最初の一歩
近場のデパートで簡単なものを、と言う花梨の言葉に従って、頼忠は花梨と吉祥寺に来ていた。
明日はホワイトデー。
ひと月前はピンクのハートで彩られていたであろうデパートの内装が、今はスカイブルーのハートで彩られている。
いつもながら自力で花梨へのプレゼントを選ぶ事などできない頼忠は、遠慮する花梨に土下座でもしそうな勢いでお願いして、やっとのことで花梨を連れ出した。
瞳を輝かせて地下階のスイーツを物色していた花梨が、急に不安そうな顔で頼忠を見上げる。
「頼忠さんも、こういう所で買った美味しいチョコレートの方が良かったかな・・・」
スイーツを見て嬉しそうにする花梨の横顔に見惚れていた頼忠は、一瞬反応が遅れた。
「・・・は、何でしょう?」
「こんな風に飾りつけの綺麗なケーキとか、作れたら良かったんだけど・・・」
「・・・・・・」
花梨は、バレンタインデーにココアクッキーを作ってきてくれた。
チョコチップやナッツ類が程好く入っているそれは、小6のときに美化委員会で一年間つきあった花壇の土塊によく似ていた。
部屋に帰ってからいそいそと箱を開けて、頼忠は絶句したが、いつものことなので目をつぶって口に入れた。
やはり今回も、見た目に似合わず美味しかった。
花梨が同席していないのを良い事に、頼忠は、あまりそれを見ないように完食した。
まさかその事をそのまま伝えるわけにもいかない。
頼忠は頭をフル回転させて、何とか言葉を紡ぎ出した。
「・・・あの・・・味が良かったので夢中で食べてしまい、見かけの事はあまり覚えていないのです・・・申し訳ありません・・・こんな私ですから、どうぞ見かけの事など気になさらずに。」
「そうですか・・・?」
カバンを持っていない方の手をショーケースにぺたりとつけたまま、花梨が上目遣いになる。
どうやら自分の言葉が花梨の心を浮上させることに成功したらしいと悟った頼忠は、ホッとして微笑むと、花梨が手をついているショーケースに目をやった。
「はい。それより、こちらのケーキが気に入ったのでしたら、仰ってください。」
「うーん、美味しそうだけど・・・こんな小さいのに、1個800円もしますよ?」
「私にとっては、貴女の手作り菓子の方がよほど高価に思えます。」
「・・・・・・」
花梨が頬を染める。
・・・頼忠さんってば、いつからこんなセリフをさらっと言うようになっちゃったんだろ・・・
頼忠の恥ずかしいセリフを聞いたであろう、ショーケースの向こう側に居る店員をちらりと見る。
営業スマイルを貼り付けた店員が花梨に向けて首を傾げ、さらに営業スマイルを深くする。
惚気たっぷりの会話を聞かされて心中穏やかではないだろうに、流石はプロだ。
花梨は気恥ずかしくなって、800円のケーキを指差した。
「じゃあ、これを・・・」
「2個。」
珍しく横から頼忠が口を挟んだので、花梨が驚いて見上げる。
「え、頼忠さんも食べたかったんですか?」
頼忠はズボンの後ろポケットから財布を取り出しながら、微笑んで首を振った。
「1個では足りないのではないかと思いまして・・・」
図星をさされた花梨は、うっと小さく唸ってから、ますます赤くなってぽそりと言った。
「・・・ありがとうございます。」
花梨は頼忠の変わりように驚いていた。
少し前まで、頼忠は花梨に対して何を言ったら良いか戸惑うように黙り込んでばかりだった。
あんな恥ずかしいセリフを頬も染めずに人前で言えるような人ではなかった。
花梨の隣を歩いていた頼忠が、花梨の手からケーキの入った赤い紙袋を優しく奪うと、ごく自然にその手を握る。
花梨も、一歩先にエスカレーターに乗った頼忠の広い背中を見つめながら、大きな手を握り返す。
手を繋ぐにしても、少し前の頼忠はおっかなびっくりで、じりじりと間合いを詰めるような謎の行動を取ることも多かった。
先ほどのように、花梨が考えていることを察してソツなく対応するなど、全く期待できない朴念仁だったのだ。
いつから。
彼はいつからそんな風に、表情やタイミングを読めるようになったのだろうか。
昼も夜も花梨のことを考え、特に夜にはいろんな意味で花梨のことばかり考え、練習の間も花梨の表情をひと時も逃さぬよう見つめている頼忠だからこその成長ぶりなのだが、花梨にそんな事が分かる筈もない。
エスカレーターを降りた頼忠が振り向く。
「他に、何か欲しい物はありませんか?」
そう言って頼忠が顔を向けた先には、アクセサリーのショーケースがあった。
ホワイトデーにプロポーズをしろと言わんばかりにダイヤをあしらった指輪が並んでいる。
