blood type
『幸鷹さん・・・助けてください・・・』
携帯電話の向こうで、花梨が消え入りそうな声を出す。
幸鷹は、慌てて携帯電話を握りなおした。
「ど、どうしましたか?」
『あの・・・』
「花梨さん?!」
『・・・』
「今どこに居るのですか?」
『駅です・・・』
「ちょっと待っていてください!今すぐに行きますから!待てる状態ですか?!」
『えっ、は、はい・・・』
幸鷹は財布と上着をつかんで、大慌てで部屋の鍵を閉め、全速力で駅まで走り出した。
昨夜の練習に、花梨は来なかった。
テスト中なので勉強したいと元気な声で欠席連絡をもらったばかりだ。
幸鷹が息を切らせて駅まで走って来ると、花梨が申し訳なさそうに駆け寄った。
「幸鷹さん、すみません!」
謝る花梨を制するように手を上げはしたものの、幸鷹はゼエゼエと息をつく。
花梨の身の回りに変化がないことを見てとった幸鷹は、近くのベンチに腰を下ろした。
まだ息が荒い。
「はあ・・・すみません・・・日頃の・・・運動不足が・・・」
息をつきながら自嘲的な笑みを花梨に向ける。
そんな幸鷹を心配そうに覗き込んで、花梨が言った。
「ごめんなさい。私の言い方が悪かったみたいで・・・」
「え?」
幸鷹が笑みを収める。
花梨が俯いてモジモジすると、恥ずかしそうに小さな声を出す。
「あの・・・テスト範囲で分からない所があって・・・」
幸鷹が大きくため息をついてこめかみを押さえた。
「私としたことが・・・」
「ごめんなさい。」
しゅんとする花梨に幸鷹は首を振った。
「いいえ。話も聞かずに文字通り突っ走った私が悪いのです。」
くすりと笑うと立ち上がって続ける。
「場所は、どうしますか?」
「はい・・・図書館で調べてもダメだったんです。幸鷹さんちのパソコン、インターネット繋がりますか?」
「なるほど。それでしたらおやすい御用です。」
幸鷹はにっこりと微笑んで歩き出しながら、浮き立つ心を押さえられずに居た。
昨日会えなかった心の渇きが、甘い蜜のような思いで満たされていく。
花梨の居ない昨夜の練習は信じられないほど味気なく、幸鷹は自分の心を占める花梨の存在を噛み締めたばかりだった。
「それにしても・・・貴女が無事で良かったです。」
花梨に何かあったら、自分はどうなってしまうか分からない。
たった今、冷静な判断さえもできなくなってしまうことが、立証されてしまった。
花梨を連れて部屋の鍵を開けた幸鷹は、ドアを開けてから動きを止めた。
申し訳なさそうに花梨を振り返る。
「少し待っていてください。部屋が乱れていますので片付けます。だらしなくてすみません。」
「い、いえ、私の部屋なんかすごく汚いですよ。悪いのは急に来た私ですから。」
花梨が慌てて幸鷹の言葉を打ち消し、中に入ろうとする。
好きな女性に散らかった部屋を見られたくない幸鷹は、とっさに思いついたことを言った。
「では、女性に対して失礼なものが見えていないかどうかだけでも、チェックさせてください。」
「え?失礼?・・・あ!」
キョトンとした花梨だったが、幸鷹の遠まわしな表現を理解したとたんに、赤くなって俯いた。
幸鷹はそんな花梨を見て、こういうのも悪くない、と思いながら部屋に入る。
が、すぐに、今のはセクハラに当たるのではないか、と思い直した。
浮かれる心を冷ましながら、寝起きのままの乱れたベッドを整え、床に散らばった資料を机の上にまとめる。
女性に対して失礼なもの、とやらをそこらに放置するような幸鷹ではない。
花梨は俯いたまま、大人しく外で待った。
花梨にとって幸鷹は、常に紳士的に振る舞う真面目な男性で、そういうことには縁がないように見えていた。
教室の隅で集団になってエッチな本を見ていたクラスの男子を思い出す。
頭の中でそこに幸鷹を同席させてみようと試みたが、想像がつかなくて首を傾げた。
