二人のペース
日曜日、頼忠と花梨が乗るミニバンは、隣の市へ向かっていた。
汚れても良い格好で、上着を持ってきてください、と頼忠に言われたので、花梨はGパンにトレーナー姿でジャンパーを抱えている。
隣で運転をしている頼忠も、Gパンにざっくりとネルシャツを着ている。
いつもはコットンパンツにポロシャツやジャケットといった固めのいでたちが多いので、少年のようなその姿は新鮮だ。
ハンドルを握る頼忠の横顔は、心なしか嬉しそうに見える。
そう思うのは、花梨がウキウキしているせいだろうか。
なんてったって、初デートだもんね、と花梨はにやけた。
頼忠の誕生日からひと月の間、デートに誘われるのを根気よく待っていた花梨だったが、先日、ついに痺れを切らしてしまった。
思い切ってデートに誘った時の頼忠の反応は、意外にも、とても嬉しそうだった。
花梨さんの行きたい所へ、と言い張る頼忠を説得して、頼忠の行きたい所に連れて行ってもらうことにした。
いつも花梨に合わせてくれる頼忠が、楽しむ姿を見たかったのだ。
「今日は、ドラムセットはお留守番ですか?」
「はい。これから山道を走りますので。」
「山道?」
頼忠が微笑んで頷く。
「はい。」
「まさか・・・山登りですか?」
「その通りです。」
「う・・・」
困り果てた花梨の声を聞いて、頼忠が優しく訊ねる。
「花梨さんは、山登りが苦手ですか?」
「・・・はい・・・」
花梨が申し訳なさそうに頷いた。
前を向いたままで、頼忠が微笑む。
「大丈夫ですよ。貴女のペースに合わせます。今は、紅葉が盛りですので、それを見せて差し上げたいだけなのです。きつくなったら途中で戻りましょう。」
花梨がほっと息を吐いた。
「良かった・・・頼忠さん、体力ありそうだし、ついていけないと思っちゃいました。」
頼忠が不思議そうな顔をする。
「そう見えますか?・・・確か、出身大学をお教えした覚えはないのですが・・・」
「え?先生になる大学って、この辺だと学芸大学ぐらいじゃないんですか?」
頼忠が、ふ、と悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「私の出身は大豊体育大学です。」
「ええ〜?!体育の先生になるんだったんですか?!ますますついていけないじゃないですか!」
花梨が大きな声を出して騒ぐのを聞いて、くすくす、と頼忠が笑う。
それを見上げて、花梨が嬉しそうに呟いた。
「よかった・・・頼忠さん、笑ってくれて・・・」
「は・・・?」
頼忠がキョトンとしたので、花梨は迷いながら口を開く。
「あの・・・頼忠さん、デートとかも誘ってくれないし、笑ってるのもあんまり見たことないから、私と居ても楽しくないのかなって心配になるときがあるんです。」
頼忠がはっとした。
「申し訳ありません・・・花梨さんにそのような思いを・・・私が無愛想なのは、生来の性格です。それと、デートに誘わなかったのは・・・その・・・タイミングが分からなかったのです・・・」
「タイミング?」
花梨が目を丸くする。
「お付き合いを始めてから、どのくらいでデートに誘って良いものか・・・」
言いながら、頼忠はウインカーを出して山道へ曲がる。
花梨が絶句した。
もしかして。
「あの・・・頼忠さん、彼女いない歴何年ですか・・・?」
頼忠がギクリとしてから、諦めたように静かに言った。
「・・・26年です。」
「ええ〜っ?!信じられない!」
花梨が叫んで、頼忠が傷ついた顔をした。
「恋愛経験のない男はお嫌いですか?」
「そ、そうじゃなくて、頼忠さん、こんなに優しくてかっこいいのに・・・告白とか受けた事あるでしょう?」