花梨が危険を察知するのと同時に、頼忠が口を開いた。
「そろそろ指輪など・・・」
「ままままだ早いですよ!」
頼忠の言葉を叩き落とすように否定した花梨を、頼忠が見つめる。
あまり変化しない表情の代わりに、頼忠の瞳は雄弁だ。
その瞳が悲し気な色を浮かべているのを見て、花梨ははっとした。
「あ、その、頼忠さんと結婚したくないわけじゃなくって・・・まだ高校生だし・・・」
婚約指輪を受け取ったら最後、翌日には結婚式場のパンフレットを大量に持って来るような気がする。
他のことには疎いくせに、なぜか結婚のことになると頼忠の行動は積極的になるのだ。
そのペースで事を進められたら、多分、来年の今頃には源花梨になっているだろう。
そして、そんな頼忠が、奥様は高校生な夫婦生活を理性的に営んでくれるかどうかも不安だ。
枷を外した途端、人が変わったようになる頼忠の行動は、予測できない。
孕まされて高校を卒業できないのは嫌だとも言えず、花梨がしどろもどろになる。
すると、強い香水の匂いを放ちながら中年の店員が近づいてきた。
「メイクアップアドバイスを受けてみませんか?春の新作もお試しいただけますよ。」
「え・・・でも、まだ高校生だし・・・」
頼忠に対してと同じ言葉を発している自分に微かな違和感を覚えながら、花梨が一歩後ずさった。
興味はあるが、子供っぽい自分に似合うメイクなどあるのだろうか。
「あらぁ、お化粧してるお友達、たくさん居るでしょう?」
それは確かにそうだ。
千歳だって、学校には化粧して来ないが、休日に出かける時などはバッチリなのだ。
「でも・・・彼氏待たせちゃうんで・・・」
頼忠を見上げて言うと、店員がクスクスと笑った。
「大丈夫、すぐ終わるから。彼だってお化粧してキレイになったアナタを見たいと思うわぁ。ねぇ、見たいわよねぇ?」
店員が淫靡な笑みを浮かべて頼忠を見上げる。
「・・・いえ、その・・・私はどちらでも・・・」
頼忠が戸惑った声を出して頬を染めた。
めでたく花梨に朴念仁脱出認定を受けたとは言え、まだまだ慣れない状況には未対応なのだ。
花梨はと言えば、店員の言葉に大きく心を動かされていた。
頼忠は、変わった自分を見たいだろうか。
「じゃあ・・・お願いします。」
花梨がおずおずと言うと、店員はニッコリと頷いて二人をカウンターへ促す。
カウンターで待っていた若いメイクアップアーティストは、頼忠を見て感嘆の声を上げた。
「わっ、いいオトコ!アナタ、こんなカッコイイ彼氏連れてスッピンじゃ勿体無いよ!」
カウンターに座る前からスッピンだと言われて、花梨は驚いた。
やはり遠目に見ても化粧をしているかしていないかはすぐに分かってしまうものなのだろうか。
そこまで違うものなら変わってみたい。
頼忠はメイクアップアーティストにジロジロと見られて、居心地悪そうに一番離れた端の椅子に座った。
カウンターの上にケーキの紙袋を置くと、手持ち無沙汰なのか、剣道やドラムセットの練習のせいで掌のあちこちに常時できている肉刺をいじり始める。
花梨がメイクアップアーティストの前に座ると、彼女はニヤニヤしながら小声で話しかけてきた。
「なにあれ、照れてるの?身体はデカイくせにカッワイイ!」
ちょうど花梨もそう思っていたところだったので、思わず吹き出す。
花梨が笑顔になったのを見ると、彼女も安心したように微笑んだ。
「さてと、今日はどんな感じにしようか?」
「えっと・・・彼、あんなだし、派手なのは驚いちゃうと思うんです。」
「うんうん、そんな感じだね。じゃ、思いっきりナチュメでいこうか?」
「はい。」
気さくな彼女の物言いに、花梨はワクワクしながら頷いた。
自分がどんな風に変わるのか、見てみたい。
化粧ひとつで変われるものなら、変わってみたい。
それは、頼忠が変わったことによって花梨の中に生まれた焦りだった。
今までそういう気持ちはなかった。
頼忠がロマンチックとは程遠い発言をするたび、ムードとは程遠い行動を取るたび、花梨は、こういう人だから子供みたいな自分でも釣り合うのだと安心してきた。
そうでもしないと、途端に不安になる。
10歳も年上の頼忠が暮らす社会など、高校生の花梨には想像できない。
魅力的な大人の女性もたくさん居るだろうし、頼忠の容姿に惚れて近づく女性もたくさん居るはずだ。
年の差を気にする頼忠を嗜めながら、一番それを気にしているのは自分なのかもしれない。
いつのまにか、高校生という言葉が、何かというと口をついて出るようになってしまった。
