さよなら



「行ってらっしゃい。」
「さよなら。」
翡翠はいつものように微笑みながら花梨に告げると、小さなカバンを一つだけ持って部屋を出て行った。
童謡コンサートツアーから帰ってきたばかりの花梨は、何かがおかしいと思いながらも、旅行カバンを持ってリビングに入る。
そして、リビングがやけに小奇麗になっている事と、テーブルの上の置き手紙に気付いた。
異変を感じた花梨が、慌てて置き手紙を読む。
すぐにそれを読み終わった花梨は、呆然としたままドッと床に座り込んだ。
幾度となく繰り返されてきた「行ってきます」と同じように告げられた言葉が、別れの言葉であったことに気付いたのだ。
「・・・ど・・・して・・・?」
流れるような達筆で書かれた翡翠の手紙は、ごく短いものだった。
『花梨へ。私は長い旅に出る事にしたよ。
 もう戻らないので、このマンションは好きに使っておくれ。
 要らなければ全て売ってくれていい。
 10年も君を独り占めした慰謝料ぐらいにはなるだろう。
 私は本当に幸せだった。ありがとう花梨。愛している。』
あまりに突然の事で、花梨には泣く余裕もない。
翡翠さんを追いかけなきゃ、と思った時には、既にかなりの時が経っていた。
パニック状態の頭で、翡翠の消息が分かりそうな当てを探す。
家中の引き出しを開けてみたが、手がかりになりそうなものは何もない。
それどころか、翡翠の服や靴などがあらかた無くなっていることに気付いた。
ギャラリーのように並べて時折眺めたり触ったりしていた高価なパーカッション類は、そのままだ。
出て行く翡翠は何も持っていなかった。
花梨がツアーに行っている間に、身の回りの物だけをどこかへ配送したのだろうか。
送ったと思えるような場所も、知らされていなかった。
翡翠の実家も、友人も、家族も。
嘘か本当か分からないような話ばかりで、確かな当てになるような情報を、花梨は何ひとつ持っていない。
そんなことはどうでもいいはずだった。
翡翠はいつもそう言っていた。
『いまが幸せなら、そんなことはどうでもいいだろう?』
あれは、全て素性を隠すための嘘だったと言うのか。
俯いた花梨の瞳に涙が滲む。
・・・そんなことない!
翡翠は、誰よりも自分の、そして花梨の自由を尊重し、自由に生きる花梨を愛した。
彼の信念に、偽りなどなかったと、信じている。
花梨は顔を上げて、涙を拭くためティッシュペーパーを取ろうと立ち上がった。
テーブルの上のティッシュペーパーを取り、化粧が落ちないように涙を拭う。
椅子に座りなおした花梨の瞳に、テーブルの隅で小さくたたまれた布巾が映った。
翡翠は、使いやすいからと、店の消耗品である不織布の布巾を家でも使っていた。
「・・・店!」
オレンジブロッサムはどうなったのだろう。
花梨は急いで立ち上がると、マンションを飛び出した。


オレンジブロッサムに駆け込むと、出迎えたウエイトレスが目を丸くした。
「いらっしゃいませ・・・」
出迎えのセリフを遮って、花梨が詰め寄る。
「あのっ、翡翠さん、じゃなくて、店長居ますか?」
「・・・少々お待ちください。」
ウエイトレスは目を丸くしたままバックヤードへ引っ込むと、奥から翡翠と背格好のよく似た男を連れてきた。
花梨はその顔を見て、はっとした。
翡翠とよく似ている。
だが、髪に緩くウエーブがかかっているのと、何より、その人物から漂う気品が、翡翠とは別人であることを花梨に思い知らせた。
「申し訳ありません、店長は本日不在にしておりまして・・・私が代わりに承ります。」
営業スマイルを浮かべて言う声までそっくりだ。
兄弟か、親戚か。
咄嗟にそう思い至った花梨は、必死でその男に縋りついた。
「翡翠さんは、どこへ行ったんですか?!」
男が一瞬真顔になってから再び笑みを浮かべ、そっと花梨の肩を抱くと、バックヤードへ促した。
「お客様、まずは奥へ・・・」
ランチタイムにはまだ早かったが、店内はお喋りを楽しむ女性や、外回りの途中で休憩をするサラリーマンでかなりの席が埋まっていた。
資料を見て打ち合わせをしていた保育園の保護者会らしき集団が、花梨を見てひそひそと何か囁いている。
