夢の日常生活 〜昼〜


雨の音がする。
手の中にぬくもりを感じながら瞳を開けると、そこは学校の渡り廊下だった。
もう一年以上経ってしまったし、色んな事があったので忘れていたが、ここで白龍に呼ばれたのが始まりだったのだ。
思わず白龍の姿を探して雨の中庭へ目をやる。
と、手の中のぬくもりが消え、何かが自分の胸に飛び込んできた。
「よかった・・・」
幸せそうに呟かれた声は、片時も忘れたことなどない、望美のものだ。
見下ろすと、望美が嬉しそうに自分に抱きついていた。
心臓が跳ね上がる。
思いが通じ合ってから、何度かこうして抱きつかれたことはあったが、まだ慣れない。
正直、信じられない。
彼女が自分を想ってくれているという事実を。
この柔らかい身体を、抱き締めることが許されているという事実を。
ちょっとした彼女の無邪気なしぐさからでも、自分の意思とは関係なく訪れる妄想。
それらに反応して顔や身体が勝手に熱くなっていく。
「また時空の狭間で離れ離れになっちゃったらどうしようって・・・」
望美が、言いながら顔を上げた。
譲ははっとした。
白龍に呼ばれた時のことを考えれば、当然の不安だろう。
抱きつかれてエッチなことを考えている場合じゃない。
赤くなってしまった顔を誤魔化すため、顔を覆うようにして眼鏡を上げる。
愛しい幼馴染の不安を拭い去るため、おずおずと長い髪を撫でて、譲は静かに言った。
「大丈夫ですよ。もう、終わったんです。」
・・・貴女が、終わらせたんだ。
尊敬と愛情と少し、否、半分以上の下心から、望美を抱き締めようとした時、後ろから声がした。
「次なんだっけ?」
「古文だよ。」
望美が慌てて譲から離れる。
心の中で舌打ちをしながら譲が振り向くと、声の主はクラスメートだった。
譲に声をかけようとして望美に気づいたクラスメートは、急にニヤニヤすると、意味有り気に譲の肩を叩いて通り過ぎていった。
顔に出やすい譲の想いは、望美が気づいていないだけの、公然の秘密だ。
クラスメートは、譲と望美にじっと見られているのにも気付かず、再び会話を始めた。
「訳、お前当たるとこだろ。」
「うわ、マジ?」
「だってこの間、中村だったろ?二階堂休みだし・・・」
クラスメートの背中を見送りながら会話を聞いていた譲は、少し緊張した面持ちで口を開いた。
「先輩、俺たちどうやら、白龍に呼ばれた時に戻ってきたみたいです。」
「ええっ・・・じゃあ、もう一度17歳をやりなおすの?」
「はい・・・多分・・・」
望美は自分の掌を見てから、譲の顔を見上げた。
今、剣を振るえと言われたら、すぐに花断ちができる。
ずっと一緒に居たからよくは分からないが、譲だってどこか変わっているはずだ。
望美を庇って、傷を負ったり危ない橋を渡ったりしてきたのだから。
実質的には1年、望美の場合は何度も同じ時を繰り返して2年近く歳を取っていながら、誰にも気付かれずに過ごせるものなのだろうか。
それから、将臣のことも・・・
「・・・とにかく俺、教室に戻ります。先輩も、何事もなかったように過ごした方がいいですよ。兄さんのことがどうなっているか分からないし・・・」
「うん・・・そうだね・・・」
望美が寂しそうな顔になった。
譲はそれを見なかったことにして、事務的に言葉を続ける。
「急に部活をサボるのも変ですし、俺は部活やって帰ります。何か困ったことがあったら呼んでください。こっちの世界には携帯がありますからね。」
「うん。じゃあ、私も部活やって帰るね。」
「はい。」
譲は一瞬見てしまった望美の表情が心から消せずに、そこから足早に立ち去ろうとした。
すでに望美の心は自分に向いていると分かっていても、十数年のうちに培われた兄に対する嫉妬心は条件反射のように染み付いてしまっている。
「譲くん。」
後ろから不安そうな望美の声が聞こえて、譲は慌てて振り返った。
自分の態度が彼女を不安にさせてしまったのなら、それこそ失態だ。
「どうかしましたか?」
出来得る限りの優しい声を出して問いかけると、望美が儚げに言った。
「夜・・・また会える?」
「あ、ええ、もちろん。俺もそのつもりでしたから。」
それは本当だ。
将臣のことが行方不明として処理されているなら、一緒に対応を考えなくてはならない。
望美がほっと息をつくと、小さく手を振った。
「・・・また後でね。」
「はい。」
望美の仕草の可愛らしさに思わず微笑むと、安心したように望美が身を翻した。
スカートの裾が舞う。
そう。
彼女が剣を振るうたび、術で彼女の身体が風に包まれるたび、短い制服のスカートは際どいところまで舞い上がった。
いや・・・正直なところ、際どいどころか見えているときもあった。
共に戦った仲間とは言え、望美を憎からず思っている男達にそれが大公開されるのは、譲にとって許しがたいことだった。
望美の後姿を見送りながら、もうそんな心配は要らないのだという事実を噛み締める。
それどころか、自分にはもっとスゴイお宝映像を拝める可能性が無限大なのだ。
嬉しさに自然と頬が緩む。
想いが通じた今となっては、匙加減ひとつでラブラブもベタベタも思い通りなのだが、事故や偶然に頼ってお宝映像を拝むことまでしか思い至らないのが譲たる所以だ。
「ヨシッ!」
譲はニヤニヤしたまま小さく呟くと、力いっぱいガッツポーズをした。
偶然その姿を見てしまった女子生徒が、後日語る。
「あの品行方正で有名な有川君だとは、一瞬信じられなかった。」


