恋心
「花梨、最近、どこか身体の具合が悪いのではないか?」
タムを持った泰継がシンバルスタンドを持って前を歩く花梨に声をかけた。
「え?・・・いえ・・・」
花梨は泰継と目を合わさずに首を振る。
「先週から顔色が悪い。口数も少ない。」
そう言うと、頼忠の車にタムを積み込む。
「あ・・・確かに、最近ちょっと寝不足かな・・・」
隣でシンバルスタンドを積み込みながら、花梨が作り笑いを浮かべた。
「睡眠は短くとも、質の良いものをとらなくてはならない。」
泰継は、そう言いながら車から離れ、花梨の左手を取ると、掌のあちこちを押し始めた。
「わ・・・気持ちいい!泰継さん、マッサージ上手ですねえ!」
「上手でなくては困る。来年には就職だからな。」
「へ?もしかして、マッサージ師になるんですか?」
「いや。専門学校で鍼灸師の訓練をしている。」
「シンキュウシ?」
「針や灸などを使って身体を健康な状態へ戻す仕事だ。このように触れて体の不調を見つけ、その不調に対応したツボへ針を打つ。ツボは体中にあるが、不調を見つけるだけなら手だけでも分かる。例えば・・・ここだ。」
いきなり親指と人差し指の付け根の中間あたりを強く押す。
「イタッ!」
花梨が目をギュッと瞑って肩をすくめた。
「胃が荒れている。あまり食事もしていないな?」
「いたたた・・・泰継さん、離してください〜!」
泣きそうな声で花梨が懇願するのを見て、荷物を積み終えた他のメンバーも花梨の周りに集まってきた。
頼忠はトランクの前で積まれた荷物を配置し直している。
「泰継、あまり花梨をいじめるなよ。それマジで痛いんだぞ。」
「勝真さんは、いつもやられてますからね。」
彰紋がからかうように言うと、泰継も花梨の手を離し勝真に向き直った。
「お前は酒を控えてタバコをやめろ。」
Gパンのポケットからタバコの箱を取り出そうとしていた勝真がギクリと手を止める。
「それから、納豆は血をサラサラにするとみのさんが言っていたそうだ。納豆を食べろ。」
「・・・へーい。」
勝真が肩をすくめて渋々と返事をする。
「ミノサン?」
「モンタだよ。みのもんた。」
首を傾げる花梨に勝真がうんざりした声で言った。
鍵の返却を済ませた幸鷹が店から出てくる。
「はい、皆さん。今日は月初めですから集金です。」
クリアーケースからところどころに筆算が書かれた銀行の封筒を取り出す。
スタジオ代や、泉水の楽譜コピー代などの経費を集めるのだ。
余りは打ち上げ用に積み立てているらしい。
全員がゴソゴソと財布を出すと幸鷹に五千円を支払った。
幸鷹が、集め終わったお金をもう一度数えなおしてから、銀行の封筒に入れる。
「OKです。では、帰りましょうか。」
その言葉に、花梨が固まった。
ちらりと頼忠を見る。
頼忠がつい、と目をそらすのを見て、花梨が暗い顔になった。
花梨の体調不良の理由、それは頼忠だった。
あの事件があってから、頼忠は花梨を避けていた。
必要最小限の会話はするので他のメンバーは気付いていないが、花梨は気づいていた。
頼忠が花梨と目を合わせないからだ。
自分の何が悪いのかと思うと、夜も眠れないし、ご飯も美味しくない。
ぼーっと考え込んでいる花梨に泉水が歩み寄った。
「花梨さん、今日も私と帰りましょう。」
「あ・・・」
やっぱり、と花梨は心の中で呟いてから、痛々しく笑顔を作った。
「はい。すみません、泉水さん。」
頼忠は、その様子を後ろから見ていた。
あれから、頼忠は花梨とどう接していいかわからず、メンバーの中で一番害のなさそうな泉水を送り役にして接触を避けていた。
しかし、この一週間、気付けば花梨のことばかり考えていて、昨日などは、見積書に印鑑を押し忘れて客先に郵送するという、初歩的なミスを犯したばかりだった。
頼忠はそんな自分を認めたくなかった。
教師を目指していた経験からか、女子高校生に淡い気持ちを抱いている事が、犯罪としか思えない。
練習中も、なるべく花梨と目を合わせないようにしているのだが、目をそらしている時間以外は全て花梨を目で追っていると言ってよかった。
イサトや彰紋とふざけ合う花梨、翡翠や勝真にからかわれる花梨、幸鷹の言葉に笑顔で頷く花梨、泰継に手を握られる花梨。
そして今、泉水と並んで歩き出す花梨の後姿を見て、もうたくさんだ、と思う。