「はい・・・しかし、よく知らない女性や好みではない女性から言われることが多く、困ることばかりでした。」
「全部断っちゃったんですか?!」
「はい。気持ちの伴わないままお付き合いするのは失礼ですので。」
「好きな人から言われる事はなかったんですか?」
「学生時代には何度か・・・ですが・・・精神鍛錬の妨げになると考えていましたので・・・」
「断っちゃったんですか?!」
「・・・はい。」
「・・・」
花梨が再び絶句する。
頼忠は言い訳をするように話し始めた。
「剣道の有段者は、精神的にも成熟していなければならない、とされています。高校までの間は、身体を苛めれば精神的に成熟できると思っていましたので、朝から晩まで鍛錬ばかりの生活で、周りに目が向いていなかったのです。」
「そうだったんですか・・・じゃあ、大学に入って、考えが変わったんですか?」
「はい。大学に入ってと言うより、勝真と出会って、私の考えは変わりました。」
「勝真さんが?!その頃の勝真さんって、確か、不良グループに入っていたんですよね?」
「はい。お母様がその様子を心配なさって、勝真が暴れても勝てるような家庭教師を探していたのです。縁があって私が行く事になりましたので、何としても彼を更生させようと躍起になりました。しかし、なかなか思うようにはいかず、ぶつかり合ってばかりでした。」
花梨は息を飲んで話を聞いている。
頼忠がドリンクホルダーの缶コーヒーを一口飲んでから続ける。
「その度に、お前に俺の気持ちが分かるか、と言われました。その通りです。学校と道場の往復しかしてこなかった者に、不良の気持ちが分かる訳がありません。ましてやそれを更生させようなど・・・私はそれに気付かないまま、何度もがむしゃらにぶつかりました。勝真は生来素直な性格ですので、私がそうして体当たりをしていく中から必要な事を拾い上げ、自分の力で更生したのですよ。」
頼忠がどこか誇らしげな瞳になった。
「更生した勝真は、不良だった経験から広い視野を勝ち得ました。悪い面も良い面も両方併せ呑んだ上で、相手にとって何が一番良いかと考える態度、それこそが精神的な成熟だと、私は思いました。自分の内面以外の事に見向きもしないで生きてきた私が人を教える立場になるなど・・・そう思ったのも、教員になる事をやめた理由の一つです。」
花梨が深く頷きながら、納得のため息をついた。
「話がそれましたね・・・その頃になってやっと、自分には恋も必要と思い始めたのですが・・・就職してからは出会いも少なく、心を奪われる女性も居ないままで・・・すみません・・・私のような不甲斐ない男が相手ではご迷惑でしょうが・・・」
花梨が慌てて首を振る。
「いいえ!私、嬉しいです。頼忠さんにとって私が初めてで・・・私、頼忠さんに、こんな子供は嫌だって思われるのが怖いんです。大人な元彼女の方が良かったって思われたらどうしようって、いつも思ってました。」
「そのようなこと・・・私は、貴女が子供だと思った事は一度もありません。むしろ・・・」
そのまま頼忠が頬を染めて黙り込む。
頼忠の言葉が途切れたので、花梨が不安そうに続きを促す。
「むしろ?」
頼忠は少し考えてから口を開いた。
「私よりも大人だと・・・そろそろ山肌が見えてきましたね。」
「わあっ、キレイ!」
広いフロントガラスから見える色とりどりの山肌に、花梨が歓声をあげる。
頼忠は、その様子に微笑むと、車のスピードを落としてからこっそりとため息をつく。
大人の女としての花梨に、毎晩悩まされているとは、言えない。
「わっ、ここもいい場所!」
両側を覆っていた林が急に開けて、花梨が声を浮き立たせた。
