Fly me to the moon



「さあ、もっとこっちへおいで。」
翡翠がそっと花梨の肩を抱く。
「ひ、翡翠さん・・・やめてください・・・」
花梨が頬を染めて俯くと、その肩に置かれていた翡翠の手が力いっぱい抓られた。
「痛!」
翡翠が花梨の肩から手を外して、手の甲をさする。
「被害者に応じる意思がないにも関わらず一方的にその身体に触れるのは、民法706条の不法行為に当たります。」
幸鷹が立て板に水のごとく言って、翡翠をにらむ。
「ロースクールでの学習が役に立っているようだね。」
翡翠が余裕の笑みを浮かべて言った。
「ええ。お陰さまでセクハラの判例は殆ど頭に入っていますよ。」
幸鷹も笑顔を貼り付けて答える。
「残念だが、君は法曹人よりも瞬間湯沸かし器になった方が能力を発揮できると思う。」
翡翠がそっぽを向いて、そっけなく言った。
幸鷹が黙って肩を震わせる。
あわわ、と二人の間に挟まれた花梨が青くなりながらin the timeの自動ドアの前に立った。
ドアが開くと、入り口のそばで陳列棚にはたきをかけていた和仁がムッとした顔で口を開く。
「なぜお前達が花梨と一緒に来るのだ?」
「今日は花梨さんと歌詞を訳していたのです。」
幸鷹が疲れた顔をしつつ律儀に答えた。
「私の店でね。」
翡翠が続ける。
そうそう、仲良く、と花梨がホッとした顔をしていると、聞きなれない声がした。
「和仁!お客様に偉そうな口を利くな!何のための経営学部だ?!」
接客カウンターに座った男性が和仁をにらんでいた。
向かいには時朝が座っており、カウンターの上には書類が広げられている。
「・・・失礼しました。」
苦虫を噛み潰したような顔で和仁が花梨達に頭を下げた。
花梨は驚いて目を丸くした。
こんな和仁は初めて見る。
思わずもう一度カウンターの男性を見ると、男性も花梨を見ていた。
「貴女が、space‐timeの新メンバーですね?」
「は、はい。」
父親と同じくらいの年齢に見えるが、浮かべた笑顔は驚くほどあどけない。
男性は立ち上がって、胸ポケットから名刺入れを出すと、花梨に近寄り名刺を渡した。
「時朝と和仁がお世話になっております。ミカドと申します。」
名刺には『有限会社 in the time 代表取締役社長  御門 篤仁』と書いてあった。
「しゃ、社長さんですか?!」
「そんなに驚くほどの身分ではありません。時朝と二人でやっている店ですから。」
篤仁が自嘲的な笑みを浮かべる。
「えっと、私、高倉花梨です。よろしくお願いします。」
花梨がまだ自己紹介をしていないことに気付いて、慌てて頭を下げた。
「花梨さんは、とても歌がお上手とか。歌手としてデビューするおつもりはありませんか?」
「えっ?」
顔を上げた花梨が、誰がそんな事を言ったのだろう、と戸惑った顔をすると、篤仁が和仁をチラリと見て言った。
「和仁がよく貴女の噂を・・・」
その言葉を打ち消すように和仁の怒声が飛んだ。
「黙れ!馬鹿親父!」

チューニングが一通り終わると、幸鷹が楽譜をめくりながら言った。
「では、今日は『Fly me to the moon』から合わせましょう。花梨さん、いいですか?」
椅子に座っていた花梨が立ち上がった。
「はい。幸鷹さんのお陰で歌詞の解釈ができたので、今日はちょっと感情を出してみようと思います。」
言いながら中央に立ててあるマイクスタンドの前に立つ。
PAルームのガラスに反射する自分を見ながら、前奏を待った。
頼忠がカウントを出し、シンプルなボサノバで前奏が流れ始める。
花梨が歌い出した。

