心の歌



花梨は演奏が終わった泰継と一緒に平安市民会館のロビーを歩いていた。
着飾った父母や衣装のままの子供たちが行き来していてなかなか賑やかだ。
「泰継さんが午後の部にも出るなんて知らなかったです。」
「私も出るつもりはなかったのだが、講師がどうしてもピアノで模範演奏を、と言うのでな。」
「午前の部でもトリを飾ったのにすごいですね!」
花梨はにっこりと微笑んだが、泰継は真顔のままだ。
「いや・・・まだ初心者の私が午前の部で最後など・・・中学生でさえ、巧みにディスクを操作していたではないか。ピアノにはある程度自信があるが、エレクトーンは講師が居なければ何もできない。お前に花束をもらう資格もない。」
花梨が花束を用意してきたと知って、泰継は、くれるのなら最後にして欲しい、と言った。
機械音痴の泰継は、エレクトーンの操作が覚えきれていないらしく、講師が一緒に出てきて何やらフロッピーディスクをエレクトーンに読ませたりしていた。
しかし、もともとピアノの技術があるので、リズムスタートボタンを押してしまえば、模範演奏そのものだ。
その上、この美貌。
講師と一緒に舞台に現れた泰継を見て、ホール中の女性からため息が漏れた。
それを思い出した花梨は、複雑な気持ちで泰継の横顔を見つめる。
泰継がそれに気付いて花梨を見ると、口を開いた。
「花梨、私が舞台袖に行くのは3時25分の予定になっている。それまで時間も存分にある事だし、良い機会なのでふぁーすとふーどというものを食べてみたい。連れて行ってはくれぬか?」
「へ?!」
花梨が目を丸くした。
花梨は、泰継が婆の影響で神経質なほど健康に気を遣っていたのを知っている。
外食が身体に悪いといって昼を抜くほどの徹底振りだったはずだ。
花梨の顔を見て、泰継はふっと自嘲的に微笑んだ。
「先日お前に迷惑をかけたというのに、今さらこんな事を願うのは我が儘だろうか。」
「い、いえ、大丈夫ですよ。驚いちゃっただけですから。」
「そうか・・・では、行こう。お前が気に入っている店はどこだ?」
泰継が駅に向かって歩き出した。
「そうですね・・・どこも好きだけど・・・」
花梨がワクワクした顔になる。
「初めてファーストフードを食べる人を連れて行くなんて、なんだか緊張しちゃいます!」
「私も少し緊張している。食べたからといって病気になる事はないのだろうが・・・」
泰継が自分の両手を見つめる。
その手が微かに震えていた。
「や、泰継さん、無理しない方がいいですよ!」
花梨が驚いて立ち止まると、泰継が首を振る。
「いや・・・食べてみたいのだ。お前と共に居れば問題ない。そうだ・・・」
そう言って、泰継は花梨が持っている紙袋を奪うと、その手を取った。
「こうしていれば、震えも収まるだろう。」
そう言って、花梨の手を引いて歩き出す。
花梨は微かに頬を染めたが、泰継の不安が消えるよう、強く握り返した。

「なかなか良い味だな。爺は昔食べた時に腐った漬物が挟まっていて閉口したと言っていたが、野菜も新鮮ではないか。」
ハンバーガーを持った泰継が微笑む。
「腐った漬物・・・確かにアレはそうかもしれませんね。」
ミルクティーを飲みながら花梨が笑う。
「アレとは?」
泰継がキョトンとした。
「ピクルスって言うんです。典型的なファーストフードにはよく入ってますね。」
「では、ピクルスが入っていないこのハンバーガーは、典型的ではないのか・・・確かに、ファーストフードなのに出てくるのが遅いのは私も不審に思った。」
花梨が微笑んで頷く。
「はい。実はこのお店、ファーストフードの中でも、添加物を減らしたり、新鮮な野菜を使ったりするよう気をつけている所なんです。出てくるまで時間がかかったのも、注文を受けた後に作り始めるからなんですよ。」
花梨が説明しながら、トレイに敷いてある紙を取り出して泰継に見せる。
泰継が呟くように読み上げる。
「農薬や化学肥料を控えた野菜を使用しています・・・」
「ね?添加物がゼロってことじゃないでしょうけど、少しだけ安心でしょう?」