ススキに覆われた斜面の向こうに、色づいた向かいの山肌がよく見える。
「やっほー!」
花梨が叫ぶと、よく晴れて澄んだ空気の中に、可愛い声がこだました。
「楽しい〜!」
満面の笑みの花梨に見上げられ、頼忠も嬉しそうに微笑む。
「この調子ならお昼には頂上に着けそうですね。山登りが苦手なようには、とても見えませんよ。」
花梨が不思議そうに登ってきた道を振り向いた。
「おかしいですね・・・小学校の遠足とか、すごく苦しかったんですよ?」
「遠足は隊列を作って時間通りに進みますから、自分のペースで登れない分、辛かったのかも知れませんね。」
「自分のペース・・・そうですね・・・」
花梨が言いながら再び山道を登り始めた。
枯葉にふっくらと覆われた山道は、頼忠のように花梨を優しく受け止める。
花梨が急に振り向いた。
「頼忠さんは?」
「・・・?」
後ろからついてきていた頼忠が、曖昧に微笑んで見下ろす。
「頼忠さんのペースは?荷物も持ってもらっちゃってるし・・・私に合わせてゆっくり歩くのって、かえって疲れないですか?」
「私は、花梨さんが楽しければそれで・・・」
「頼忠さんも楽しくないと嫌なの。」
「花梨さんが楽しければ楽しいですよ。」
「じゃあ、『やっほー』ってしてください。」
「い、いえ、それは・・・」
「ほら・・・私が楽しい事と、頼忠さんが楽しい事は、違うでしょう?」
「・・・・・・」
「頼忠さんがしたい事は、何ですか?紅葉を見たいだけ?」
「・・・・・・」
したい事。
そう。
紅葉など、どうでも良い。
花梨とどこに行こうと、何を見ようと、したい事はひとつ。
・・・触れたい。
「お願い、頼忠さん、教えてください・・・私、頼忠さんに合わせてもらってばかりは嫌なんです。」
花梨が頼忠に近寄って見上げる。
頼忠が、苦しげに視線をそらした。
その様子を見て、花梨は眉根にしわを寄せる。
「頼忠さん・・・もしかして、何か我慢してるんじゃありませんか?」
頼忠は真顔になると、すうっと音を立てて深く息を吸う。
次の瞬間、花梨の頭は頼忠の胸に押し付けられていた。
「・・・我慢・・・しています・・・」
頼忠が搾り出すように囁く。
ようやく抱きしめられたのだと気付いた花梨の心臓が大きく跳ね、そのまま痺れて動けなくなる。
頼忠も、そのまま黙って花梨を離そうとしない。
どれくらいそうしていただろうか、登山用のカウベルの音が聞こえてきて、二人は慌てて離れると、向かいの山肌を眺める振りをする。
「こんにちは。」
熟年夫婦がにこやかに挨拶をしながら追い越して登っていった。
「こ、こんにちは。」
かろうじて返事を返してから、花梨が俯く。
熟年夫婦が見えなくなると、頼忠が先に口を開いた。
「・・・すみませんでした。」
花梨が首を振る。
「いいえ・・・頼忠さんのしたい事って・・・もしかして、今みたいな事だったんですか?」
「・・・すみません。」
頼忠の謝罪は、肯定だ。
「謝らないで下さい。私、大丈夫ですから・・・心臓がもつか分からないけど・・・でも・・・あの・・・けっこう嬉しかったし・・・頼忠さんの胸って、広くて安心するし・・・」
花梨がもじもじとトレーナーの裾をいじりながら言う。
それを聞いた頼忠は、もう一度、優しく花梨を抱き寄せた。
今度は花梨も身体を預けて、頼忠の腰に腕を回すと、再び口を開いた。
「私、何も気付かなくて・・・今まで我慢させてごめんなさい・・・もう、我慢しないで下さいね?・・・私、頼忠さんのペースに合わせたいんです。」
「・・・・・・」
頼忠は卒倒しそうになった。
そんな事をしたらデートどころではなくなる。
