助けて
花梨が歌のレッスンを終えて防音室を出ると、長いすに泰継が座っていた。
「花梨、助けてくれ。」
「へ?」
「今日、これから何か予定はあるか。」
「い、いえ。」
「料理、洗濯はできるか。」
「ま、まあ、そんなに上手じゃないですけど。」
「では、来てくれ。」
泰継はそう言うと、花梨の手首をつかんで引きずるように連れて行く。
「あの、ちょっと、泰継さん?」
わたわたと慌てながら引っ張られていく花梨と無表情の泰継を乗せて、エレベーターの扉が閉まる。
それを見送って、講師と受付のお姉さんが顔を見合わせた。
エレベーターが動き出すと、花梨が口を開く。
「泰継さん、説明してくれませんか?」
「今朝、バアが倒れた。」
「ばあ?」
「分からないのか?・・・お前は年寄りの女を何と呼ぶ?」
「もしかしてお婆さんの事ですか?・・・大変!病院には行ってきたんですか?」
「学校に着いた途端に知らせを受けたので午前中に行ってきた。脳血栓でしばらく入院だと言う。」
花梨が心配そうに息を飲む。
「問題ない。軽いので10日ほどで退院できる。」
エレベーターが1階に着いて、扉が開いた。
「よかった・・・」
「しかし、入院の手続きを済ませた後、昼飯を作ろうとしたが、どう調理すれば良いか分からなかったのだ。」
言いながら店の外に出た泰継は自転車の鍵を取り出すとロックを外した。
「ええっ?!」
「どうやら婆は家庭科で使った鍋と違う機械で米を炊いているらしい。」
「あ・・・」
調理実習では炊飯器を使わない学校が多い。
「それから洗濯機の使い方も教えて欲しい。」
泰継は極度の機械音痴らしかった。
「昼飯は結局食べられなかった。爺も腹を空かせている。」
泰継が自転車に跨ると花梨を振り向く。
「ええっ?!デリバリーとかは?」
言いながら泰継にカバンを預けて花梨も自転車に座った。
「外食は人工の添加物が多く含まれているので身体に悪い。」
そう言って泰継が自転車をこぎ出す。
「お母さんはどうされてるんですか?」
「私は孤児だ。子供のなかった爺と婆に育てられた。」
花梨は、どうりで、と今までの泰継の言動を思い起こして納得する。
「あ・・・悪い事聞いてごめんなさい。」
「事実は悪い事ではない。少し急ぐぞ。」
泰継が自転車をこぐ足に力を込める。
花梨は振り落とされそうになって、とっさに泰継の腰に腕を回した。
平安市にも、まだこんな所があったんだ、と花梨は周りを見渡していた。
遠くまで続く田んぼのところどころに家が建っている。
「泰継さんのお家って、農家なんですか?」
「少し前まではそうだったが、私が継がないと決めたので、ほとんどの土地を手放した。」
耕運機などを納めていたらしい大きなガレージに自転車を置きながら、泰継が答えた。
よく見ると顔が赤い。
「泰継さん、もしかして、心労で熱が出ちゃったんじゃないですか?」
「これは熱ではない。お前がむやみに近づくからだ。」
そう言いながら玄関に立って、鍵のかかっていない引き戸を開ける。
「あ・・・」
言われてみれば、花梨は自転車に乗っている間中、泰継に抱きついていた。
「ご、ごめんなさい・・・」
花梨が肩をすくめて頬を染めた。
それには答えずに泰継は靴を脱いで家に上がる。
「ジイ!連れてきたぞ!」
叫ぶように言うと、そのままどんどん奥へ行ってしまった。
花梨も慌てて靴を脱いで家へ上がる。
「おじゃまします・・・」
小さく言いながら泰継を追いかけて廊下を歩いていると、横の障子が開いて、老人が出てきた。
「おお、来てくれましたか。」
嬉しそうに笑うと続ける。
「花梨さんとやら。いつも泰継がお世話になっているそうですね。」
「い、いえ、お世話になっているのはこっちです。」
爺がとても優しそうなので、花梨は安心して微笑んだ。
「今日はすまないことをしました。わしは婆さんが居ないと何もできんのですよ。」
爺が寂しそうに微笑む。
「花梨、早く来い。」
奥の方から泰継の声がして、花梨が慌ててそっちの方を見た。
「すみませんねえ。私が家内に喋る口調を真似て育ってしまって。」
爺が申し訳なさそうに花梨を見る。