放課後、帰り支度をすると、譲は部室に向かった。
ロッカーから道着を出して着替える。
・・・先輩はうまくやっているだろうか。
今考えれば、時空を戻ってきた時の望美の様子は明らかにおかしかった。
龍神の神子としての力なのだろうとその時は納得していたが、嘘が上手でないのは明らかだ。
そんな事を考えながら、無意識に袴の紐を結び終えていたことに気付いて、譲は苦笑した。
毎朝、朝食や弁当のメニューを考えながら結んでいたせいか、手が覚えてしまっている。
だが、あちらの世界の服装はもう少し複雑で、支度が大変だった。
・・・先輩の服装も、着るの大変そうだよな・・・でも、すごく似合ってた・・・
そこまで思い至ってから、譲は愕然とした。
・・・あの可愛らしい格好を、もう二度と見られない!
望美には言えないままだが、宇治川で望美を助けた時、あんなにギリギリになってしまったのは、望美の姿に見とれていたからだった。
望美を庇って怪我を負ったことを、彼女はとても気にしていたが、見つけた時にすぐ駆け寄るなり弓で攻撃するなりしていれば、怪我などしないで済んだわけで、言うなれば、あの怪我は自業自得だ。
暗い顔のまま自分の弓を持って弓道場に出ると、同じ中学だった青木がニヤニヤしながら近づいてきた。
「聞いたぜ、渡り廊下で大告白シーン。」
「・・・?」
眉間にしわを寄せて顔を上げた譲に、青木が眉を寄せる。
「あちゃー、また言えなかったのかよ。」
「何が・・・?」
譲が虚ろな声で聞き返す。
「や・・・何でもない。」
青木は気の毒そうな顔になると、元の場所に戻っていった。
今現在、譲の頭の中は、望美の衣装を何らかの形で手に入れて末永く残せないかという算段でいっぱいだった。
なので、青木の言葉など右から左へ筒抜けだった。
様々な手段を思い浮かべては首を振ってため息をつく。
今のところ現実的な最善の手段はコスパでオーダーメイド発注をすることぐらいか。
・・・オーダーメイドは高いんだよな・・・
何で譲がそんな事を知ってるかと言えば「ああっ女神さまっ」を無理やり読まされてしっかりとハマってしまい、オタク仲間へ引きずり込まれてインドアな中学生活を送った苦い過去があるからだ。
あれは絶対に確信犯だったと、譲は思っている。
美しく素直だけど鈍感なヒロイン、ヨコシマな事を考えながらも邪魔が入ったり勇気が出なかったりしてヒロインに手が出せない主人公。
譲の片思い状況を判断してドンピシャリのマンガをセレクトしてくる辺り、オタクは怖い。
それはいいとして、周りの部員は、一人暗雲を背負っている譲に、誰も近づけなかった。
そのうち順番が来て、譲は暗雲を背負ったまま的の前に立った。
しかし、矢を弓につがえて顔を上げた途端、隣の部員が怯む様なピリッとした空気が譲を包む。
・・・そうだ、衣装だけじゃない
タッ
小気味良い音を立てて、矢が的の中央を射抜く。
・・・先輩が剣を振るうときの凛々しい表情も
タッ
・・・舞姿もすごく綺麗だった
タッ
・・・明日からは先輩に食事を作ってあげることもない
タッ
・・・俺の作ったものを嬉しそうに食べてくれる先輩の笑顔
タッ
手もとに矢がなくなったことに気づいて弓を下ろすと、部員全員が目を丸くして譲を見ていた。
・・・何だ?
自分の格好を見下ろしてみたが、何もおかしなところはない。
顔を上げた譲に、部長が頬をひくつかせながら声をかけた。
「・・・あ、有川、今日は調子いいみたいだな。」
「え?」
どう見ても調子良くないという表情をした譲が、的を見やる。
5本の矢が、同じ角度で整然と的の中央に刺さっていた。
「あ・・・ええ、まあ・・・」
言葉少なに答えて、譲は元の場所に座った。
明日から力加減を調節しなければと思いつつ、頭の中は再び愛しい女性の事でいっぱいになる。
突然、譲がハッと顔を上げた。
明らかにおかしい譲の様子を見て見ぬ振りしていた部員たちがビクッと身体を震わせる。
そのまま譲は呆然とすると、畳に手をついてガックリと項垂れた。
・・・朝の寝乱れた姿ももう見られない・・・!
朝食の用意をした後、望美を起こしに行くのは、譲の特権だった。
寝起きが悪い望美は、譲が声をかけても可愛らしく唸ったりしてなかなか起きなかった。
そんな望美を優しく叱って起こしながら、譲は着崩れた胸もとや肌蹴た足もとを堪能していたのだ。
そのチラリズムのエロスったらもう生唾ものだった。
早く戦を終わらせて望美と一緒にこの世界へ帰りたいと切に願ってきたのは自分だ。
しかし、その事にばかり気を取られて、けっこうオイシかったあの生活が失われることに気づかなかった。
・・・こんなことなら、寝てる隙にちょっとだけ触っとけば良かった!
今にも泣き出しそうな顔で痴漢まがいの事を考えている譲を見て、部長が青木を手招きする。
青木がひょこひょことそばに寄ると、部長は譲を横目で見ながら小声で言った。
「何かあったのか、あいつ。」
「好きな女に告るの失敗したっぽいっスよ。」
「それっていつものことじゃないのか?」
「・・・まあ、そうスけど。」
翌日、問題の譲が幸せそうに望美と登校してきたのを見て、弓道部員達の疑問はさらに深まることになる。




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