子持ちの女性で花梨を知らない者は居ないのだ。
それに気付いた花梨が大人しく男に連れられてバックヤードへ入る。
懐かしい休憩室に入ると、男は大きくため息をつきながら花梨へ椅子を促した。
「身の回りをきちんと片付けておけと言ったのだがね・・・」
独り言のように呟きながら花梨の向かいに座り、煙草を出して火をつける。
花梨を気遣い、横を向いて煙を吐き出してから、男は花梨に向かって言った。
「君は、翡翠の何?」
花梨が言葉に詰まる。
恋人以上夫婦未満。
何の約束も要らない、誰かに説明できるような肩書きも要らないはずの、二人の関係。
「・・・一緒に、暮らしてました。」
男はそれを聞いて、少し驚いたようだった。
「ほう・・・それなら、明日から毎日のようにこんな目に遭う覚悟は、しなくてもいいのかな?」
からかうような口調に、花梨が憮然とする。
どうやらこの男は、昔の翡翠しか知らないらしい。
たくさんの女性が翡翠を訪ねて来るとでも思っていたのだろう。
そして、最初の質問は、翡翠との付き合いの深さを計るためのものだったのだ。
「今の翡翠さんは、そんな人じゃありません。」
「そうかい?・・・ま、君のような美しい女性がそう言うのなら、信じない訳にはいかないね。」
花梨の言葉に微笑んで頷くと、男はゆったりとした動作で煙草を吸った。
昔の翡翠を思わせる言葉。
だが、花梨はその男を翡翠と重ねられない。
煙草の吸い方が違う。
微笑み方が違う。
似ているからこそ、花梨は心の中で翡翠との違いばかりをあげつらってしまう。
会いたいのは、翡翠ただ一人なのだ。
「翡翠さんはどこへ行ったんですか?」
花梨が焦った口調で言うと、男は眉を寄せてふむ、と息をついた。
灰皿を見つめたまま、口を開く。
「翡翠が君に何も知らせないまま去ったということは、どこに行ったのか知られたくないのだと思うよ。」
「・・・どうして・・・」
呆然と独り言のように言った花梨に、男は他人事という顔で首を傾げる。
「さあ。君に嫌われるとでも思ったのではないかな。」
「そんな!私が翡翠さんを嫌うなんて、絶対に有り得ません!」
声を荒げた花梨を見て、男は哀れむような顔をした。
「・・・事実を見た方が、諦めがつくかもしれないね・・・」
壁に吊るされたカレンダーを見ると、続ける。
「・・・三ヶ月・・・」
「え?」
「三ヶ月、待ってはくれまいか。」
目を丸くした花梨に、男は内ポケットから名刺を出して、渡した。
「三ヶ月経って、まだ君が事実を知りたいと思っていたら、電話しておくれ。」
名詞には、『オレンジブロッサム 首都圏事業部長 橘 友雅』と書いてあった。
翡翠と同じ苗字。
「あの・・・翡翠さんのご兄弟なんですか?」
花梨がおずおずと尋ねると、友雅は優雅に微笑んで、言った。
「そうだよ。腹違いだけどね。」
花梨が絶句する。
花梨から次の質問が出ないのを見て、友雅は話を戻した。
「その名詞を見て分かるとおり、明日以降、ここに私は居ない。新しい店長が来るからね。」
言いながら煙草の火を消して立ち上がると、友雅は続けた。
「君が本当にあの男を愛しているのなら、待てるはずだ。」




小さな駅を降りると、バスロータリーの中央に、大きな看板が立てられていた。
『いよかんのまち いよまち』
センスが良いとは言い難い。
花梨はあたりを見回した。
『駅を降りれば、分かるだろう。』
友雅はそう言ったのだ。
小さなものも見逃さないよう、ロータリーを囲む建物を見回す。
その時。
忘れもしない、翡翠の顔が目に飛び込んできて、花梨は思わず声に出していた。
「・・・翡翠さん!」
駆け寄ると、それはポスターだった。
最高の営業スマイルを浮かべた翡翠の写真の横に「たちばな 翡翠」と大きく書かれている。
花梨はポスターが貼られている掲示板に目を移した。
「伊予町会議員・・・選挙?!」
なぜ。
なぜ翡翠は、こんな所で議員に立候補しているのか。
花梨は焦って踵を返すと、タクシー乗り場へ駆け出した。
「あのっ、翡翠さ・・・橘翡翠さんのところへ!」
言いながらタクシーに乗り込むと、運転手はのんびりとした声で言った。
