新婚さん
暗い中、自転車を降りて見ると、安倍家には電気が点いていなかった。
花梨はまさか、という思いが急激に膨れ上がっていくのを感じて、自転車をガレージに入れる泰継に訊ねる。
「泰継さん、お爺さんとお婆さんは?」
「旅行に行った。」
「・・・えっ!」
「七千円で修善寺の紅葉を満喫できるオトクなツアーだそうだ。私も海底温泉とやらに入ってみたかった。」
言いながらスタスタと玄関へ行って鍵を開ける泰継の背中を、花梨は呆然と見つめた。
先日の練習の帰り、家に泊まりに来い、と泰継に誘われた。
それを聞いた花梨は最初、真っ赤になった。
たまに突拍子もない事を言い出す泰継なので、その言葉に深い意味があると思ったからだ。
しかし、よく考えてみれば爺と婆も居るのだし、さすがの泰継もデートもしないうちから花梨を抱こうとは思っていないだろう、と考え直し、OKの返事をした。
その後、日付を指定されたので不思議に思ったが、休前日だったので、学校や練習に支障がない日を選んでくれたのだろうか、と軽く考えていたのだ。
一晩中二人きり、という言葉が花梨の頭を掠める。
・・・や、泰継さんは、そんなエッチな人じゃないもん!
花梨が一人でぶんぶんと首を振っていると、泰継が不審そうにこちらを見ていた。
「何をしている?早く入れ。」
「は、はい!」
花梨は力いっぱい返事をして、ぎくしゃくと家に入った。
意識しないようにすればするほど、心臓が早鐘を打つ。
泰継が靴を脱ぎながら口を開いた。
「花梨、婆がカレーを・・・」
「はは、はい!」
上ずった声で返事をする花梨を、泰継は驚いた顔で振り返った。
「・・・様子がおかしい。」
真顔になった泰継が花梨の顔を覗き込む。
秀麗な泰継の顔が目前に迫ってきて、花梨は耐えられなくなった。
「や、泰継さん!私、やっぱり帰ります!」
情けない声を上げる。
泰継が憮然とした。
「なぜだ?」
「なぜ?!・・・えっと・・・」
花梨が困った顔になる。
抱かれるのが嫌だからだとは言えない。
泰継が花梨を抱くつもりかどうか、まだ分からないのだ。
それに、多少、順番は違うかもしれないが、嫌ではない。
恥ずかしさに耐えられそうにないだけで。
その様子を見た泰継が、悲しげに言った。
「花梨・・・すまないが、今夜はどうしてもそばに居て欲しい。」
今度は花梨が目を丸くする。
「どうかしたんですか?」
「私は一人で夜を過ごした事がほとんどないのだ・・・」
やっと泰継の真意を飲み込めた花梨がはっとした。
今まで、爺と婆が二人で家を空ける事などなかったのだろう。
「・・・ごめんなさい、泰継さん・・・私、誤解して・・・」
「誤解?」
「・・・あの・・・二人きりだから・・・」
花梨が頬を染めて口ごもる。
その言葉の意味に気付いた泰継も微かに頬を染めると、言いながら台所の方へ歩き出した。
「私はお前の意思でしか行動しない。信じて欲しい。」
「・・・はい。」
花梨も頷くと、泰継を追って台所に入った。
「婆がカレーを作ってくれた。たくさんあるので、二人で食べても問題ないだろう。」
泰継がガスコンロに点火する。
「わ、美味しそうですね。じゃあ、簡単なサラダでも作りましょうか?」
「そうだな。」
泰継が微笑むと、花梨に婆の割烹着を渡した。
それを着た花梨と一緒に、冷蔵庫からきゅうりやレタスを取り出す。
泰継が嬉しそうに言った。
「まるで最近の爺と婆のようだ・・・花梨、私達も、結婚したらこんな風に過ごすのだろうか。」
花梨がドキ、と固まってから頷く。
「・・・そうですね。きっと。」
「そうか・・・良いものだな。」
泰継はそう呟くと、まな板と包丁を出しながら続けた。
「お前とこうして共に過ごすだけで、ただの日常が浮き立つような新鮮さに変わる。これが『新婚さん』の幸せなのだな。」
「新婚さん・・・ですか?」
きゅうりやレタスを水道水で洗いながら、花梨が戸惑った声を出した。
「花梨は新婚さんを知らないのか?日曜日の昼になると、テレビに新婚さんが出てくるから、一度見てみると良い。桂三枝が椅子から落ちるのは危ないと思うが、どんな変人も新婚さんになれば幸せになれるのだという事がよく分かって安心する。」
「・・・そ、そうですか・・・今度見てみます・・・」
泰継の言っているテレビ番組が何なのか、だいたい分かった花梨だが、見たことがあるわけではないので、適当に話を合わせた。
「・・・む・・・」
ざるとボールを出していた泰継が、何かを閃いたという顔をした。
花梨は何となく嫌な予感がする。
「花梨、今日は一晩、新婚さんのように過ごしてみても良いか?」