しかし、幸鷹もそういう男の一人なのだということを、今更ながら気付かされてしまった。
そして、これから密室に二人きりという状態になるということにも、今更ながら気付いてしまった。
花梨がますます赤くなっていると、ドアが開く。
「お待たせしました。」
「はっ、はい!おじゃまします!」
ドアを押さえる幸鷹の横を赤い顔をした花梨がギクシャクと通り過ぎて靴を脱ぐ。
その様子を見た幸鷹は花梨の後ろで右手を頭にあてて、失敗した、という顔をした。
「あの・・・」
幸鷹がことさらに落ち着いた声で後ろから話しかけたが、花梨はビクッと肩をすくめる。
「お菓子を持ってきますので、座って待っていてください。」
「あ、お構いなく!」
花梨の声が聞こえたが、幸鷹はそのまま外へ出た。
少し一人にして落ち着いてもらおうと考えたのだ。
花梨は、以前にも座った小さなテーブルの前に腰を下ろした。
閉めきった部屋に充満する幸鷹の匂いに気付いて、再び頬を染める。
机の上は前回よりも少し散らかっていた。
パソコンのディスプレイにも電源が入っている。
ふと、ベッドの下に目をやると、奥の方に本が落ちているのが見えた。
幸鷹さんが探してるかもしれない、と親切心から手を伸ばしてその本を拾う。
何気なく表紙を見て、花梨は固まった。
ほどなく、ドアが開いて幸鷹が菓子の入った籐籠を持ってきた。
「たいしたものはありませんが。」
言いながら後ろ手でドアを閉める。
花梨の返事がないことを不審に思い、花梨の方を見ると、ベッドの下に隠してあったはずのエッチな本を持って固まっていた。
幸鷹が総毛立つ。
花梨に駆け寄ると、幸鷹らしからぬ荒っぽい仕草で、その本を奪い取った。
恐る恐る花梨を見ると、花梨は悲しそうにテーブルを見つめている。
とりあえず、その本をベッドの下に戻すと、冷静を装って花梨の向かい側に回り、籐籠をテーブルに置いた。
花梨が上目遣いで幸鷹を見ると口を開く。
「幸鷹さんは、やっぱり、外人さんが好みなんですか?」
「え?」
なじられると思っていた幸鷹は、まったく想像していなかった言葉が花梨から飛び出してきて、耳を疑った。
「だって・・・その本・・・」
「え、えーとですね、花梨さん、あの本は留学時代の友人がくれたもので、私の好みとは関係ありません。本来はそういったものを国内に持ち込むと関税法で処罰されるのですが・・・」
「でも、法律に違反してまでくれるってことは大事なものなんですよね?」
「そ、それは・・・」
言葉に詰まった幸鷹を見て、花梨の瞳に疑いの色が混ざる。
何が悲しゅうてこんな事を説明しなくてはならんのだ、と幸鷹は心の中で泣きながら答えた。
「日本は法律が厳しいので、外国の出版物の方が、露出度が高いのです。」
花梨がその言葉を聞いて首を傾げる。
「ロシュツが高ければ、好みじゃなくても何でもいいんですか?」
「女性には失礼な話ですが・・・その通りです。」
いつの間にか正座になっていた幸鷹が、申し訳なさそうに俯いた。
「じゃあ、幸鷹さんは、ロシュツの高い女の人なら誰でもいいんですね・・・」
ため息混じりに花梨が言うのを聞いて、幸鷹は顔を上げる。
大変な誤解を与えてしまった、と真剣な顔になった。
「花梨さん、それとこれとは話が別です。」
「何ですかそれ・・・?」
言い訳を始めたように聞こえるのだろう。
花梨はすでに軽蔑の眼差しで幸鷹を見ていた。
幸鷹は正座を崩すと、テーブルを回り込んで花梨の隣へ座りなおす。
「花梨さん、私は貴女に嘘はつきません。それは分かっていただけますね?」
まだ疑っているのか、顔だけ幸鷹の方を向いた花梨が渋々と頷いた。
幸鷹は足りないと判断した。
先日の模擬裁判で習ったことを思い出しながら、なおも説く。
日本語の論説は、逆説を用いて行う方が裁判官の心を動かしやすい。
「そうでなければ、私は、貴女に先程のような自分に都合の悪いことは説明しません。適当に嘘をついて誤魔化せば良い事です。」