道ならぬ恋をかなえるつもりはないが、他のメンバーと仲良くしているのを見るのはもっと辛い。
突然、大股で歩き出すと、泉水の肩をつかんだ。
「泉水、やはり今日は私が花梨さんをお送りします。」
「あ・・・分かりました・・・」
頼忠の迫力に脅えきった顔で泉水が頷く。
花梨は驚いて頼忠を見上げたが、頼忠は目を合わせず、黙って踵を返すと助手席のドアを開けた。
「じゃ、じゃあ、お疲れ様でした。」
花梨は車の前でメンバーにぺこりとお辞儀をすると、大人しく助手席に乗り込む。
頼忠がそのドアを閉めて、運転席に回った。
すぐにエンジンがかかり、車が滑り出す。
「なんかさ、あの二人、ヘンじゃねぇ?」
「いつもながら年齢と経験の割に鋭いねえ。」
翡翠が笑みを作り、その言葉にイサトが釈然としない顔をした。
車の中は緊迫した沈黙に満たされていた。
二人ともしばらく黙って相手の様子を伺っていたが、先に口を開いたのは頼忠だった。
「先日の件ですが・・・」
いきなりそれですか、と花梨は頬を染めて固まる。
「は、はい。」
「故意でないとはいえ、あなたを穢す行為でした。申し訳ありませんでした。」
「そんな、頼忠さんが謝ることじゃないですよ。私の不注意です。」
「10歳も年上の男にそのような思いやりは不要ですよ。」
「そ・・・そ、そう言えば頼忠さん、もうすぐ26になるって言ってましたけど、お誕生日いつなんですか?」
話を変えようと花梨は努めて明るく言った。
「・・・10月12日です。」
「わー、じゃあ、何かお祝いしなくちゃ。」
頼忠が暗い声で答えたせいで、花梨の明るさが空回りし、棒読みのようになる。
「お詫びをしなくてはならない者が、お祝いをしていただくなど言語道断です。」
なおも頼忠は暗い声で答える。
花梨が作り笑いを消し、口をつぐむと俯いた。
再び車の中を沈黙が支配する。
街灯の明かりが二人を照らしては過ぎていく。
突然、花梨から小さく声が漏れた。
「・・・なんか・・・こんなのイヤです・・・」
よく聞こえなかった頼忠が、運転をしながらちらりと花梨の方を伺う。
花梨が両手でスカートを握って肩を震わせていた。
慌てた頼忠は、ウインカーを出し、ガードレール沿いへ車を寄せて停める。
ハザードランプを点けると、ぼろぼろと涙をこぼす花梨を見て愕然とした。
急いでシートベルトを外して、後部座席に置いてあった箱を取ってティッシュペーパーを2、3枚取り出す。
それを花梨の顔に当てたが、涙を拭ってあげるようなことはできずに手を離した。
1枚目が花梨の顔に貼りつき、あとのペーパーはハラリと落ちる。
勝真が見たら大いに自分を馬鹿にするだろう、と思いながら、頼忠がもう一度おずおずと手を出す。
しかし、その時には花梨が自分で顔を拭いていた。
「申し訳ありません・・・また貴女を傷つけてしまったようです。」
花梨が俯いたまま涙声を出す。
「どうして私を避けるんですか・・・お詫びとか言語道断とか・・・なんか冷たいし・・・私の胸のせいですか・・・」
興奮した頭で思ったことをそのまま口に出しているせいか、全く脈略がない。
「は・・・?」
頼忠が思わず訊き返す。
「胸が小さいせいですか?」
花梨が急に顔を上げて、涙に濡れた瞳も隠さずに詰め寄る。
「い、いえ・・・他と比べたことがありませんので・・・柔らかさに驚いて大きさの事は何も・・・」
そう言っている内に頼忠の顔が真っ赤に染まっていく。
「・・・・・・」
花梨が目を見開くと、不思議そうな顔で頼忠を見つめた。
「あ・・・」
バレた、と頼忠が右手で目を覆って俯く。
花梨はその様子を見て頼忠が童貞である事を確信したが、すぐにまた根本的な問題を思い出すと、俯いて涙をこぼした。
「じゃあ・・・なんで?・・・私、もっと頼忠さんと仲良くなりたいです。」
その言葉に、頼忠がそのままの姿勢でため息混じりに言った。
「もっと仲良くなると、どうなると思いますか・・・?」
「え・・・?」
花梨が顔を上げる。
頼忠が辛そうに目を閉じて、右手で眉間をつまんだ。
もしかしたら涙を堪えているのかもしれないと思えるような、悲痛な声を出す。
「私がこれ以上、貴女に浅ましい気持ちを募らせたら、どうなると思いますか・・・?」
「浅ましい・・・気持ち?」
花梨が聞きなれない言葉に首を傾げる。
「・・・恋心ですよ。」