花梨が、うっと怯む。
泰継が見ている番組に出てくるようなオモロイ新婚さんのように過ごすのは、できれば避けたい。
「・・・例えばどんな感じですか・・・?」
泰継が手を止めて考え込んだ。
「言われてみれば、実際に新婚さんの様子を見たことがあるわけではないな・・・」
花梨はこっそりとホッとした。
泰継が顔を上げる。
「花梨は新婚さんになったら、どんな風に過ごしたいと思うのだ?」
花梨が新婚さん像を頭に浮かべた。
おはようのキス、いってらっしゃいのキス、おかえりなさいのキス・・・
キスをしている場面しか思い浮かばない。
泰継は、花梨のイメージを実行したがるに違いない。
考えた事をそのまま言ったら、泰継にキスをねだっているのと一緒だ。
「・・・えっと・・・私もよく分からないです・・・爺と婆みたいに過ごすのはどうですか?」
「そうだな。花梨がそう言うのなら、そうしよう。」
花梨は、一人でドラマを見ながら悩んでいた。
画面の中では最近人気の男性俳優が、明るくマザコンを演じている。
慣例に囚われない彼に振り回される恋人の様子が、他人事に思えない。
結局、花梨と泰継はカレーライスやサラダを食べながら、ただテレビを見ただけだった。
泰継は、爺と婆のようだと言って嬉しそうだった。
食べ終わって、見ていたバラエティー番組も終わると、老人の生活リズムに慣らされている泰継が、寝る支度をすると言い出した。
花梨は皿の片付けもそこそこに風呂に入らされた。
風呂から上がって、何気なく客間を見てびっくりした。
布団が二組敷いてあったのだ。
泰継にどういうことか訊こうと振り向いた時には、すでに風呂場に行ってしまっていた。
どうやら、泰継は、爺と婆のように同じ部屋で寝るつもりらしい。
泰継のことは信用している。
が、隣で寝るだけでも恥ずかしいし、何より緊張して眠れそうにない。
泰継が風呂場から出てきた。
・・・やっぱり、別の部屋に移動させてもらおう。
花梨はそう決心すると、テレビを消した。
居間に入ってきた泰継は、花梨が話を切り出すよりも先に口を開いた。
「花梨、按摩を受けた事はあるか?」
花梨が目を丸くする。
「い、いえ・・・」
「爺が婆にするように、私も花梨に按摩をしてみようと思う。」
「いいんですか?・・・なんか、プロの人にタダでやってもらうなんて悪いみたいですけど。」
「私はまだプロではない。それに、今からする按摩は、鍼灸師としてではなく、恋人としてする。婆は、私よりも爺の方が良いと言うのだから、介在する気持ちによって、効果が変わってくるかも知れない。」
「・・・そうですね。」
花梨は、泰継の言う事に納得したので、深く頷いた。
「この布団にうつ伏せになれ。」
泰継が客間に二つ敷いた布団のうちの一つを指差した。
花梨は言われるまま客間に入ってうつ伏せになる。
泰継は、花梨の背姿をしばらく眺めていたが、おもむろに肩から揉み始めた。
「・・・くっ・・・」
枕に顔を埋めた花梨が、首をすくめて肩を震わせる。
「・・・花梨、力を抜け。」
「だって、くすぐったいです・・・」
花梨が困った顔で振り向く。
「では、凝っていないのだろう。」
泰継は肩を諦めると、背中を指圧し始めた。
「・・・くふっ・・・」
押すたびに、花梨がピク、ピクと身体を震わせる。
泰継が手を離して、ため息をついた。
「・・・花梨、力を抜けと言っている。」
花梨が、枕に埋めていた顔を上げて、苦しそうに息を吐いた。
「ムリですよぉ・・・」
泰継は、仕方なく再び腰へ向かって指圧を続ける。
顔を上げたままの花梨が、苦しげに吐息まじりの声を出した。
「・・・んっ・・・ダメで・・・くすぐった・・・」
泰継はその声に思わず頬を染めたが、それを誤魔化すように腰のあたりを強く押した。
「んぁっ!」
花梨の身体がビクンと震え、ひときわ甘い声が上がる。
花梨は慌てて口を押さえると、真っ赤な顔で、恐る恐る泰継を振り返った。
泰継も、真っ赤になって固まっている。
花梨がゆっくりと起き上がって正座になると、俯いた。
「・・・ごめんなさい・・・」
泰継は、はっとすると首を振った。
「いや・・・花梨は婆と違って、あまり身体が凝っていないのだろう・・・」
「じゃあ、テスト前とかで肩が凝ってる時の方がいいですか?」
「・・・そうだな・・・今日は、もう寝よう・・・」
泰継が立ち上がって居間の電気を消しに行く。
その背中がそれ以上の会話を拒否していたので、花梨は、別の部屋に移動したいと言えなくなってしまった。
泰継は、膨らんでしまった衝動に驚いて、その事に意識をとらわれていた。
