虹のかなたに
いつものように花梨が10分前にin the timeに着くと、和仁が接客カウンターに何かを広げて作業していた。
「和仁さん、こんばんは。」
和仁が顔も上げずに答える。
「まだ誰も来ていないぞ。」
「そうですか・・・」
接客カウンターの椅子に腰掛ける。
「キレイですねえ。これは何に使うんですか?」
花梨は白いカウンターに広げられた色とりどりの花びらのようなものに目を奪われる。
「9、10、11・・・今話しかけるな!」
「ご、ごめんなさい・・・」
花梨が縮こまった。
ファイルに挟んである用紙に17、と書き留めてから、やっと和仁が顔を上げる。
「何だ?」
「いえ、お仕事の邪魔しちゃいけませんから・・・」
「別に邪魔ではないぞ。数えているときに話しかけるから怒ったのだ。」
和仁はそう言って花梨の言葉を待つ。
「えっと、これは何に使うのかな、と思って・・・」
花梨が広げてあるものを指差した。
「ピックだ。ギターを弾くときにこれで弦をはじくのだ。」
「へえ〜。」
しげしげと見つめる花梨を和仁が怪訝な顔で見る。
「欲しいのか?」
「いえ、花びらみたいでキレイだな〜と思って。」
和仁が驚いたような顔をした。
ピックに視線を落として自嘲的に呟く。
「花びら・・・か。」
「数えてどうするんですか?」
「ん?・・・ああ、棚卸だ。」
「あ、バイトでやったことあります。月末に店中のものを数える仕事ですよね。」
「本質は捉えていないようだが、そういうことだ。」
和仁が呆れ顔で言った。
「手伝います!」
花梨はピックを触りたくてうずうずしていた。
「何?!」
「数えるの、やってもいいですか?」
「ああ、構わないが・・・」
「どれを触っていいですか?」
「お前・・・触りたいだけだな?」
「ごめんなさい。当たりです。」
花梨が肩をすくめる。
和仁が微笑んだ。
「好きなのを一つ持って行け。」
「え?」
「お前にやる。」
「でも・・・時朝さんに怒られちゃいますよ。」
「時朝が私に怒るなどあり得ん。それに、心配しなくても私が払う。」
「そんな、悪いですよ。」
「受け取れ。礼にしては安いがな。」
「お礼?」
「ルーチンワークを効率的にこなすには常に新鮮な気持ちが求められるのだ。」
「はあ・・・」
全く意味が分からずに花梨が首を傾げていると、自動ドアから幸鷹が入ってきた。
「あ、幸鷹さん、こんばんは。」
「こんばんは。」
幸鷹が二人に向かって微笑み、和仁が軽く手を上げる。
「スタジオ予約のことでお話があるのですが。」
和仁がスタジオ予約台帳を出す。
花梨は、和仁がそれ以上の説明をしてくれそうもないので、ピックを選び始めた。
持ってみると、ピックは思ったよりも薄く、軽くて儚かった。
黒色にメーカーのエンブレムというデザインが主流だが、ピンクや白のものもある。
べっ甲でできているように見える半透明のピックを子供のように蛍光灯にかざす。
銀色でメーカー名が刻印されていて上品な感じだ。
それを貰うことにすると、幸鷹と和仁の話が終わるまで、花梨はピンク色のピックを花の形に並べたりして無邪気に遊んだ。
幸鷹と和仁は、話しながらも、可愛らしいその様子をチラチラと見ていたのだった。
「今日は集まりが悪いですね。」
幸鷹が首をかしげた。
7時を10分過ぎて、頼忠のドラムを組み立て終えても、イサト、彰紋、泉水の3人が来ていなかった。
時間前に来るタイプの彼らだけに、他のメンバーも不思議そうにしている。
「勝真さん、イサトさんから何か聞いてますか?」
「いや。」
ベースを肩にかけながら勝真が首を振る。
「事故に遭ったりしていないと良いのですが・・・」
幸鷹がマウスピースにリードを挟みながら微かに眉を寄せた。
彰紋や泉水が居たら同意の言葉を発するだろうが、誰も答えない。