高校生だから、学生だから、と言うと頼忠は怯む。
その言葉を免罪符のように乱発して、結婚したがる頼忠と向き合わずにいることも確かだ。
高校生は化粧をしてはいけないというルールもなければ、高校生は結婚してはいけないというルールもない。
ただ、一歩踏み出す勇気が出ないだけ。
自分だけを飽かず見つめてくれる頼忠の態度に甘えているだけ。
「ん、いい感じ!」
メイクアップアーティストが、眉を整えていたブラシを置くと、満足そうに鏡を花梨に向けた。
少し、変わっただろうか。
説明を受けながら何度も鏡で化粧の過程を見ていたため、変化が分からない。
ナチュラルメイクなのだから、それくらいで充分なのだろう。
あまり変わってしまっても、頼忠が嫌がるかもしれない。
「ありがとうございました。」
花梨が微笑むと、メイクアップアーティストは、待っているはずの頼忠の方を見て吹き出した。
「待ちくたびれて寝ちゃったみたいよ?」
見ると、頼忠は俯いて目を閉じていた。
3月末は決算なので仕事が立て込んでいると言っていた。
そんな態度は見せないが、疲れているのだろう。
花梨はメイクアップアーティストに向けて微笑んでから、頼忠に小さく声をかけた。
「頼忠さん。」
すぐに頼忠がはっと目を開けて花梨を見る。
頼忠は、そのまま黙って固まってしまった。
「・・・なんか・・・驚いてるみたい・・・派手だったんですかね・・・」
花梨が苦笑してメイクアップアーティストを見ると、彼女は首を傾げた。
「そっかなあ?めちゃ自然に仕上げたつもりだったんだけど・・・」
言いながら、銀文字で化粧品のブランド名が刻印された黒い紙袋を出して続けた。
「・・・とりあえず、これ、トライアルキットとアドバイスブック、あげるね。それと、ダメもとで言うけど、これが今日使った春の新作。今、キャンペーン期間中で2割引なの。アナタは肌が白いからファンデーションはこの色ね。今日は買わないだろうけど、いつか買う時のためにここに書いてあるナンバー覚えておいた方が便利だよ。それから、マスカラはこのクリアを使って、アイシャドーはこのベージュ軽く載せただけ、眉も描かなかったし、リップも春の新作使いたいのグッとこらえてこっちのグロスでナチュラルに仕上げたんだよ?あと、せっかくの美白なんだから、UVケアセット。これだけは若いうちからやっといた方が絶対・・・」
「全部ください!」
「「は?」」
いきなり頭の上から聞こえた声に、花梨とメイクアップアーティストが同時に声を上げて目を見合わせる。
振り向くと、いつの間にか花梨の後ろに来ていた頼忠が、頬を染めて拳を握り締めていた。
こらえきれないように笑みを浮かべた頼忠が、何度も花梨の横顔を伺い見ている。
しばらく気づかない振りを決め込んでいた花梨だったが、とうとう耐えられずに口を開いた。
「もう・・・そんなに見ないでください・・・」
可愛い、綺麗だ、似合っている。
そんな言葉が頼忠の口から出て来ることはない。
だが、頼忠が花梨のメイクをかなり気に入っているのは態度で明らかだ。
恥ずかしさから頼忠を嗜めはするが、花梨もまんざらではない。
頼忠が朴念仁から脱して踏み出した一歩と同じくらい、花梨も子供の域を一歩脱することができたような気がする。
ふいに頼忠が花梨の手を離して袖を捲ると、時計を見た。
「まだ、夕方までは時間がありますね。」
そう言って再び花梨の手を取ると、頼忠はデパートを出て、駅の方へ歩き出した。
「先ほど貴女を待っている間に、思い出したのです。商店街のスポーツ用品店へ納品に来た時、北口の方に美味しいメンチカツを売っているお店があると聞きました。行列ができるほどの人気だそうなので、もう売切れてしまっているかも知れませんが・・・」
「・・・メンチカツ?!」
「あ、お嫌いですか?」
「い、いえ、嫌いじゃないです。」
花梨の返事を聞いて、頼忠は安心したように空を見上げた。
「天気も良いですし、井の頭公園で食べませんか?」
「・・・・・・」
外でメンチカツをパクついたら、多分メイクは落ちてしまうだろう。
それに、今日はショッピングだと思ったので、大人っぽく見せようと長めのスカートで来たのだ。
公園を歩き回ったりベンチに座ったりするのは避けたい色と生地のスカートだった。
花梨は小さくため息をついてから、ぷっと吹き出した。
まだ、頼忠は朴念仁を完全には返上していないようだ。
焦ることなど、何もない。
伺うように振り向いた頼忠に晴れやかな笑顔を見せると、花梨は、元気よく頼忠の腕に飛びついて言った。
「はい!行きましょう!」