花梨がはっとした顔で幸鷹を見た。
分かってもらえたようなので、幸鷹は次の説明に移る。
「男女に体格の違いがあるように、脳にもかなり差があるようです。私たち男性は、生理的に発散したいという欲望が高まった際には、相手が誰であろうと性的興奮を覚えます。しかし、それと恋とは別のものです。男性も、女性と同じように、性格や性質、容姿などを総合的に判断して恋に落ちるのですよ。そして、ひとたび恋に落ちれば・・・」
花梨を見つめる幸鷹の瞳が熱を帯びる。
「一人の女性に過大な性的興奮を覚えるのです。」
幸鷹の迫力に、花梨が息を飲んだ。
それを見て、幸鷹はふうっと息を吐くと、まとめる。
「ですから、私は、女の子なら誰でも良いなどとは思っていませんよ。」
花梨が納得して頷いた。
しかし、すぐに新しい疑問が沸く。
「じゃあ、どういう子が好みなんですか?」
幸鷹の好み、それは幸鷹への気持ちが淡く実を結び始めた花梨にとって一番気になる話題だ。
できれば聞き出して、そういう女性になりたいと考えるのは、若い娘独特の恋愛手法だ。
「え・・・」
微かに頬を染めて口ごもる幸鷹に、花梨は不安を募らせる。
「やっぱり、千歳みたいに美人で頭が良くて上品な子ですか?とってもお似合いだと思います。」
先日、オレンジブロッサムで会った時のことを言っているのだろう。
悲しそうにテーブルへ視線を移した花梨の横顔を見て、幸鷹の心を甘い予感が閃いた。
嬉しさに頬を染めて、幸鷹は遠まわしな表現をする。
「私の好みは、貴女のような可愛らしくてのびのびとした女の子ですよ。」
花梨がその姿勢のまま、みるみる赤くなる。
その様子に、幸鷹の甘い予感は確信に変わった。
そっと花梨の頬に触れ、顔を自分に向ける。
「私が他の女性に性的興奮を覚える事を貴女が不快に思うなら、私は喜んで我慢しましょう。」
花梨が恥ずかしさに幸鷹から目をそらす。
その可愛らしい反応を見て、幸鷹の中に悪戯心が湧き上がった。
花梨の頬に当てていた手を下ろすと、くす、と悪戯っぽい笑みを浮かべて続ける。
「その代わり、生理的欲求が高まった際には、貴女のことを想ってもよろしいですか?」
「ええっ?!」
花梨が目を見開いた。
男性の自慰がどういうものかなど想像もつかない花梨だが、幸鷹の言っている意味は何となく分かる。
顔を真っ赤にして、幸鷹の胸の辺りを見つめながら、一生懸命考える。
「えっと・・・うーん・・・そうですね・・・他の女の人の事を考えられるよりは・・・いいです。」
律儀に回答をはじき出す花梨の様子に、幸鷹が思わず吹きだした。
「ありがとうございます。でも・・・もうすでに最近は殆ど貴女のことばかりです。無許可ですみません。」
くすくすと笑いながら幸鷹はそう言って、花梨を横向きのまま抱き寄せた。
驚いたように身じろぎした花梨に、優しく言葉をかける。
「大丈夫。ここから先は、しばらく想像だけにしておきます。」
それを聞いて、花梨も大人しく身を預けた。
「貴女が好きです。花梨さん。」
花梨の頭を撫でて、幸鷹が呟く。
「私も・・・」
花梨もそう小さく呟いて、幸せそうにため息をついた。
花梨の頭を撫でながら、うっとりと髪や額にキスを落としていた幸鷹だったが、身体の芯が火照ってきたのを感じて我に返る。
花梨は頬を染めて瞼を閉じ、されるがままになっていた。
先日から何度も夢に見てしまう花梨の唇を見つめて、幸鷹は口付けたい衝動にかられる。
・・・いけない、さっき約束したばかりなのに。
そう思ったところで、幸鷹はなぜ花梨がこの部屋に居るのかを思い出した。
目を覚ますよう、閉じられた瞼に口付ける。
「すみません・・・本来の目的を忘れていました。」
花梨もとろんとした瞳で身を起こす。
「あ・・・テスト・・・」
夢見心地でそれどころではない。
