特別なお礼
駅前商店街とは名ばかりのその通りは、百貨店やファミリーレストラン、パチンコ屋などが古ぼけたアーケードから頭を突き出していた。
所々へこんでいる場所は、再開発にめげず店を守る商店だ。
ミカド楽器のビルは、そんな商店街の外れにある。
白いエレクトーンの上に紅葉が舞うショーウインドウの横を通り、エレベーターに乗った花梨は、4階のボタンを押した。
ミカド楽器は市内で一番大きい楽器店だ。
大手音楽振興会から、音楽教室の運営を認可されている。
その音楽振興会は地域ごとに販売シェアを管理するため、ミカド楽器は、鍵盤楽器と、リコーダーなどの学校教育楽器を市内で販売する契約をしていた。
1〜3階はそれらが整然と並ぶ店舗になっており、音楽教室のフロアは4階と5階だ。
ちなみに和仁達のin the timeは、ギターやドラムスなど、バンド関連楽器を市内で販売する契約をしている。
「こんにちは。」
花梨はエレベーターを降りると受付で挨拶をする。
毎回にこやかに笑顔を返してくれる受付事務のお姉さんが、今日に限ってはっとした顔を返した。
花梨は一瞬不審に思ったが、あまり気にせず、小さな防音室が並ぶ廊下を奥へ歩いた。
自分が使う防音室の前に置いてある長いすにカバンを置く。
防音室の中からピアノの音と歌声が聞こえてきた。
まだ前のレッスンが終わっていないようだ。
花梨は、いつものように受付の前に戻って掲示板のメッセージを見始めたが、すぐに固まった。
「なにコレ?!」
そこには、『花梨へ。レッスンが終わったら5階に来い。』と書いてあった。
掲示板の紙を急いで剥がす。
事情を知っているであろう受付のお姉さんを振り返ると、申し訳なさそうな顔をして言った。
「ごめんなさいね。今日、泰継くんが来るなり、どうしても花梨ちゃんのレッスン曜日が知りたいっていうから、今日だって教えてしまったの・・・もし、困るようだったら、私からそう伝えておくけど・・・。」
「いえ、大丈夫です。こんな風に掲示板使ってる泰継さんに驚いちゃっただけですから。」
「よかった。お友達なのよね?」
「ええ、まあ。昨日初めて会ったばかりなんですけど。」
「そうなの?泰継くんて、ちょっとだけ怖い感じでしょう?でも、それを書く時にとってもニコニコしていたから、てっきり仲良しさんなのかと思ったわ。」
教室に来る子供達ばかり受付で対応しているせいか、お姉さんのボキャブラリーは泰継の説明に似つかわしくない。
花梨は苦笑を浮かべる。
「そうですね・・・昨日一日で、かなり仲良くはなりましたけど。」
すると、奥の方でガチャリと防音ドアが開いた。
「ありがとうございました。」
小学生が出てきて頭を下げると、振り返りもせず走り出す。
微笑みながらそれを見送っていた講師が、受付に居る花梨に気付いた。
「こんにちは。花梨ちゃん。」
「先生、こんにちは。」
花梨は受付のお姉さんに会釈してから、講師へ駆け寄った。
「じゃあ、始めましょう。」
「はい。」
花梨がカバンを持って防音室に入ると、講師は、よいしょ、と防音ドアを重そうに閉めた。
その間に花梨はカバンから何冊かテキストを取り出す。
講師はピアノの前に腰掛けると、口を開いた。
「ねえ、花梨ちゃんって、泰継くんと、お友達だったの?」
「えっ?なんで先生が泰継さんのことご存知なんですか?」
「そりゃあもう、彼は有名よ。だって、この音楽教室の中で、ピアノ検定2級を持っているのは私達講師も含めて彼だけだもの。」
「・・・ってことは、もしかして、泰継さん、先生達より上手いって事ですか?」
「そうよ。私たちは、5級を持っていれば指導者になれるの。私は声楽を教えているから、ギリギリの5級しか持っていないし。ミカド楽器の中で一番上手な先生も3級なのよ。」
「じゃあ、泰継さん、ピアニストになれちゃいますね。」
「それなのよ。店長自ら日吉の音楽院でプロ課程を受けるように勧めているらしいんだけど・・・ほら、ミカド楽器からプロが出れば宣伝になるでしょう?でも彼、そんな気は全くないらしくて、1年くらい前に突然エレクトーン科へ転科しちゃったのよね。」
「へえぇ〜?」
「だから、さっき受付で泰継くんが花梨ちゃんの噂してるのを聞いて、気になっちゃったの。」
「そうだったんですか・・・ごめんなさい、私もまだ、泰継さんのことはよく知らないんです。」
「あら、気にしないで。こちらこそごめんなさい、無駄話をしてしまったわね。さあ、始めましょう。」
講師は、優しく笑いながらパンッと手を叩くと、狭い室内の空気を切り替えた。
