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「ご迷惑ではなかったですか?」
幸鷹がヤカンを火にかけながら言った。
「え?何がですか?」
カバンから教科書や問題集を取り出して、花梨が振り向く。
「ご自分のお部屋でお勉強する方がはかどるでしょう?」
「あ、それなら大丈夫です。幸鷹さんのお部屋、落ち着くし・・・あの・・・幸鷹さんにも会いたかったし・・・」
花梨がそう言ってから、アハ、と照れ笑いをしてテーブルの方へ向き直る。
幸鷹はしばらくその背中をじっと見つめて逡巡していたが、芯を出すためカシャカシャとシャーペンを振る花梨の可愛い仕草を見て、耐えられなくなったように歩み寄った。
花梨の背後に膝をつき、後ろから抱きしめる。
「私も、お会いしたかったです・・・」
「・・・!」
花梨が驚いてシャーペンを落とした。
「貴女が練習に来ないだけで、何もかもが味気なくて・・・お勉強の邪魔をしてはいけないと、何度も自分に言い聞かせたのですが・・・」
幸鷹のぬくもりに包まれて、花梨がはにかみながらクスリと笑う。
「そんなこと、気にしないで下さい・・・幸鷹さんと一緒の方が、分からない所も教えてもらえるし・・・」
幸鷹は花梨の顎を持って顔を自分の方に向けると、こめかみにキスをした。
花梨がくすぐったそうに目を閉じる。
恥ずかしいけど、気持ちいい。
中間テストの時の長い抱擁の際、花梨は幸鷹の愛撫のとりこになってしまった。
比較的恥ずかしくない場所を選んで口付けてくれる幸鷹の優しい所作は、まだ初心な花梨の性感を程よく刺激するのだ。
花梨がうっとりとされるままになっているのをいい事に、幸鷹の唇は、花梨の頬から唇の近くまで下りてきている。
幸鷹が花梨の唇の端に口付けようとしたところで、ヤカンの笛が鳴った。
はっと我に返った二人は、照れ臭そうに微笑み合う。
幸鷹が少し名残惜しそうに花梨から離れて火を止めた。
・・・今、唇にキスされそうだったかも・・・
花梨が落としたシャーペンを拾いながら赤くなる。
幸鷹の息が自分の唇にかかったのを花梨は感じていた。
・・・幸鷹さん、したいのかな、キス・・・
男性の欲望について、幸鷹本人からしっかりと教えてもらってしまった花梨は、幸鷹がそういった欲望を我慢してくれている事も分かっている。
それが自分を大切にしてくれているという自覚になり、幸鷹に愛されているという確信になる。
そして、我慢が辛いなら許してあげたいという思いにも、繋がっていく。
テーブルの上にマグカップが置かれて、花梨が我に返る。
「ありがとうございます。」
花梨が見上げると、幸鷹は優しく微笑み返して、自分のデスクに座った。
幸鷹のデスクは花梨の座っている場所の斜め前方にあるため、花梨が少し顔を上げれば、その横顔を見る事ができる。
幸鷹が真剣な顔になって、積み上げてある書類や辞書を広げ始めた。
わ、いい眺めかも、と花梨がにやける。
しかし、幸鷹が赤いボールペンをくるくると回しながら書類に向かうと、花梨はソワソワとし始めた。
気になっていることがあるのだ。
問題集に視線を落としてから、やはり落ち着かなく顔を上げる。
花梨は意を決して、幸鷹をチラリと見てから、そっとベッドの下を覗き込んだ。
「もう捨てました。」
幸鷹の声がして、花梨は飛び上がった。
幸鷹が、悪戯っぽい顔で花梨を見ている。
「ご、ごめんなさい。」
花梨が真っ赤になって俯いた。
「いいえ、貴女の旺盛な好奇心からすれば、当然の行動だと思います。」
言いながらも、幸鷹はクスクスと笑っている。
花梨が恥ずかしそうに幸鷹を見上げる。
「幸鷹さん、後ろに目があるんですか?」
「挙動不審でしたので、気配を観察させていただいていました。」
幸鷹が笑いを収めて微笑むと続けた。
「もう、気になる事はありませんか?」
「はい。」
「でしたら、勉強に集中しましょうね。」
「・・・すみません・・・」
地理の問題集のテスト範囲を一通り終えた花梨は、幸鷹を眺めていた。
幸鷹は、真剣に書類を読み、赤いボールペンで時々何かを書き込んでいる。
最初花梨は、幸鷹に気付かれるか冷や冷やしながらこっそりと見ていたのだが、そのうち、幸鷹が一人で色々な表情をしていることに気付いて、じっと見つめはじめた。
右の山から紙を取り出して視線を走らせる。
満足そうに左の山へ置く。
また右の山から紙を取り出して視線を走らせる。
ピク、と眉を上げて同じところを何度も読むと、辞書を取り出して何やら調べてから、微かにため息をついて赤いペンを入れる。
何を考えているか一目瞭然の雄弁な表情だ。
花梨がじっと見詰めていることなど、多分、全く気付いていない。
ボールペンを回す癖が現れないのも、本当に集中している証拠なのかも知れない。
花梨は嬉しかった。
中学生の頃、授業中に好きな男子のことをチラチラと見るだけで、とても幸福になれた。
今でも、好きな人が同じ年で同じクラスならゆっくり眺められるのに、と思うときがあるのだ。
思いがけず願っていた幸せを味わう事ができて、それに浸る。
幸鷹は相変わらず真剣な表情だ。
ふいに顔を上げると、椅子の背にもたれて書類を持ち上げ、赤ペンを持った手を口許に当てて、文を読み返し始めた。
睨むように書類を見つめる横顔は、とても凛々しい。
・・・うわあん、カッコよすぎるんですけど!