花梨が言って首を傾げると、泰継が呆然としたように花梨を見た。
「あ・・・もしかして、典型的なのを食べたかったんですか?」
花梨が不安そうな顔になると、泰継が首を振って微笑む。
「いや・・・お前の心遣いが嬉しいのだ。花梨、感謝する。」
泰継はそう言って、先ほどまでの控えめな口の開け方が嘘のように、がぶりとハンバーガーにかぶりついた。
花梨も嬉しそうにそれを見て、ライスバーガーにかぶりつく。
すぐに不思議そうな顔になる。
「でも、何で急にファーストフードを食べようと思ったんですか?」
「婆が食べてみろと言った。」
「え?!みのさんファンのお婆さんが?!信じられません!」
「私も驚いている。婆は退院してからというもの、人が変わったようになった・・・病院で『あれも食べたい、これもしたい』と言いながら退院できない他の患者を見て、生きているうちにやりたい事をやるべきだ、と思ったそうだ。健康に気を遣うあまり家事に縛られて、爺も婆もろくに旅行にも行ったことがないからな。」
泰継が言葉を切ってハンバーガーにかぶりつく。
花梨もライスバーガーを食べながら納得の顔で頷いた。
婆が倒れた時の安倍家の様子を見れば、容易に想像がつく。
「これからは、みのさんの言う事を聞かない日というのを作って、食べたいものを食べ、やりたい事をするそうだ・・・それから、爺も変わった。爺は、婆を慈しむ様になった。前まで婆が風邪をひこうと当たり前のように家事をさせていたのに、今は、腰が痛いと言えば掃除を手伝い、肩が痛いと言えば私を差し置いて按摩の真似事までする。今までは私が按摩をしていたのだが、婆は爺にしてもらう方が良いと言う。最近の私は除け者だ。」
最後の一口を食べながら話を聞いていた花梨が顔を綻ばせる。
「いいことじゃないですか。」
「私もそう思う。爺と婆が仲良くしているのを見るのは、除け者にされる寂しさを補ってあまりある暖かい気持ちになる。今の二人を見ていると、私は、幸せとはどういうものか、結婚、夫婦とはどういうものか、考えさせられるのだ。そして、先日、お前に申し訳ないことをしていることに気付いた。」
泰継が最後の一口を口に押し込んで、もぐもぐと口を動かす。
花梨がペーパータオルを取って泰継に渡しながら、緊張の面持ちで頷いた。
花梨を嫁に、と言う泰継が、花梨の事を心から愛して言っているのではない事は、花梨も分かっていた。
安倍家の嫁として爺が望んでいるから、という理由だけで泰継に望まれているのは、花梨にとっても少し不本意だ。
だからといって、今までの言葉を取り消す、と言われるのも辛い。
泰継はペーパータオルで口を拭いて息をつくと、再び話し出す。
「花梨、すまなかった。私は、結婚というものをよく知らぬまま、お前に嫁に来いなどと言っていた。結婚とは、愛し愛される者同士が慈しみあいながら暮らすものだったのだな。」
やっぱりそう来たか、と花梨がしょんぼりしながら頷く。
「はい。その通りだと思います。」
「私はよく考えたのだ。お前を愛しているのかどうかを・・・」
泰継に真摯な顔で見つめられて、花梨はその言葉に新たな期待を寄せる。
「しかし、愛というものがよく分からない。」
息を詰めていた花梨が、ズル、と椅子から落ちそうになった。
隣の席に座っていた家族連れにチラリと見られて、頬を染める。
「や、泰継さん、こんな所でそんな話、恥ずかしいし・・・出ませんか?」
「私は特に恥ずかしくはないが、お前がそう言うのなら出よう。」
泰継が立ち上がった。

店を出た二人は、まだ時間があるので、城址公園をゆっくり歩きながら市民会館まで戻る事にした。
子供や老人などで賑わう公園を黙って歩く。
愛というものが分からないという泰継の言葉に拍子抜けした花梨だが、言われてみれば、具体的に説明できるわけでもない。
泰継もその事を考えているのだろう、向こうから幸せそうに歩いてくるカップルを見ている。
泰継がふと口を開いた。
「花梨、手を繋ぎたいのだが良いか?」
「はい。」