花梨はする事がないので椅子に大人しく座っていた。
泰継がキーボードから音を出し始め、ピアノソロの部分をさらう。
ミスタッチをすることなく流れるピアノソロは、ソロというより決められた曲のようだった。
泉水の楽譜どおりに弾いているのだから、そう聴こえるのは仕方のないことだ。
勝真がアンプの前に小さな機械を置いて音を出す。
機械に赤いランプが点り、勝真が弦を調節した。
翡翠がスパナのようなものでボンゴの皮を張ると、いつもの笑みを浮かべながら軽く叩いて強度を試す。
頼忠もドラムセットの配置を終え、いきなり歯切れよくスネアドラムを叩くと、そのままリズムパターンを刻み始めた。
花梨がそんな彼らに見とれていると、防音ドアが開く。
「すみません、遅れました!」
彰紋が息を切らせて入ってきた。
土曜日なのに制服だ。
「文化祭の練習が長引いて・・・」
言いながら壁際の長机にハードケースを置く。
ズボンのポケットからゴソゴソと薬用リップクリームを出すと、サッとつけてまたポケットに入れた。
長時間トランペットを吹くと唇が乾くのは、花梨もよく知っている。
しかし、リップクリームをつける男の子を見るのは初めてだった。
リップクリームを使う彰紋の様子に恥じらいや後ろめたさはなく、実用性のみを重視しているのが伺える。
彰紋はハードケースからトランペットを取り出した。
いつものように慣らさずに、すぐにマウスピースを取り付け、音を出す。
割れたような大きい音が出て、今日一日の彰紋を物語った。
再び防音ドアが開く。
「申し訳ありません・・・」
泉水がおずおずと入ってきた。
全身で申し訳なさを表す泉水を元気付けようと、彰紋が笑顔を向ける。
「僕も今来たばかりなんですよ。でも、泉水さんが遅れるなんて、珍しいですね。」
「実は・・・昨晩徹夜でこれを仕上げて、昼頃に寝たら寝過ごしてしまったのです。」
大きなブリーフケースを開けると、人数分コピーされた楽譜を出した。
「もう仕上げてくださったのですか?」
幸鷹が目を見開く。
他のメンバーも手を止めると、泉水の周りに集まってきた。
花梨も近づく。
「私の作業が遅いせいで花梨さんがつまらない思いをしては申し訳ありませんので、まずはジャズの楽譜を仕上げました。」
泉水が花梨に優しく微笑む。
「ありがとうございます、泉水さん。」
花梨が感激の声で言った。
「良かったね、姫君。」
翡翠がさりげなくその頭を撫でる。
花梨がくすぐったそうに肩をすくめると、その場に居る全員がジットリと翡翠を見た。
幸鷹がわざとらしく咳払いをしてから口を開く。
「では、さっそく今日合わせて、次回から花梨さんが歌う時間を作れるようにしましょう。」
「えっ?一日で合わせられちゃうんですか?」
「有名な曲ばかりだからな。」
驚く花梨に勝真が笑いかける。
そのうしろで、ドアが開いた。
「わりぃ!明日体育祭でさ・・・あれ?何してんの?」
Tシャツにジャージ姿のイサトが入ってきて目を丸くした。
1時間ほど練習時間をとってから、幸鷹が手を上げた。
音が止む。
「そろそろ始めましょうか。『虹の彼方に』からでよろしいですか?」
全員から返事がないのを見て了承と受け取った幸鷹が泰継を振り向くと、キーボードから音が出た。
チューニングが始まる。
「彰紋、高いぞ。」
「すみません。」
彰紋が首を傾げながら管を調節する。
もう一度泰継がキーボードから音を出す。
「彰紋、さっきと変わらんぞ。」
「あれ?」
彰紋が困り果てたような顔で首をかしげた。
「彰紋さん、もしかしてオケピッチですか?」
「あ・・・!」
幸鷹の言葉に彰紋が愕然とした声を出した。
「オケピ?」
「それはオーケストラピット。」
訊ねるイサトに勝真が漫才口調で言った。
