本当にごめんなさい。」
「え・・・」
花梨が愕然とした顔で彰紋を振り向くと、彰紋はすでに背を向けていた。
「では・・・また今夜、練習で会いましょう・・・」
そう言い残して走り出す。
花梨はしばらくそのまま後姿を見送っていたが、彰紋の姿が見えなくなると、諦めたように踵を返して歩き出した。




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