眉間をつまんでいた右手をハンドルに置き、目を開けて花梨を見つめる頼忠の瞳は、冬の夜空のように澄んでいた。
花梨の心臓が跳ねる。
頼忠の瞳を見つめたまま動けない。
「私のような者が女子高校生に恋心を抱くなど、犯罪です。」
頼忠がそう言って瞳をそらす。
「だから・・・避けて・・・」
花梨が呆然として呟いた。
「はい。」
頼忠が真顔で頷いた。
「・・・・・・」
花梨が黙ったのを見て、頼忠が再びシートベルトをつける。
車を走らせようとギアに手を置いたとき、花梨が頼忠の腕をつかんだ。
「?!」
「頼忠さんのバカ!誰かを好きになる事のどこが犯罪なんですか?!年の差なんてどうでもいいじゃないですか!・・・私の気持ちは・・・どうなるん・・・ですか・・・?」
頼忠の腕を揺すりながら言い募っていた花梨の声が急速に力を失くし、最後の言葉は掠れて消えた。
再び花梨の瞳から涙が溢れ出す。
頼忠は、花梨の言葉の意味に気付いて頬を染めると、もう一度ティッシュペーパーを何枚か取り出して、ぎこちなく花梨の涙を拭った。
車が走り出しても、花梨は思い出すように泣きだしたり、鼻をかんだりしていた。
その間、頼忠はやはり、黙り込んでいた。
花梨の家の前で車を停めると、花梨からCDを受け取って、申し訳なさそうな顔をする。
「すみません。今日はお貸しするCDを持って来ませんでした。」
以前の調子に戻った頼忠が嬉しくて、花梨は笑顔で首を振った。
「いいえ。今日もここでいいですよ。」
そう言いながら、花梨が車を降りる。
しかし、頼忠は車を降りると花梨の後をついてきた。
花梨としては、親に泣き腫らした目の言い訳をしなくてはいけないので、あまり頼忠に同席して欲しくない。
「ご挨拶は肝心ですので。」
そう言い張る頼忠に、花梨は困りながらも家の玄関を開けた。
「ただいま〜。」
「はいはい、お帰り。あら、今日は頼忠さんに戻ったのね。」
花梨の母親が出てきて、無邪気に言う。
頼忠は、この母親と最初に会った時から、花梨の性格は母親似だと確信していた。
「うん。」
花梨が答えるのと同時に、頼忠が口を開いた。
「花梨さんのお母様、突然で申し訳ありませんがお父様はいらっしゃいますか?お二人に折り入ってお話がございます。」
「へ?」
花梨が目を丸くした。
花梨の母親もそんな花梨を見て少し不思議そうにしたが、にっこりと笑った。
「ちょっと待ってね。お父さん、お父さァん。」
リビングに向かって声を張り上げる。
「なんだ?」
花梨の父親がもぐもぐと口を動かしながら、ついでに弟もゲームボーイを持ったまま興味津々の顔で出てくる。
「お食事中に申し訳ありません。私、源頼忠と申します。」
「ああ、いつも花梨を送ってくれてるんだってねえ。そこの道が暗くて心配だから助かってるよ。」
人懐っこい笑みを浮かべる。
花梨の笑顔は父親譲りのようだ。
「恐縮です。」
頼忠が深々と頭を下げると、突然、玄関のタイルの上に正座した。
「よ、頼忠さん、汚れちゃうよ?!」
花梨が驚いて屈んだが、頼忠はそのまま両手をついた。
花梨の両親が目を丸くし、弟がブフッと吹き出す。
「突然で申し訳ありませんが・・・」
頼忠はそう言って、タイルに頭を擦り付けると、続けた。
「花梨さんと結婚を前提にしたお付き合いをさせてください!」
「け、けっ・・・けっこん?」
花梨がみるみる真っ赤になる。
「まあ〜!!」
花梨の母親が感嘆の声を上げる。
「花梨、今どきこんな人居ないわよ!お母さん、大賛成!ほら、上がってもらいなさい。ねえ、お父さん、いいわよね?夕飯一緒に食べましょう?」
そうまくし立てると、台所へ消えていく。
花梨の弟は母親を見送ると、真っ赤になって慌てている花梨と平伏し続ける頼忠、それから呆然と立ち尽くす花梨の父親を見比べて、もう一度ブフッと吹き出した。
「よ、頼忠さん、そんないきなり結婚なんて・・・」
花梨がしゃがんで頼忠に言うと、頼忠が上体を起こした。
正座のままで、頬を染めた頼忠が口を開く。
「いえ、やはり先日の件が気になります。責任を取らせていただきたいのです。」
花梨が、ひええ、と青くなって横目で父親を伺う。
「先日の件・・・責任・・・」
花梨の父親は遠い目をして裏返った声で呟いていた。
花梨の弟が不思議そうに父親を見上げると、その目の前で手をヒラヒラと振った。