「ああ、ウグイスさん?明日からだからねえ。」
「ウグイス?」
「違うん?いい声だからてっきり・・・」
言いながら車を出す。
のんびりとした様子に、花梨の焦った心が静まっていく。
「あの・・・翡翠さんのことはご存知ですか・・・?」
「ん?まあ、知り合いって訳じゃあないけど、町長の息子だから顔ぐらいはね。なんでも東京で経営の勉強しとったとかで、ずいぶん立派になって戻ってきたらしいねえ。町長も大喜びで、後援会を総動員しよるって話だよ。」
花梨が絶句する。
町長の息子だなんて初耳だし、経営の勉強をしてきたなんて、大嘘もいいところだ。
いや、確かに喫茶店を経営していたのだから、厳密に言えば嘘ではない。
「あ、もしかして東京の人?」
運転手が、バックミラーでチラリと花梨を見る。
「え、ええ、そうですけど・・・」
しどろもどろで答える。
翡翠がわざと大嘘ギリギリの評判を流しているのなら、それに合わせなくてはいけない。
「やっぱり。ちょっとこの辺では見ないような美人さんだもん。東京から美人さんが応援に来るなんて、隅に置けんねえ。」
運転手の話はそこで終わったので、花梨がほっと胸を撫で下ろす。
ほどなく、『たちばな翡翠 選挙事務所』と大きく書かれた看板の横に、タクシーが停まった。
「翡翠さんの所って、ここでかまわん?」
「はい。」
いきなり家に行くより、ここの方が翡翠に会える確率が高そうだ。
花梨が初乗り料金だけしかかからなかったことを詫びながらタクシーを降りると、運転手は人懐こい笑顔を浮かべて手を振り、車を出した。
タクシーを見送ると、花梨はそっと選挙事務所の様子を伺う。
外壁に何枚も貼られた翡翠のポスターにしつこく微笑まれ、居心地が悪い。
開け放された扉から人が出入りする気配はなく、花梨は意を決して建物に入っていった。
壁一面に紅白幕と翡翠のポスターが貼られた事務所に入ると、数人の男たちがパイプ椅子に座って長机の上に載った蕎麦を啜っていた。
その中で一番若い30代ぐらいの男が花梨に気付いて、口を動かしながら立ち上がる。
「あ、お食事中にすみません。」
花梨がぺこりと頭を下げると、若い男が首をかしげる。
「えっと・・・どっかで見た顔だけど・・・島村さんとこの嫁さんだっけ?」
「いえ、高倉と言います。」
花梨の顔を何となく知っているということは、公に知れている花梨という名前を出さない方がいい。
とっさにそう判断した花梨は、苗字だけを告げた。
「あれっ、違ったかあ。すみません。で、何か?」
「あの・・・翡翠さんは、居ますか?」
「え?翡翠さんに直接会いたいの?」
若い男は目を丸くすると、後ろの男性たちを振り返る。
一番奥に居た初老の男性が顔を上げると、不思議そうに花梨を見てから口を開いた。
「橘さんは、夕方にならんと戻らないけん、急ぎよるならタウンミーティングの会場まで車で乗せてってやるよ。」
「あ、いえ、急がないです。ここで、待たせていただいてもいいですか?」
「ふーん?ええけど・・・マニファクチャの説明なら、わしらでもできるんよ。」
「マニファクチャ?」
「マニフェストのことね。」
花梨が首を傾げると、若い男が慌てて訂正する。
「そうそう、それ。」
初老の男が悪びれもせず、のんきに頷く。
花梨は思わず笑顔になると、首を振った。
「そのことじゃないんです。」
「あ、そう。」
初老の男は少し残念そうにして、再びそばを啜った。
「おい、お茶!」
若い男が奥の部屋へ叫んでから、花梨を応接室へ案内する。
促されてソファに座ると、薄い冊子を渡された。
「暇つぶしに、読んでいてください。」
表紙にはポスターと同じ翡翠の笑顔が印刷され、マニフェストと書いてある。
「お茶はどこ?」
女性の声がして、若い男がそちらを向く。
「こっちこっち。」
エプロンをした女性が応接室に入ってくるなり声を上げた。
「あっ!」
目を丸くして花梨を見つめる。
「・・・あの・・・もしかして、花梨お姉さん・・・ですか?」
「えっ・・・」
認めてしまっていいのか迷った花梨が絶句すると、若い男が女性を振り向く。
「誰かに似よると思ったら、花梨お姉さんか・・・でもお前、他人の空似っていうのもあるだろ。」