レッスンを終えた花梨は、背中に受付からの視線を感じながらエレベーターに乗った。
慌てて5階のボタンを押す。
扉が閉まってようやく落ち着くと、首をひねった。
「泰継さん、私に何の用かな?」
考える間もなく5階へ着き、エレベーターの扉が開くと、花梨はびっくりして飛び上がった。
正面の長いすに座った泰継が、じっとこちらを見つめていたのだ。
「何を驚いている。」
「だって、泰継さんが急に現れるから・・・」
「現れたのはお前の方だろう。」
泰継の返答を聞いて、らちがあかない、と思った花梨はエレベーターを降りながら質問を変える。
「いつからそこで待っていたんですか?」
「3時だ。」
花梨のレッスンは4時半から30分間だった。
「2時間も?!」
思わず大声を上げ、そんな大切な用事だったなんて、と青くなる。
「な、何があったんですか?」
「いや。何もない。」
「へ?」
拍子抜けした花梨に、泰継ははにかんだ笑みを見せた。
「昨日の礼がしたかったのだ。」
「お礼?」
「お前の歌を聞いて、私は心が洗われるような気持ちになった。」
「そ、そんな・・・」
「そして、帰ってから気付いたのだ。礼をしていないと。」
「だって、奢ってくれたじゃないですか。」
泰継が自分の歌を過大評価しすぎていると感じて、花梨は再び青くなった。
「いや。あれは歓迎の意味で払った。それに、精神的にもらったものは同じように返したい。」
「はあ・・・」
もはや呆然と泰継が展開している理論を拝聴するしかない。
「私にできるのは、ピアノを演奏することだけだ。だから、ここに来て聴いてもらおうと思った。」
「そんな・・・」
遠慮する花梨に、あからさまに不安そうな顔をして泰継が問いかける。
「迷惑だろうか?」
「いっ、いいえ!」
花梨はぶんぶんと首を振った。
「もちろん嬉しいですけど、なんだか申し訳なくて。」
「いらぬ遠慮はするな。」
泰継はそう言いながら立ち上がると、4階と同じように並ぶ防音室の小窓を順番に覗きながら奥へ歩いていった。
電気の点いていない防音室を見つけると、ためらいもなくドアを開ける。
泰継の言葉に微かなショックを受けた花梨は呆然とそれを見ていた。
花梨は遠慮を美徳と考えてきたが、こうはっきりと指摘されると、とても恥ずかしいことをしていたように感じてしまう。
泰継に遠慮は通じない。
そう思うと、どっと気が楽になるのも不思議だった。
「早く来い。」
「は、はい。」
慌てて駆け寄ると、泰継が微笑む。
涼しげな顔立ちが温かいものに変化するのを間近に見てしまって、花梨は頬を染めた。
そんな花梨を見て、泰継は少し不思議そうにしたが、黙って防音室へ入った。
電気を点けると、グランドピアノの蓋を開ける。
花梨が防音室のドアを閉めながら口を開いた。
「あの・・・教室って勝手に使っていいんですか?」
「だめだとは書いていない。」
「それはそうですけ・・・」
低音から高音へ超人的な速さで駆け上がるスケールが、呆れたような花梨の声をかき消した。
放置してあったパイプ椅子に座ろうとしていた花梨が、腰を浮かした状態で動きを止める。
「は、はやい・・・」
両手を握ったり開いたりしながら、泰継が花梨を見た。
「リクエストはあるか?」
「いえっ!滅相もございません!」
腰を浮かしたまま花梨は首を振った。
そのまま椅子を持って鍵盤が見える場所へ移動する。
泰継の手がどんな風に動くのか見たかったからだ。
すぐそばに移動してきた花梨を見て、泰継は褒められた子供のような顔をした。
「おかしな気分だ。」
そう言うと、静かに鍵盤へ手を置き、最初の和音を力強く押した。
迫力のある音で、華やかな円舞曲が流れ始める。
泰継の手は大きく広げられ、鍵盤上をあちこち移動していた。
それにも関わらず、正確に曲が紡ぎ出されていく。
室内の隅々まで染み渡る力強い音は、花梨の耳から胸へも染み渡った。
児童過程のカリキュラムで少しだけピアノを習っていた花梨も、こんなに近くで、こんなに上手い生演奏を聴いたことはなかった。
急に音が弱くなった。
上手いだけではない、と花梨は気付く。
メゾピアノの部分を泰継は切なく歌い上げるように奏でていたのだ。
花梨は思わず泰継の顔を見た。
泰継は、表情を変えずに鍵盤へ視線を落としていた。
伏し目がちな横顔に儚さを感じて、花梨はドキリとする。
こんなにキレイな人が、今、花梨のためにピアノを弾いている。
しかも先生より上手い。
花梨は自分がとても贅沢な状況にあることに気付いて、深々と満足と感謝のため息をついたのだった。