考え込みながら客間に戻ると、電気を消して、布団に入る。
花梨は、しばらく泰継の方を見ていたが、諦めたように布団に入って目を閉じた。
・・・柱時計の音が耳障りだ。
泰継は戸惑っていた。
爺と婆のように過ごしてみたいという一心から、花梨と布団を並べて寝ようとしたのは自分だ。
しかし、たった一瞬の花梨の声に、ここまで衝動をかき立てられてしまうとは、思っていなかった。
医学的知識が中心だが、その衝動がどういうものかは知っている。
人並みに性欲の処理をすることもある。
だが、花梨のためなら性欲をコントロールすることなど容易いという自信があったのだ。
隣に花梨の気配を感じて落ち着けない。
花梨に触れたい気持ちが、膨らんでいく。
花梨がため息をついて寝返りを打つ気配がした。
そのため息さえも、今の泰継の耳には、甘い。
このままここに居たら、朝まで眠れそうにない。
泰継は、しばらく迷ってから、自分の部屋で寝ようと起き上がった。
暗い中、ふと花梨を見下ろすと、目を丸くしてこちらを見ている。
「・・・お前も眠れないのか?」
「・・・泰継さんも?」
泰継は、黙って花梨を見つめ、少し躊躇うと、口を開いた。
「そばへ行っても良いか?」
花梨が息を飲む。
「花梨、嫌ならば嫌だと言ってくれ。お前に言ってもらわなければ・・・私は自分で止まれない。」
花梨は布団を口許まで引き上げると、首を振った。
「あの・・・嫌じゃないです・・・でも、恥ずかしくておかしくなっちゃいそうだから・・・」
花梨が言い終わらないうちに、泰継は花梨の布団の中に入った。
「おかしくなる前に私を止めてくれれば問題ない。」
そう言って花梨を抱きしめる。
「・・・ふぁひゃ・・・」
花梨が真っ赤になって意味不明の言葉を発した。
そんな花梨に構わず、泰継が嬉しげな声を出す。
「花梨・・・私は今、この世の新婚さんの幸せを独り占めしたような気持ちだ。」
「・・・は、はひ・・・」
花梨が上ずった声で返事をする。
泰継が花梨の耳もとでうっとり呟く。
「身体中の血が騒いでいる。安倍泰継ではなくなりそうだ・・・ただの男に・・・お前を求めるだけの動物に・・・なってしまいそうだ・・・」
柔らかそうな耳たぶが泰継の目に入り、本能のままに唇で食むと、花梨が急にもがきだした。
「・・・ひゃ・・・ごめんなさ・・・も・・・耐えられな・・・!」
まだキスも経験していない花梨にとって、泰継の言葉と本能的な行為は刺激が強すぎた。
まして布団の中だ。
流されたら交わりへと雪崩れ込みそうな状況に、耐えられるはずもない。
泰継は、あっさりと花梨を離すと、花梨の布団から出た。
「・・・もっと眠れなくなっちゃった・・・」
花梨がドキドキしすぎて荒くなった息を吐きながら、ぐったりとして呟く。
泰継も、眠れそうになかった。
布団から出ることは容易かった。
花梨の困った顔を見た途端、安倍泰継が戻ってきたのだ。
だが、動物のような感情を持て余したままの自分がこの部屋に居るのは、花梨にとって危険のような気がする。
いつ自分が動物になってしまうか分からないのだ。
やはりこの部屋を出よう、と泰継が顔を上げると、居間のアップライトピアノが目に入った。
泰継は、黙って居間に行き、電気を点ける。
椅子に座ってピアノの蓋を開けた。
ドビュッシーの「月の光」を、心のままに弾き始める。
花梨は、その音色を聴いて、思わず肩を抱いた。
怖い。
優しく演奏されるはずの導入部から、全ての音が激しい。
泰継の中の男が、渦巻いている。
先ほどの泰継の言葉がよみがえってくる。
安倍泰継でなくなる。
ただの男になる。
・・・動物になる。
月に向かって吼えるように、泰継は曲全体を激しく弾き続けた。
曲が終わる。
泰継は、間髪入れずに再び「月の光」を弾き始めた。
先ほどより、激しさが収まっている。
花梨の中の恐怖も静まっていく。
そのまま、泰継は何度も何度も「月の光」を弾き続けた。
30分ほど経った時には、泰継の演奏は、優しく、暖かいものになっていた。
通常は激しく演奏される部分さえも、弱い音で柔らかく。
月が全てを照らすように。
包み込むように。
・・・静かに見守るように。
自分を取り戻して満足した泰継が、椅子から立ち上がった。
客間に戻ると、花梨は安らかな顔で寝息を立てていた。
泰継は、自分の布団をずらして花梨の布団にくっつけると、布団に入って花梨の寝顔を眺める。
やがて、ピアノを弾き疲れた泰継も、そっと瞳を閉じた。
翌朝、目を覚ました花梨が、泰継の秀麗な寝顔のアップに驚いたのは、言うまでもない。