幸鷹はそんな様子の花梨を見て、まずい、と思った。
以前の自分だったら、こんなテスト中の大事な時期に思いを告げたりしなかっただろう。
やはり冷静さを欠いている。
この責任はしっかりと果たさなければ、と立ち上がってパソコンデスクの椅子に座る。
「何を調べましょうか?」
「えっと・・・優性遺伝です・・・」
まだ夢を見ているような声で花梨が答える。
その言葉を聞いて、幸鷹が花梨に向き直った。
「教科書や図書館の本では事足りなかったのですか?」
「あの・・・教科書の説明じゃ分からないんです・・・生物の先生は板書しないからノートも上手く取れないし。それで、図書館に行ってみたんですけど、図書館の本は教科書よりも難しくて・・・」
言っているうちに、花梨は自分の状況を思い出したのか、青くなった。
「それでしたら・・・」
幸鷹はパソコンデスクから立ち上がると、ボールペンと印刷ミスの紙を何枚か取ってテーブルの前に座る。
「私が説明した方が早そうですね。教科書はありますか?」
花梨がカバンから教科書を出して、遺伝の章を開く。
幸鷹はサッとそれを斜め読みすると、印刷ミスの紙を裏返して、そこに図を書き始めた。
「こういう意味です。」
教科書には抽象的にしか書かれていない図を、人間の血液型に置き換えた図にして示す。
「AとBが優性です。」
「あの、それは分かるんですけど、どうしてAとBが優性なのかが分からないんです。」
「・・・なるほど。そう考えたら分からなくなるかも知れませんね。」
幸鷹は花梨の発想に舌を巻いた。
幸鷹のように頭の良い人間は、教科書の内容をはいそうですかと暗記する勉強手法に慣れてしまっている。
意外に花梨のような疑問を通り過ぎてしまう事が多い。
「実は、それは誰にも分かりません。」
「えっ?」
花梨が愕然とした顔をした。
幸鷹がボールペンをくるくると回しながら花梨に説明する。
「遺伝子の決まりごとだからです。」
「そうなんですか?」
「はい。研究をした結果、AとBが優性だという事が分かったというだけなのです。どうして優性の性質が発現するのかも、遺伝子を解析して分かるかどうか・・・生物の遺伝子が作られた時に、全て決まってしまったことですから・・・不思議ですね。」
「はい。」
生物の神秘に思いを馳せ、二人で微笑みあう。
「不安はなくなりましたか?」
「はい!どうしてとか思わないで暗記した方がいいって事ですよね。でも、テストでどんな風に出るかちょっと心配です。」
「そうですね・・・」
幸鷹が眼鏡を外し、床に視線を落とすと考え込む。
眼鏡を外した幸鷹の顔は少し幼い。
花梨は見慣れないその顔にドキリとして視線をそらす。
花梨の様子には気付かずに、幸鷹が眼鏡を掛けると口を開く。
「私はA型です。私の父と母はどの血液型である可能性がありますか?この図を見て答えてください。」
「えっと・・・A型と、O型。」
「残念。全ての可能性があります。」
「え?」
花梨がもう一度、図をよく見直した。
拳を唇に当てて真剣に考える仕草が可愛らしく、幸鷹は思わず目を細める。
「あ・・・そっか。」
「では、花梨さんとご両親の血液型は何型ですか?」
「お父さんがAで、お母さんがOで、私がAです。」
「花梨さんの血液型はAOですね。私はAAです。私と貴女に子供が産まれる場合を図で示してみてください。」
「え・・・」
花梨が頬を染める。
それを見て、幸鷹は自分の言った言葉をもう一度思い起こした。
「あ、す、すみません・・・」
幸鷹も頬を染めて眼鏡の位置を直す。
「いえ・・・」
花梨は気を取り直すと幸鷹のボールペンを持って、図を描き始めた。
描きあがった図を見て、幸鷹がにっこりと微笑む。
「正解です。」
それから、少し照れくさそうに言う。
「なるほど・・・私達の子供は全員A型になるのですね。」
幸鷹の言葉に、花梨は再び頬を染めた。