花梨が頬を染めて、興奮のあまりブンブンと首を振った。
さすがの幸鷹もそれに気付かないわけがない。
「・・・どうかなさいましたか?」
不思議そうに花梨を見る。
「ひゃあ!なんでもないです!」
花梨が首と一緒に両手もブンブンと振った。
幸鷹はそんな花梨に目を丸くしたが、おもむろに書類を置いて伸びをした。
「少し休憩しましょうか。」
そう言って首を回す。
ゴキゴキッという何かが折れるような音がして花梨が青ざめた。
「ひゃ・・・何の音ですか?!」
「あ・・・すみません。気味が悪いでしょう?肩凝りが酷くて・・・」
「肩凝り?」
「はい。目が悪い上に同じ姿勢で目を酷使してばかりですから、治そうとしても、なかなか・・・」
「へえ・・・」
花梨は感心したような表情で頷いていたが、何を閃いたのか瞳を輝かせる。
「じゃあ、肩揉みします!」
花梨が立ち上がった。
「え・・・」
幸鷹が微かに頬を染めた。
「これでも、お父さんに上手いって褒められてたんですよ。小学校の時だけど。」
花梨が言いながら、幸鷹の肩に手を置く。
「小学生の時ですか?」
それはお世辞の可能性がある、と思った幸鷹が吹き出した。
「あ、笑うなんて酷いです。」
花梨も笑いながら、幸鷹の肩を揉み始めた。
幸鷹は、花梨が揉みやすいように、力を抜いてうなだれる。
長身のメンバーが多いせいか、space‐timeでの幸鷹は小柄のように感じる。
しかし、こうして肩に触れてみると、その身体が思ったよりも逞しいことに気付く。
よく考えれば、幸鷹は花梨の父親よりも一回り大きい。
抱きしめられると、自分などすっぽりと納まってしまう。
幸鷹の髪から、知らないシャンプーの香りが立ち上る。
気持ち良さそうなため息が聞こえてくる。
一生懸命、力を込めて肩を揉みながら、花梨は男として幸鷹を意識してしまい、頬を染めた。
誤魔化すように顔を上げると、デスクの書類が目に入った。
パソコンで作成してプリントアウトしたらしい書類のところどころに、赤くメモがしてある。
「幸鷹さんは、何の勉強をしてるんですか?」
「・・・課題の校正をしています。」
幸鷹のくぐもった声が聞こえてくる。
「課題って、宿題みたいな感じですか?」
「そうですね・・・ホームワークという点では同じですが・・・ロースクールの課題は、高校の宿題と違って、殆どが論文なのですよ。」
「論文ですか・・・だから、赤ペンで字の間違いを訂正してるんですね?」
「そうです。それを校正と言います。」
「こうせい?・・・ふうん・・・でも、すごい量ですね。」
「ああ、その山の中には翻訳のアルバイトの分も入っているのですよ。」
「アルバイト?こんなに山ほど課題をやらなきゃいけないのに?」
「・・・はい・・・」
幸鷹が顔を上げる。
「ロースクールが忙しいとは言え、親に小遣いをせびるわけにはいきませんので・・・本来なら働かなくてはいけない年齢ですから、肩身が狭いのですよ・・・」
「でも、遊んでるわけじゃないし・・・幸鷹さんが検察官になったら、みんな喜ぶでしょう?協力してくれるんじゃないんですか?」
「いいえ・・・両親は、私をバイオテクノロジーの先駆者にしようと英才教育を施しましたから・・・それが全て無駄になったと嘆いています。」
花梨が思わず手を止めた。
「じゃあ、もしかして、親の反対を押し切ってロースクールに入ったんですか?!」
「はい。大学時代と卒業後の1年間に昼夜アルバイトをして、学費を貯めました。」
「ええっ?」
花梨が驚きの声を上げる。
幸鷹を意のままにしようとする両親にも驚いたが、何より、幸鷹の意志の強さに驚いたのだ。
「幸鷹さん、偉いですね!」
「いえ・・・今考えてみれば、思い上がっていました。親など居なくても、独りで何でもできると・・・」
花梨は、そう言って黙り込んだ幸鷹の背中から寂しさを感じとった。
幸鷹は、同年齢の男性に比べると、かなり成熟しているように見受けられる。
しかし、親さえも裏切って自分の信念を貫き続けるという孤独は、そんな幸鷹にも重くのしかかっているのだろう。
花梨は、寂しそうな背中に吸い込まれるように、後ろから抱きついていた。
「・・・花梨さん・・・」
耳もとで、幸鷹の少し驚いた声がした。