泰継が花梨の手を取った。
しばらく手を握って歩いていたが、急に立ち止まるとその手をしげしげと見つめる。
「不思議だ。」
花梨が首をかしげた。
「何がですか?」
「こうしてお前に触れるだけで、先ほどは不安が収まった。お前の歌を聴いたような気持ちになって安らいだのだ。今、恋人達が手を繋ぐのを見て、もう一度試してみたのだが・・・」
泰継が悲しそうな顔をする。
「お前の事だけを考えて手を繋ぐと、安らぐどころか、落ち着かなくなる。」
「え・・・」
花梨がショックに目を見開いた。
泰継は考えながらゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「いや・・・違うな・・・この手の温もりから感じるのは安らぎだ・・・だが・・・同時に、この温もりを誰にも渡したくないという思いや、ずっと離したくないという思いが湧き上がってくる・・・お前にもっと触れたいという欲望や、失いたくないという不安が芽生える・・・」
花梨がはっとして泰継を見上げる。
「花梨、これが愛か・・・?」
花梨は頬を染めて首を振った。
「たぶん・・・恋です・・・」
「恋・・・」
「私も同じです、泰継さん。ドラマとか歌とかでたくさん出てくる言葉だから、分かったつもりになってたけど、私もまだ、愛がどういうものか知らないって思い知らされました。でも、泰継さんを思うときの切ない気持ちは、恋だって知ってます。」
「そうか・・・」
「私、泰継さんのことが好きです。もし、泰継さんも同じように思ってくれているなら、愛は、これから二人で、ゆっくり探していきませんか?」
「恋人となって・・・ということだな?」
「はい。」
「分かった。明確ではないが、私も花梨が好きなのだと思う。共に愛を探す相手は、お前以外に考えられない。」
「ありがとうございます。」
花梨が嬉しそうに泰継の手を握り直す。
「礼を言うのは私の方だ。花梨、感謝する。」
泰継も、その手を握り返した。
そのまま二人は、時々話しながら公園をそぞろ歩いて、市民会館に戻った。
ロビーに入ると、舞台の音をモニターしたスピーカーからショパンの『別れの曲』が聞こえてきた。
発表会も後半に入り、かなりの上級者が演奏しているようだ。
泰継が自動販売機で温かいお茶を買いながら呟く。
「『別れの曲』か・・・」
「すごく上手・・・」
「私もよく弾くが、こんな風に感情を込めて弾けた事はない。偉そうに模範演奏などできる立場ではないな・・・」
泰継が自嘲的な顔をした。
「別れの悲しみが伝わってきます。ピアノも歌みたいに感情を込める事ができるんですね。」
「なるほど・・・花梨の歌と同じか・・・」
泰継はそう言うと、ロビーのソファーに座った。
花梨も紙袋を置いて、向かいの椅子に腰掛ける。
泰継は演奏を聴きながら黙ってお茶を飲んでいたが、ふと呟いた。
「喪失・・・悲しみ・・・そうか・・・今の私ならできるかもしれない・・・」
「え?」
「恋を知った私なら、演奏に心を込める事ができるかもしれない。お前の歌のように。」
花梨が笑顔になる。
「本当ですか?!聴きたいです!泰継さんの歌!」
「分かった。一緒に行こう。」
「え?」
「私の演奏を、舞台袖で聴いていてくれ。」
「そんな・・・先生方に迷惑ですし、客席で見ますよ!」
「多分、もう前の方には座れまい。」
「そ、そうですか?」
「真面目な生徒達が模範演奏を聴きに来るのだ。そろそろ時間だな。」
泰継は立ち上がって、お茶の缶を持ったまま、反対側の手を花梨に差し出す。
立ち上がった花梨も紙袋を持ってその手を取ると、泰継はそれを引いて舞台裏へと歩き出した。

花梨が舞台袖から客席を見ると、着飾った女性達が花束を持って最前列で待ち構えているのが見えた。
泰継が午前の部に出るのは今年が初めてだったので、グループレッスンやエレクトーンの個人レッスンに子供を通わせている母親達は、泰継のことを知らなかった。
しかし、ピアノの個人レッスンに通わせている母親達や生徒の間では、かなり前から有名なのだろう。