『Fly me to the moon』は、ラブソングだ。
原曲はワルツだが、ボサノバで演奏されるのが主で、しっとりと歌われることが多い。
歌詞は素敵な恋を夢見る可愛い女性が恋人に愛を囁いているという解釈が殆どだ。

花梨はガラスに映る自分をチェックしながら、コミカルに動き出した。
子供のようにイヤイヤをしたり、ピストルでバーン、と撃つ真似をしたり、くるくると動き回る様子に、メンバーは驚いて釘付けになった。
スカートの裾が激しく揺れる。
パンティーが見えそうになって、一番見えやすい位置に座っている泰継が珍しくミスタッチをした。
歌声もメンバーが予想していたものとはかけ離れていた。
しっとりとは正反対の、明るく、ちょっと悪戯っぽい声を出す。
後奏が終わり、花梨が振り向くと、一人腹を抱えて笑う翡翠以外のメンバー全員が横目で幸鷹を見ていた。
「な、なんですか?皆さん?」
幸鷹が慌てた顔で周りを見回す。
「幸鷹さんが何かしたんですか?」
花梨も不安そうに眉を寄せた。
勝真が自分を落ち着かせるように息を吐くと、花梨に問いかける。
「花梨、どうしてそんな歌い方をするんだ?」
「え・・・おかしいですか?」
花梨はそう言って、まだ笑っている翡翠をチラリと見る。
「い、いや・・・その逆だ。」
勝真は可愛いとは言わず、遠まわしな表現に抑えた。
「よかったぁ。今日、幸鷹さんに歌詞の訳を教えてもらったんですけど、なんか、この歌の主人公ってこんな感じですよね。」
「こんな感じでは分からない。説明してくれ、花梨。」
頬を染めた泰継が言った。
「はい。この人、すっごいワガママじゃないですか?」
「わがまま・・・ですか。」
彰紋が呆然と言う。
子供の頃からジャズに親しんできた彼も初めて聞く衝撃の言葉だ。
「月に連れて行け、とか、歌で心を満たせ、とか、注文つけてばっかり・・・ですよね?」
一応、幸鷹を見て確認する。
幸鷹が苦笑して頷いた。
「それで、最後にアイシテル!なんて、勝手じゃないですか!」
花梨の声が少し憤る。
「だから、小悪魔ちゃんバージョン、なんです。」
小悪魔ちゃん・・・。
メンバー全員が、ほわん、とそれぞれの基準で露出度を高めに設定した小悪魔花梨を思い浮かべてうっふりとした顔をする。
「姫君は本当に私達を飽きさせないね。」
笑いを含んだ翡翠の声に、全員が我にかえった。
「イサト、ヨダレ!」
彰紋が小声でイサトに注意する。
「あ?・・・んあ・・・」
イサトがとろんとした瞳のまま、ズッ、と音を立ててヨダレを啜った。
「何で皆さん幸鷹さんを見たんですか?」
なぜヨダレが出たのか分からない花梨が、無邪気に話を戻す。
「あ・・・それは・・・」
勝真が言い難そうに口ごもる。
「幸鷹が姫君にそう歌えと指導したのだと皆思ったのだよ。」
幸鷹に対する嫉妬が含まれていたことがバレないように、翡翠が説明した。
「あの・・・」
泉水がおずおずと口を開く。
「今の花梨さんの歌に合わせて、少しアレンジを変えたいのですが、楽譜を変えてもよろしいでしょうか?」
「わ!ありがとうございます!泉水さん。」
花梨が嬉しそうに目を輝かせる。
「花梨さんの可愛らしい様子を見ていたら、新しいイメージがわいたのですよ。少しテクノを入れてみたいのです。頼忠さん、次回シンセパッドを持ってきていただけませんか?」
「分かりました。」
「さすが泉水さん!」
花梨がパチパチと手を叩いた。
泉水が花梨に微笑みを返す。
いい雰囲気で笑いあう二人から、他のメンバーが憮然として目をそらした。




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