花梨も自分の行動に驚いてしばらく黙っていたが、少し落ち着くと、呟くように話し出した。
「あの・・・応援してますから、私・・・幸鷹さんの夢がかなうように・・・だから・・・これからは、独りだなんて思わないでくださいね・・・」
「・・・!」
幸鷹が息を飲んだ。
花梨が恥ずかしそうに幸鷹から離れて、もとの場所へ戻ろうと背を向ける。
幸鷹は、いきなり椅子から立ち上がると、花梨の腕を引っ張って振り向かせ、強く抱きしめた。
「ありがとうございます・・・!」
震える幸鷹の声は、幸鷹の孤独が花梨の思った以上だった事をあらわしていた。
花梨がそれを感じ取って幸鷹に縋りつく。
「幸鷹さん、大好きです・・・」
幸鷹がくすん、と鼻をすすると、花梨を抱きしめる腕をゆるめた。
潤んだ瞳で花梨の顔を見下ろして、額に口付ける。
「愛しています・・・花梨さん・・・」
幸鷹はそう言って再び花梨を強く抱きしめると、花梨の耳もとに囁いた。
「キスをしても、いいですか?」
花梨の心臓が跳ね、身体がビクリと震える。
花梨は、少しの間だけ固まってから、小さく頷いた。
幸鷹が身体を離すと、花梨が恥ずかしそうに瞳を閉じる。
幸鷹は、花梨の顎を持って顔を上向かせると、そっと口付けた。
顎から手を離し抱きしめ直すと、背中に当てた掌から、花梨が震えているのが伝わってくる。
・・・可愛らしい。
花梨の背中を撫でた幸鷹は、花梨が緊張のあまり息を止めている事に気付いた。
唇を離して囁く。
「息をしても良いのですよ・・・」
返事も待たずに再び口付ける。
花梨にしてみれば、そんな事を言われても簡単にできるわけがない。
花梨の息が吐き出される気配がないので、幸鷹はもう一度唇を離すと、花梨に息をつかせた。
そんな少しの時間さえ、もどかしい。
花梨の唇を一秒でも長く味わいたいのだ。
赤い顔をした花梨が、息を吐いて、吸う。
それを見届けてから、幸鷹は待ちきれなかったように性急に口付けた。
その激しさに、花梨の身体が火照る。
身体中の血が駆け巡って酸素を欲したが、幸鷹に鼻息がかかるのが恥ずかしくて、やはり息をできない。
幸鷹はそれに気づいていたが唇を離さなかった。
やっとのことで離すと、花梨が苦しげに息を吐く。
「はあっ・・・」
その瞬間、幸鷹は、開いた花梨の唇に再び口付けた。
花梨が息を吸い込むのに乗じて舌を滑り込ませる。
「・・・んっ?・・・ふ・・・」
驚いた花梨が鼻から息を漏らす。
幸鷹が唇を離して艶っぽい笑みを浮かべた。
「・・・よくできました・・・」
そう囁くと、再び幸鷹は花梨に深く口付ける。
幸鷹はそのまま舌を絡ませ、驚きに引っ込んでしまった花梨の舌を、優しく吸い出す。
花梨は鼻息のことなど考えられなくなってしまった。
ぬめぬめとした慣れない感触が気持ち悪い。
犬に顔を舐められた時のことを思い出してしまう。
それなのに、幸鷹が自分を求めているという喜びが、身体の奥で快楽に変わる。
幸鷹は、花梨の舌を思う存分味わってから、唇を離した。
とろんとした瞳で息をつく花梨を見ながら、満ち足りた顔で自分の口の周りをぺろりと舐める。
花梨がそれを見て、弱々しく言った。
「・・・なんか・・・犬みたいです・・・」
「そうですね・・・ヒトと他の哺乳類のゲノムが殆ど同じである事を実感する瞬間ですね・・・」
幸鷹が、真面目な口調でそう言ってから、ふいに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「・・・でも、もっと深く実感できる瞬間がありますよ。」
「・・・?・・・」
花梨がとろんとした瞳のまま首を傾げる。
それを見て、幸鷹は花梨の頬をつんつん、とつつきながら優しく微笑んだ。
「早くその瞬間を貴女と共有したいです。」
不思議そうに幸鷹を見上げていた花梨がかあっと赤くなる。
「・・・そ、それって・・・もしかして・・・」
「ご想像にお任せします。」
幸鷹は微笑んだままそう言うと、さっさと花梨から離れ、椅子に座ってしまった。
花梨も真っ赤な顔のままで元の場所に戻ってから、恥ずかしそうにぽそっと呟く。
「幸鷹さんのエッチ・・・」
幸鷹が書類に視線を落としたまま、クスクスと笑って言った。
「極めて妥当な評価ですね。」