「だって、翡翠さん、花梨お姉さんの知り合いだって言うとったもん。」
若い男が目を丸くして花梨に向き直る。
翡翠が自分のことを周囲に話していたと知って、嬉しくなった花梨は微笑んで頷いた。
「高倉花梨です。」
二人が顔を見合わせたあと、急に慌てだす。
「えーと、お菓子、お菓子!」
「お前、その前にお茶を置け!」
「そ、そうね!」
女性が花梨の前に恐る恐るお茶を置いたのを見て、花梨は微笑んだまま言った。
「あの・・・こっそり来てるんで、どうぞお構いなく。」
「あっ、そうですよね。騒いですみません。息子がお姉さんの大ファンで・・・新しいお姉さんになってからは、花梨お姉さんじゃないから嫌だってDVDしか見なくなっちゃったぐらいなんですよ。」
「ありがとうございます。」
「翡翠さんもね、よくDVD貸してくれって言うんですよ。」
「・・・そう、ですか・・・」
DVDを見たがるぐらいだったら。
なぜ、翡翠は自分の許を去ったのか。
花梨の中に再び疑問が湧き上がる。
花梨の顔が強張ったのを見て、若い男が口を開いた。
「おい、余計なことペラペラ喋らんで菓子でも持って来い。」
「あっ、ごめんなさい!」
女性が慌てて応接室を出て行く。
「じゃ、ごゆっくり。俺、食べたら出かけるんで、何かあったらアイツに言ってください。」
そう言うと、若い男も応接室から出て行った。
一人になり、花梨がため息をつく。
知らない町。
考えたこともなかった政治家という仕事。
そして、選挙。
友雅が言っていたことは、こういう事だったのだ。
「失礼します。」
先ほどの女性がお菓子を皿に入れて持ってきた。
「あ、本当にお構いなく。急に来ちゃったんで・・・」
花梨が申し訳なさそうに言うと、女性が感激の顔で首を振る。
「いえ、花梨お姉さんのお世話したって言ったら、きっと息子が喜びます。」
「おーい!ヤッコちゃん、水ちょうだい、水!」
扉の向こうから声がすると、女性は会釈をして出て行った。
「まったく、好きですねえ。」
扉の向こうで女性の声がして、男たちがどっと沸く。
花梨はお茶を飲みながら何とはなしにその会話を聞いていた。
「で、どれにするん?」
「山本県議から来たのが旨かったなあ、あれ、まだあるかい?」
「ありますよ。ツマミは?」
「カキピーでええよ。」
花梨が首をかしげる。
どう考えても水の話とは思えない。
多分、酒だ。
選挙のルールは詳しく知らないが、わざわざ水と言っている所を見ると、違反なのだろう。
「じゃ、俺もう行きます。」
若い男の声がする。
「おい、お前今夜の予定は?」
「何もないスけど。」
「告示前夜に何もない?青年会は何しとん?」
「すんません。」
「まあええ。初めての選挙だしな。6時から伊予囃子保存会の飲み会があるから、お前行って実弾落として来い。」
「そうそう、保存会は森議員の姪っ子が入っとるからな。」
「そんな、急に言われても持ち合わせないっスよ。」
「アホ。自腹切れる額だと思っとるんか?ヤッコちゃんに金庫開けてもらえ。」
「保存会はしょー飲みよん、10じゃ済まんで。」
「ええっ?そんなに出すんスか?ヤバイでしょ。」
「向こうも分かっとうよ。」
「そ。祭りもないのにわざわざ選挙前に飲み会しよる。会長がキレ者なんよ。」
「・・・分かりました。行ってきます。」
「そんな顔せんでええ。責任はわしらが持つ。」
花梨が青くなる。
とてもマズイ話を聞いてしまったような気がする。
どうやら、選挙違反ギリギリの行為がまかり通っている町らしい。
どこの選挙でも普通に出されるようになったマニフェストが浸透していないように見えるのも、それが原因かもしれない。
手もとの薄い冊子を開く。
『たちばな翡翠は、5つの約束を守ります。
1.町の財政赤字をなくします。
2.青少年の健全育成を目指し、若者の首都圏への流出を防ぎます。
3.町役場のサービスを向上します。
4.老人福祉センターのデイケアサービスを拡充します。
5.町会議員の給与カットを提唱します。』
マニフェストとは言いにくい。
政治のことには詳しくない花梨にも、それくらいは分かる。