「いいえ。」
笑顔で答えると、花梨は小走りで声のした方へ向かった。
「ヤス、女の子にそんな言い方をしてはならんぞ。」
後ろから爺の穏やかな声が追いかけてくる。
花梨が台所に足を踏み入れると、花梨に着せるため婆の割烹着を持った泰継が首を傾げていた。
「では、どんな言い方をすれば良いのだ?」
「煮すぎだな。」
泰継がお椀の中でボロボロと崩れるジャガイモを箸でつかもうと奮闘しながら呟く。
焦げた秋刀魚を一生懸命みどっていた花梨が申し訳なさそうに俯いた。
明日から料理の特訓をしようと心に誓う。
「ヤス、食事にありつけたのは花梨さんのお陰だ。感謝しなさい。」
分厚い漬物をご飯に乗せながら爺が言った。
「そうだな。花梨、感謝する。」
泰継が花梨に微笑みかける。
もともと泰継は整った顔をしているが、あまり目にする事がない泰継の微笑みはそれ以上に綺麗だ。
「いいえ、あんまり役に立てなくてごめんなさい。」
花梨がそう言いながら頬を染めた。
それを見て爺が微笑む。
「泰継、花梨さんは良い娘さんだな。」
「うむ。良い娘であるだけではない。花梨の歌には心を癒す力がある。薬はもちろん、針や灸でも決してできないことだ。」
「そうか。」
自慢げに言う泰継を見て、爺は目を細めた。
「泰継さん、大げさですよ。お爺さんも、あまり本気にしないでください。」
花梨がますます顔を赤くする。
爺が小さくため息をついてご飯を見つめると口を開いた。
「あれだけみのさんの言う通り健康に気をつけて生きてきた婆さんもあの通りだ。医学には限界がある。人の命にも限界がある。わしもいつまで持つか分からん。」
「爺!何を言う!」
泰継が珍しく声を荒げた。
「そ、そうですよ。みのさんの言う通りにしてきたから、軽く済んだんですよ、きっと。」
花梨も必死に言い募る。
ご飯を見つめていた爺が弱々しく微笑んで視線を上げた。
「・・・そうだな。花梨さんの言うとおりだな・・・泰継に花梨さんのような嫁が来てくれれば、わしらも思い残すことはない。」
その言葉に、泰継が箸を止めた。
「爺、花梨は嫁に相応しいか。」
「ん?そうだなあ。花梨さんが嫁に来れば、安倍家も安泰だな。」
爺はそう言って秋刀魚を開くと、中心の骨だけ取り除いて尾から齧った。
泰継が黙って花梨を見つめる。
花梨はどんな顔をしていいか分からず、曖昧に微笑んだ。
泰継の自転車は、夜の道をゆっくりと走っていた。
後ろに座った花梨は黙って泰継のシャツにつかまっている。
「あんな弱気なことを言う爺ははじめて見た。」
突然、泰継が口を開いた。
「え?」
「いつもは婆にもつらく当たるし、私にも必要以上の事は喋らない。」
「そうなんですか。」
「爺が死を予感しているのだろうか?」
「まさか・・・きっと、突然お婆さんが倒れたから、不安になったんですよ。」
「そうだと良いが。花梨、私は爺と婆しか身寄りがない。」
自転車を止めて振り返ると、泰継は続けた。
「もし二人が死んでしまったら、私はどうすれば良いのだ?」
いつも感情を表さない泰継の瞳に不安が色濃く現れ、街灯の明かりの下で揺れていた。
子供のような表情に花梨が息を飲む。
「花梨、教えてくれ。」
泰継が泣きそうな顔になった。
泰継の表情に目を奪われていた花梨が、我にかえって泰継の背中を軽く叩く。
「泰継さん、落ち着いてください。まだお爺さんもお婆さんも元気なうちから、そんな事を言っちゃだめですよ。もしもの事があっても、space‐timeのみんなが居るじゃないですか。私も、泰継さんが寂しくないように、いつも一緒に居ますから。ね?」
なだめている内に、花梨はどうしようもなく、泰継が可愛く思えて仕方がなくなってしまった。
母性本能というのはこういうものなのか、と自分に驚く。
「すまない。花梨。」
泰継は鼻をすすると、再び自転車をこぎ出した。
花梨は泰継に触れたくなってその背中にもたれると、今の泰継に必要なものは何か考える。
しばらく考えてから、花梨は泰継に聴こえる範囲で小さく歌い始めた。
それは、二人が出会った日に、泰継がリクエストしたピーターラビットの歌だった。