今も、もっと強く抱きしめたくてたまらないのだ。
ついさっきまで触れるだけで良いと思っていたのに。
欲望が、溢れてくる。
「頼忠さん?」
頼忠の答えがないので、花梨が上目遣いで頼忠を見上げる。
思わず頼忠はその顔に見とれた。
可愛らしい花梨の唇に視線を移して、頬を染める。
再び花梨の瞳に視線を戻すと、花梨の頬を撫でて、もの問いたげな顔で首を傾げた。
頼忠の瞳が引力を増した事に気付き、花梨がはっとする。
しばらくそのまま頼忠に見つめられて、花梨は、頼忠の一連の動作が何を表しているかを悟った。
耳まで赤くなってから、恐る恐る目を閉じる。
それを見届けてから顔を近づける頼忠の脳裏に、以前に一度だけしたキスがよみがえった。
力加減が分からなかったのと、恥ずかしかったのとで、その時は触れるか触れないかのキスしかできなかった。
そのせいで、花梨はキスに気付かなかったのだ。
頼忠は、花梨の肩を軽くつかんで少し屈むと、今度は気付いてもらえるように、強く口付けた。
そこで初めて、頼忠は、花梨の唇の小ささと柔らかさをはっきりと認識した。
頼忠の背筋に、電流が走る。
ゾクリと身体が震えてしまったので、慌てて唇を離した。
姿勢を戻すと、ぐったりとした花梨が身体を預けてくる。
「やっぱりダメかも・・・頼忠さんのペースだと・・・心臓が・・・」
花梨の身体を受け止めながら、頼忠は、まずい、と思っていた。
この間のものは、キスとは言えないものだったことに気付いてしまった。
キスというものは、一度味わったら何度も欲しくなってしまう、麻薬のような代物だったのだ。
それどころか、身体の芯を激しく刺激する。
欲望がますます激流となって溢れ出して来る。
もう一度口付けたい。
今度は、もっと長く。
花梨の心臓が壊れてしまうほどに。
そして・・・唇の中も味わってみたい。
・・・それから・・・この身体に当たっている柔らかい胸を手でつかんで・・・それから・・・
ちらりと近くの林を見る。
あの奥に入ってしまえば、他の登山客に見つかる事はない。
そこまで考えてから、頼忠がはっとした。
自分のどす黒い思考に戦慄を覚える。
花梨が急にぎゅっと抱きついてきた。
心の中を見透かされたような気がして、頼忠がギクリとする。
そんな頼忠には気付かず、花梨は頼忠の胸に耳を押しつけて嬉しそうに呟いた。
「・・・頼忠さんも、すごくドキドキしてますね・・・」
抱きついてきたのは、心音を近くで聴くためだったのだ。
頼忠は、その無邪気な言葉に、心が痺れるのを感じた。
それまでとは正反対の感情が湧き上がってくる。
花梨をこのまま柔らかく包んで永遠に保存してしまいたい。
保護本能と言うべきものだろうか。
頼忠の中に渦巻いていた欲望が、鎮まっていく。
頼忠は、自分が花梨を壊さずに済んだ事に、心底ホッとした。
うっとりと心音を聴く花梨の頭を優しく撫でる。
「私も貴女も、初めてのことばかりですから・・・ペースは、二人で調整しながら作っていきましょう・・・お互いの心臓に負担がかからないように・・・」
最後の言葉に花梨がクスリと笑った。
幸せそうに目を閉じたまま離れようとする気配はない。
頼忠は、花梨の気が済むまでこのままで居ようと思い、顔を上げた。
向かいの山肌の紅葉が鮮やかだ。
そう思ってから、何を今さら、と自嘲的な顔をする。
花梨だけしか見えていない。
これが恋。
もし、花梨を失ったら、何も見えなくなってしまうかもしれない。
・・・それなのに・・・
大切な花梨を、一時の気の迷いで、壊してしまうところだった。
紅葉を眺めながら自分を責め続ける頼忠の顔に、秋の終わりを告げる風が吹き付けた。