花梨が初めて投票する権利を得た頃は、そういった公約じみたマニフェストが多かったが、最近はどこの党も具体的な数字を出すようになっている。
花梨が冊子をテーブルの上に置くと、深くため息をつく。
分からないことばかりで、頭がごちゃごちゃだ。
高価そうなソファーにもたれれば、心地よいクッションが背中を包む。
朝早くに東京を出て、ずっと緊張しっぱなしだったので、とても疲れている。
花梨はいつの間にか瞳を閉じていた。


「おお、どうだった?」
「5人。相変わらず散々ですよ。」
懐かしい翡翠の声に、眠っていた花梨が飛び起きる。
いつの間にか、日が傾いていた。
「橘さんがマニフェストの説明しても、ポカンとしとった。」
「まあ、そんなもんだろうな。誰も政策になんか興味ないわ。」
「ええ、分かっていますよ。ポーズですから。」
「マニファクチャだって、誰も読まんよ。」
「それも分かっています。新しい風を吹き込んだというイメージだけでいいんですよ。」
「ふーん?よう分からんが、青年会はあんたのこと尊敬しとるからええよ。わしらには分からんカタカナ言葉で盛り上がっとう。」
「カタカナ言葉・・・ね。それも一つの戦略です。新しい感じがするでしょう?」
「まあなあ。」
間延びした返事に、翡翠がクスクスと笑う声がする。
懐かしい翡翠の笑顔が花梨の脳裏によみがえった。
「ああそうだ、応接で客が待っとるよ。」
「誰ですか?」
「さあ。翡翠さんに会いたいって美人さん。」
「ほう、それは嬉しいな。」
笑みを含んだ翡翠の声に、シャシャシャという老いた笑い声が答えた。
軽いノックの音がして、花梨は緊張して立ち上がった。
翡翠が営業スマイルを浮かべながら扉を開け、花梨を見た途端に固まる。
3ヶ月ぶりの翡翠。
少し、痩せたように見える。
ネクタイをきっちりと締め、アンサンブルのスーツを折り目正しく着こなした、およそ翡翠らしくない格好。
それでも、紛れもなく、花梨が会いたい、ただ一人の人だ。
花梨がみるみる瞳を潤ませる。
改めて思う。
どんな翡翠でもいい。
愛している、と。
翡翠は眉間をつまんでぎゅっと瞳を閉じてから、もう一度花梨を見ると、我に返ったように慌てて応接室の扉を閉めた。
幾度も見た幻では、ない。
「翡翠さん・・・」
花梨が涙をこぼしながら、ヨロヨロと翡翠のもとへ歩み寄ろうとする。
翡翠は足早に近づいて、花梨を強く抱き締めた。
3ヶ月ぶりの翡翠の匂いと温もりに、花梨の胸が締め付けられる。
聞きたいことも、言いたいことも、たくさんあったはずなのに、ただ、泣くことしかできない。
泣きじゃくる花梨の頭を、翡翠は悲痛な面持ちで撫で続ける。
花梨にこんな思いをさせることは、分かっていたのだ。
だからこそ、その姿を見ないで済むような方法を取って別れたつもりだった。
他に愛する女性ができたと手紙に書くべきだった。
友雅に口止めしておくべきだった。
今さら遅すぎる後悔。
違う。
それができなかったのは、他でもない自分。
心のどこかで、花梨が追いかけてくるのを待っていた自分。
自分の中の未練が、詰めを甘くさせたのだ。
「すまなかったね・・・黙って出て行ったりして・・・」
小さく呟かれた翡翠の言葉に、花梨が泣きながら震える声を返す。
「・・・お願い・・・もう、黙って居なくなったりしないで下さい・・・」
翡翠が黙る。
それは、約束できない。
花梨と別れようという意思は変わらないのだ。
花梨が不安そうに顔を上げる。
翡翠はポケットからハンカチを出して、花梨の涙を丁寧に拭うと、小声で言った。
「・・・場所を変えよう。」
扉の向こうで、こちらの様子を伺っている気配がする。
「花梨、宿泊の手配は?」
「・・・隣駅の前にある南伊予ビジネスホテルを取りました。」
「分かった。すぐにそこをキャンセルしよう。」
「へ?」
花梨が目を丸くすると、翡翠はワイシャツの胸ポケットから携帯電話を出して短くボタンを押す。
『はい、オレンジブロッサム社長秘書室です。』
翡翠が見つめる携帯電話から、女性の声が小さく漏れる。
「お疲れさん。」
『お疲れ様です、専務。』
翡翠は画面に向かって笑みを浮かべると、続けた。