前の方の席は、泰継目当てと思われる女性達でいっぱいだ。
泰継が言っていたのはこういう事だったのだ。
隣で泰継はお茶の缶を握って手を温めたりしている。
もっと肩身の狭い思いをするかと思っていた花梨だったが、二人の仲は既に講師の間で有名らしく、次の演奏者が順番を待つ椅子に座らせてもらっていた。
演奏する顔は見えないが、音が一番よく聞こえる特等席だ。
講師代表の演奏が終わり、アナウンスが入った。
『ピアノ検定上級者による模範演奏。即興曲第4番嬰ハ短調、幻想即興曲。安倍泰継。』
泰継がゆっくりと立ち上がって、椅子に缶を置く。
「行って来る。」
「はい。」
泰継が花梨の顔をじっと見つめた。
なかなか泰継が出てこないので客席がざわつく。
アナウンスをしていた講師が、慌てたように泰継を振り向く。
泰継はそれに気付くと、名残惜しそうに舞台へと歩いていった。
暗い舞台袖から明るい舞台へと出て、泰継の後姿が眩く光る。
盛大な拍手が沸き起こった。
花梨は息を飲みながら泰継が演奏を始めるまでの颯爽とした動作を見ていた。
椅子に腰掛け、しばらく鍵盤を見つめてから、ピアノに手を置く。
少し間を置いてから、泰継は力強く最初の一音を叩くと、打って変わって優しくピアノを奏ではじめた。
その曲は、名前はあまり知られていないが、誰でも一度は聴いたことがある名曲だ。
高速で奏でられる分散和音は、泰継の技巧を物語っているが、花梨は、今まで聴いた中のどれとも違うと思っていた。
優しい。
暖かい。
柔らかい。
「今年の泰継君は、また一段と・・・」
「こんな『幻想即興曲』、聴いたことない・・・!」
後ろで講師たちが感嘆の声を上げる。
やはり花梨が感じた事は正しかったのだ。
ショパンの幻想即興曲は大部分が高速の分散和音で構成されており、激しく奏でられることが多い。
即興曲なので、どう弾いても良いのだが、怒涛のような切れ目のない分散和音からピアニスト達がイメージするのは激しさなのだろう。
また、鍵盤を優しく叩くのは力の加減が難しいため、プロでもない限り難所はフォルテになってしまうというのもある。
音が、絹のように優しく織り出されていく。
花梨は柔らかな音に包まれるような感覚がして、目を閉じた。
ゆっくりとしたメロディーで歌い上げる中間部に入る。
切ない。
寂しい。
一人にしないで。
・・・ずっと一緒に。
泰継にそう囁かれているような気持ちになり、花梨は心を鷲掴みにされた。
涙がこぼれたが、拭うこともできずにピアノを弾く泰継の後姿を見つめる。
再び高速のフレーズに戻る。
先ほどとは打って変わって激しく奏でられる音から、花梨は泰継の中の男を感じ取る。
もっと。
そばに。
・・・欲しい。
花梨が思わず頬を染める。
しかし、それを見ていたかのように泰継の演奏は優しくなっていき、静かに曲が終わった。
泰継がピアノから手を離すと、膝に手をついて深く息をつく。
割れんばかりの拍手が巻き起こった。
大人も子供も、ホール中の観客が惜しみない拍手を送る。
泣いている生徒も居る。
ピアノの発表会には有り得ない光景だ。
花梨は感激して再び目頭を熱くした。
泰継は、しばらくその姿勢のまま息をついていたが、突然ガタンと音を立てて椅子から立ち上がると、挨拶もせず、足早に舞台袖に戻っていった。
スタンディングオベーションをしていた観客や、舞台下で花束を渡そうと駆け寄った女性達が目を丸くしてそれを見送る。
泰継は、興奮した面持ちで舞台から戻ってくると、立ち上がって瞳を潤ませる花梨を強く抱きしめた。
「花梨、今日の演奏はお前に捧げる。お前のお陰で歌う事ができた・・・」
「はい・・・受け取りました・・・泰継さんの心の歌・・・」
花梨が再び瞳から涙を溢れさせて泰継の背に手を回す。
周りでそれを見ていた講師達は、ふっと微笑みあうと、幕を下ろすよう合図をした。




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