ご丁寧に漫才師を真似て右手を振る。
「私達はキーボードに合わせて440ヘルツでチューニングをしていますが、彰紋さんの吹奏楽部はオーケストラの基準である442ヘルツで演奏しているのでしょう?」
「はい。」
幸鷹の言葉に、辛そうな顔で彰紋が頷く。
「今日一日その音程で練習していたので、耳が慣れてしまって、無意識のうちに口で調節してしまっているのですよ。」
幸鷹がイサトに向かって説明し、もう一度彰紋がしょんぼりと頷いた。
「ふーん。」
イサトが尊敬の眼差しで彰紋を見る。
花梨も同じ気持ちだった。
花梨は自分の部でそんな話を聞いたことがない。
彰紋の所属している吹奏楽部がかなりのレベルであることが分かる。
「泰継さんは気持ち悪いかもしれませんが、今日はこのままやりましょう。」
「分かった。」
「すみません。」
「えっ?どうして気持ち悪くなっちゃうんですか?」
「泰継さんは絶対音感をお持ちなのですよ。」
心配そうに眉を寄せる花梨に、泉水がなぜか辛そうに言う。
「すごい!雨の音が音階に聞こえるって本当ですか?」
「そうだ。私は迷惑している。」
泰継が静かに言い、花梨は口をつぐんだ。
喉から手が出るほどその才能を欲しがっている人も居るのになあ、と花梨は思ったが、泰継の言い分も分かる。
「では、頼忠さんテンポお願いします。」
幸鷹の言葉に頼忠がスティック同士を打ち鳴らして3拍子をゆっくり刻む。
全員がそれを静かに聴いた。
花梨は驚いて、もらった楽譜に目を落とす。
花梨が知っている『虹のかなたに』は4拍子だ。
しかし、泉水の楽譜は3拍子だった。
MDを持ってきた彰紋が言っていたのはこういうことだったのだ。
「よろしいですか?」
頼忠が手を止める。
全員が頷くと、もう一度スティック同士を打ち鳴らしてカウントを出す。
イントロが始まった。
ゆっくりではあるが、間違えた音や大幅なズレは殆どない。
それに比べたら花梨の吹奏楽部で最初に合わせる合奏など、聞けたものではない。
花梨は演奏に合わせて心の中で歌う。
が、よく聞いていると、バラバラと足並みが揃っていないように感じて顔を上げた。
全員が楽譜を追うようにして譜面台と向き合っている。
なんとか最後まで演奏を終えたが、たどり着いたという感じだ。
勝真が右手で顔を覆って呟く。
「だめだ・・・3拍子が取れねえ。」
「日本人には根源的に4拍子が染み付いていますからね。」
幸鷹の言葉に花梨は祭囃子を思い起こした。
「勝真!お前が私と合わなくては始まらない。」
「わーってるよ、頼忠!」
ベースとドラムは曲の土台だ。
リズム隊と称して二つをセットに括る考え方は花梨も知っていた。
「そうだ、姫君に指揮をしてもらうというのはどうだい?」
翡翠が笑みを浮かべながら言った。
「へ?」
急に話を振られた花梨がキョトンとする。
「いい考えですね。」
花梨が可愛らしく指揮をするのを想像してか、幸鷹が笑顔になった。
「指揮なんてやったことないです!」
花梨がブンブンと首を振る。
「いえ。いい考えがあります。」
頼忠が立ち上がり、予備のスティックを取り出した。
そのままスタジオを出てPAルームへ入る。
幸鷹と勝真が顔を見合わせていると、メトロノームを持って戻ってきた。
「なるほどね。」
翡翠が笑みを深くする。
「花梨さん、このメトロノームに合わせて、力いっぱいこのスティックを打ち合わせてください。」
楽譜を追うのに一生懸命な状態の彼らにメトロノームや指揮を見る余裕などない。
かといって、メトロノームの音だけでは、かき消されてしまうのだ。
「これなら、できそうです。」
スティックを両手に持って満面の笑顔になる。
自分にも手伝える事ができて嬉しいのだ。
メンバーもそんな花梨を見て、柔らかく微笑んだのだった。