「頼みがあるんだけど、いいかな?」
『はい。どうぞ。』
「ホテルのキャンセルと予約なんだけど。宿泊者の名前は高倉花梨様。」
『たかくら・かりん様ですね。』
「そう。で、キャンセルするのは南伊予ビジネスホテル。予約は瀬戸内ロイヤルホテルのスイート。」
『すみません、宿泊日はいつですか?』
「今夜。」
『えっ、今夜ですか?それに・・・スイートにお一人で?』
「そ。ロイヤルが渋るようなら新入社員歓迎パーティーの額を再考するって脅してやればいいよ。」
翡翠が笑みを深くする。
『・・・分かりました。』
「それと、二人でゆっくり食事をしたいから、ルームサービスでディナーの予約を・・・あそこは確かフレンチが美味しかったかな。」
『はい。以前、和食は味が濃くて中華は油っぽいと社長が仰ってました。』
「なるほど、親父は舌だけは確かだからね。じゃ、よろしく。芸能界の方だから、粗相のないように。」
『はい。では朝食もルームサービスで予約しておきます。』
「うん。そうしてくれるかな。もちろん交際費で落としてね。」
翡翠は満足そうに笑んでから携帯電話を畳むと、呆然とする花梨にウインクして、扉の向こうに聞こえるように言った。
「東京ではずいぶん世話になったから、今夜は美味しいディナーを奢るよ。」


ウエイターが全ての皿を片付け、部屋から出て行くと、花梨は窓際へ歩み寄って夜景を眺めた。
「港の灯りがきれいですね・・・」
「夜釣りだよ。今の季節はアジかな。」
言いながら上着を脱ぎ、ネクタイを緩めると、翡翠はソファーに身体を沈めて煙草に火をつける。
ライターの音に花梨が振り返って、翡翠に歩み寄る。
「翡翠さん、タバコ・・・また吸い始めちゃったんですか?」
「ん?ああ・・・何となく、落ち着かなくてね。」
花梨が黙って翡翠の横に座り、翡翠の手から煙草を取り上げると、灰皿でもみ消す。
「花梨・・・」
「一緒に暮らしはじめた時、すぐ禁煙してくれたのに・・・」
「君が居なければ、禁煙する必要もない・・・」
冷たい声音で言うと、翡翠はそっと花梨の肩を抱き寄せて、続けた。
「・・・明日、朝一番の便で、帰りなさい。もう、会わない方がいい。」
花梨が愕然として翡翠を見つめる。
「どうして・・・?」
「どうしても何も、今の私は君の知っている翡翠ではない。分かるだろう?」
「分かりません!翡翠さんは翡翠さんです!」
「分かっておくれ。私はもう自由じゃない。」
「そんなこと分かってます!」
頑なに言い張る花梨の様子に、翡翠も少しずつ冷静さを失っていく。
「だったら、これからどうやって私たちの関係を続けていくつもりだい?」
「会いに来ます!オフのたびに!」
「花梨、私は以前のようにシフトで働いているわけではないのだよ。食事中に言ったように、当選すれば町会議員とオレンジブロッサムの専務を兼任することになる。休日などないに等しい。私と会うために無駄な労力を費やすより、他の相手を探しなさい。」
「・・・本気で言ってるんですか?!」
花梨の瞳が潤む。
翡翠はその瞳を見つめられず、目を伏せて頷く。
「本気だよ。この10年、私は君と過ごせて幸せだった。一生分の幸せをもらった。もう十分だ。結婚を意識し始めた君を、これ以上、私に縛り付けたくない。」
「・・・気付いて・・・気付いてたなら、どうして結婚してくれないんですか?!」
「議員の妻がどれだけ世間体に縛られるか、君は分かっていない。」
「そんなこと、翡翠さんと一緒なら、平気です!」
「それだけじゃない。政治家という稼業は、後ろ暗いことばかりなんだ。」
「そんなこと知ってるもん!」
「・・・何を知ってるのかな?」
思わずからかうような笑みを浮かべた翡翠に、花梨は憮然として答える。
「事務所でお酒飲んだり・・・飲み会でお金渡したり・・・」
翡翠がギョッとしてから、真顔になる。
「・・・花梨、済まないが、今の話を私にしたことだけは、黙っていておくれ。」
「大丈夫です。何も言いません。」
「いや、警察の手が回ったら、その話を聞いたことはすぐに白状した方がいい。」
「だって、そうしたら・・・」
「後援会長は常に覚悟が出来ている。後援会が勝手にやったことだと私が一言言えば、全てのカタが付くようになっている。」
花梨が驚愕に瞳を見開く。
翡翠がそれを見て、大きくため息をつく。
「・・・こんな事に、君を巻き込みたくなかった・・・花梨、分かるね。私の妻になったら、これだけじゃすまない。知っている事と知らないフリをしなければいけない事の区別に追われる日々が一生続く。」
花梨が俯く。
説得が成功しかけているのを感じて、翡翠は胸の痛みに顔を顰めながら続けた。
「それに、一歩間違えば犯罪者の妻だ。それどころか、共犯者にもなり得る。」
「・・・・・・」
重い沈黙。
俯いたまま黙り込む花梨の頭を撫でて、翡翠は静かに言った。
「・・・飛行機の手配をしよう。」
翡翠が花梨の頭から手を離し、携帯電話を取り出そうとする。
その腕をつかんで、花梨が小さく首を振った。
「花梨・・・」
怒ったような呆れたような、しかし安堵したような声が、翡翠から漏れる。
花梨が翡翠の腕から手を離すと、瞳を潤ませてぽつぽつと話し出した。
「今まで、私・・・翡翠さんのこと、何にも知らないままで・・・でも・・・いろいろ分かっても・・・やっぱり私、翡翠さんと離れたくありません・・・翡翠さんは悪いことをしてても、悪い人じゃないもの・・・翡翠さんが過去や故郷のことを話したがらなかったのも・・・束縛されることを嫌うのも・・・きっと、そういう悪いことから自由になろうと一生懸命で・・・でも、伊予に戻って来ることしか出来なかった・・・」
「・・・その通りだよ・・・だからこそ、君には自由で居て欲しいんだ。」
苦しげに言った翡翠に、花梨は瞳から涙を溢れさせて叫んだ。
「翡翠さんの居ない自由なんか、いりません!」
花梨は俯いて泣きながら、なおも続ける。
「それに、こんなの自由じゃない!私が翡翠さんと結婚したいと思うのも自由でしょう?!」
翡翠がはっとする。
花梨が顔を上げると、涙を零しながらまっすぐと翡翠を見つめて言った。
「ただ肩書きや書類に縛られずに、その場その場を幸せに生きることだけが自由じゃないと思います。」
翡翠が黙って花梨を見つめ返す。
「翡翠さんは、私の自由を奪おうとしてます。それに・・・」
花梨は翡翠に抱きついて、続けた。
「・・・翡翠さんは、もう私の自由を奪ってます。私の心はとっくに翡翠さんに縛られて、離れられなくなっちゃってるのに・・・それを今さら・・・酷いです・・・」
黙ったまま、翡翠が花梨を強く抱き締めて目を閉じる。
自由であったはずの10年。
そして、その自由を捨ててきたはずの翡翠。
だが、花梨が言ったのと同じく、翡翠の心も花梨に縛られたまま、忘れることなど出来なかった。
狂おしいほど、花梨との思い出に縛られていた、3ヶ月。
翡翠が恐れていた、束縛。
恋に落ちた時点で、互いの心はとっくに束縛されていたはずなのに。
籍を入れないということだけで、自由だと自分に言い聞かせてきた。
過去や責任を共有しないことで、花梨が自由で居られると思い込んできた。
花梨の言うとおりだ。
束縛を選択するという自由。
愛するという自由。
愛と自由は、決して相反するものではない。
花梨となら、愛も自由も、両方手に入れることができるはず。
翡翠は瞳を開くと、泣いている花梨の顔を片手で上向かせ、強引に口付けた。
花梨の身体がビク、と震える。
久しぶりの、花梨の味。
本当は、触れたくて仕方がなかったのだ。
激しい口付けを受け止めるため、花梨が翡翠のワイシャツをつかむ。
翡翠の手が、花梨の背中を這う。
「・・・んっ・・・」
ワンピースの上から指先で弱い部分を撫で上げられて、花梨が小さく声を上げた。
その声を聞いた翡翠が唇を離すと、満足そうな笑みを浮かべて言った。
「花梨、オフはいつまで?」
「・・・明後日までです。」
翡翠の唇から口紅を拭いながら、花梨がトロンとした顔で答える。
泣きすぎと口付けの快楽で、頭が朦朧としているのだ。
「明日、朝一番で婚約指輪を買いに行こう。告示と同時に婚約発表をして、そのまま君を街宣車に乗せて町内を回る。」
「へ?」
花梨が目を丸くする。
「男たちは利権が絡めばいくらでも操縦できるのだが、女性はなかなか難しくてねえ。特に、大人の色気が分からない女性たちに、私はイマイチ人気がないのだよ。芸能人の派手な結婚は、若い女性の憧れだろう?」
翡翠の顔に、久しぶりに見る余裕の笑みが戻っているのを見て、花梨がじわじわと笑顔になる。
「明後日、東京へ戻ったら、事務所を通してマスコミに婚約を発表しておくれ・・・なるべく派手に。」
悪戯っぽく花梨を見つめる翡翠に、花梨は大きく頷いて、強く抱きつく。
「翡翠さん、大好き!」
翡翠は嬉しそうにそれを受け止めると、腕の中の花梨に囁いた。
「私の悪巧みに、一生かけてついて来てくれるね?」




解説ターイム。
翡翠さんと花梨ちゃんの10年後です。
ある意味、本当のエンディングです。
最初に特筆しておきますが、伊予町は架空の町で、伊予市とは全く関係ありません。
なまりについては、四国出身の友達の言葉を参考にさせていただきました。
が、四国地方が田舎という意味でも、四国地方で選挙違反がまかり通っているという意味でもありません。
日本のどこかにそんな田舎町があるのです、きっと。
不快に思われた四国出身の方は、拍手等で仰っていただければ、なまり表現を修正いたします。
さてさて、翡翠さんの話に戻りますが。
オフィシャルの翡翠さんは伊予の海賊という設定なので。
地域一帯を仕切って悪いことをしているという点から、現代アレンジしてみました。
翡翠さんが悪徳(?)政治家兼オレンジブロッサム社長の息子という設定は以前から
あったのですが、それをいつカミングアウトするのかについては、難しかったです。
ウチの翡翠さんは、そのことを言わないまま10年ぐらい過ごしちゃうような気がしました。
そして、自分の年齢を考えて、花梨ちゃんの幸せのために身を引いちゃうような気がしました。
束縛や悲しみを恐れ、享楽的な世界に一時的に逃げ込んでいる人。
子供っぽい反面、大人じみた物分りの良さも併せ持つ人。
賛否両論あると思いますが、これが、れなのリアルアレンジ翡翠さん像です。
それと、そんな翡翠さんに純なまま手込めにされてしまった花梨ちゃんも。
翡翠さんの自由論に何の疑問も持たず、10年ぐらい過ごしちゃうような気がしました。
翡翠さんの方から率直に話さない限り、二人の関係は過去も未来もないままだと思ったのです。
そこから、今回のお話ができました。
オフィシャルの翡翠さんは、ゲーム中にあまり海賊っぽいところを見せません。
じゃあ、京ED後に翡翠さんが海賊の仕事をしているのを実際に見たら、花梨ちゃんはどう思うのか。
翡翠さんは、そんな汚い部分を一切花梨ちゃんに見せずに夫婦関係を保つのだろうか。
その辺も自分の中で片付けたかったので、space-time的に置き換えて書いてみました。
ちなみに、花梨ちゃんが美人さんと言われまくってるのは、ワザとです。
他のメンバーとのEDに比べ、翡翠さんEDの花梨ちゃんは、お化粧濃い目の美人さんに成長します。
女の子は、好きな男性の好みに合わせて、いくらでも変身できると思うので。
他のメンバーは多分、独占欲から「綺麗になるな」とか言ったり、口説き文句的に
「そのままの貴女が好き」とか言うばかりだと思うのですよ。
翡翠さんは花梨ちゃんが綺麗になるのを大いに喜び褒めると思うので。
花梨ちゃんは腕によりをかけて外見を磨いちゃうと思います。
翡翠さんもそんな花梨ちゃんに喜んでエステ代とか出してくれると思います。
あ、それと、オレンジブロッサムってチェーン展開してたのか!!と思った方も多いと思います。
花梨ちゃんも知らなかった事実なので、分かる人だけ分かるように書いてました。
POSシステムを導入してたり、店長室で発注伝票見てたりしたのが証拠です。(笑)
ただ、全国展開しているほど大きい会社ではありません。
翡翠さんが勝手に季節の新メニューを作っていたように、いわゆるファミレスとも少し違います。
詳しくは過去話で明かせると思います。




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こっそり。
余力がありましたら、この日の夜を地下にUPしようと思っています。