夢のフェロモン


「お前達、どこまで行ってんの?」
部室に入るなり、青木が譲に耳打ちした。
女子部員は体育館の更衣室で着替えるので猥談をはばかる必要はないのだが、さすがに部長や1年生も室内で着替えている手前、大声では喋りにくい。
「・・・何の話だ?」
譲が一瞬言葉に詰まってから冷静を装って返答する。
だが、その顔がみるみる赤く染まっていくのは誤魔化せない。
面白いくらいとぼけているのが丸分かりのその様子に、青木がロッカーを開けながら吹き出す。
「っていうかさ・・・もう付き合って半年ぐらい過ぎたじゃん?」
「・・・誰にもそんな事を言った覚えはないけどな。」
譲が頬を染めたままロッカーを開く。
「おいおい、毎朝見せつけといてそれはないだろ。バレバレだぜ。」
「・・・っ・・・別に、ただ家が近いから一緒に登校してるだけで・・・」
荷物を取り出す手を止めてむきになる譲を、青木は道着を脱ぎながら軽くいなす。
「分かった分かった。で?年上の彼女から誘われちゃったりするわけ?」
「先輩がそんな事するわけないだろ!」
譲が突然激昂する。
自分はそんな妄想ばっかりしているくせに、青木の口から言葉にされると許せないのだ。
だが、青木は動じない。
望美に関することになると途端に器の狭い男になる譲を、中学時代から嫌と言うほど見ている。
「ま、そうだよな・・・望美ッチ鈍感だしな・・・」
「変なあだ名つけるのはやめろって言ってるだろ。先輩って呼べ。」
「・・・全く進展してなさそうだよな、お前達。」
「・・・・・・」
黙って荷物を取り出し始めた譲を、トランクス一丁になった青木が横目で見る。
そして、カバンの中から香水を取り出すと、それを身体に付けながら言った。
「お前はそれでいいわけ?」
「・・・何が?」
譲が憮然としたまま答えて道着を脱ぎ始める。
「ヤりたくねえの?」
「・・・!」
譲がビクリと身体を震わせる。
分かり易すぎる反応。
青木がニヤニヤしながら譲に追い討ちをかける。
「望美ッチの胸って、けっこうデカそうじゃね?」
「なっ・・・先輩をそんな目で見るな!」
再び譲が激昂する。
「うるせ・・・」
耳もとで怒鳴られて青木が耳を押さえると、制服を着ながら呆れた声を出す。
「お前さあ、そんなだから進展しないんじゃねえの?」
「・・・どういう意味だよ。」
譲が声のトーンを落とす。
青木の言葉は気に入らないが、譲も気にしているのだ。
ファーストキスから3ヶ月と5日。
抱き締めたのが2回。
胸を触ったのが1回。
(ただし、いずれも外的要因があっての偶然。)
抱き合ってキスしたのが1回。
手帳に記号でメモって正確に把握しているので、データに間違いはないはずだ。
だが、データを疑いたくなるほどラブラブ度が少ない。
青木が聞いたら爆笑するに違いないプラトニックぶり。
原因は分かっている。
脳内ばかりが先走って全く行動に起こせない自分が悪いのだ。
だが、それだけが原因ではないのか。
「真面目くさってると、女の方も誘いにくいだろ?」
譲がはっとする。
決して望美に誘って欲しいわけではないのだが、自分から行動できない譲にとって、望美の行動が大きなカギであることは確かだ。
もともと奔放な彼女の行動を制限している原因が自分の雰囲気にあるのだとしたら、それは問題かもしれない。
考え込むように黙って道着を脱ぐ譲に、青木が続ける。
「1年じゃあるまいし、詰襟のボタンぐらい外せよ。女だってチラリと見える胸元に興奮するんだぜ。」
「・・・彼女も居ないくせに、何でそんな事を知ってるんだ?」
疑いの声を出した譲に、青木が得意そうな顔で答える。
「俺はお前と違って研究熱心なんだよ。明日お前にも見せてやる。今週号の特集はナンパ即ハメ成功術だし、袋綴じもけっこう良かったからさ。」
「そんなもの学校に持って来なくていい。」
「あ、お前、写真はダメだったっけ。袋綴じ開いてないやつ探して来ようか?」
「ダメっていう訳じゃない・・・見るだけで卒倒するみたいに言うなよな。」
「だって気持ち悪いって・・・」
「何年前の話だよ!そういう問題じゃなくて、そんなものを学校で見るのが嫌なんだよ!見たくなったら自分で買う!」
譲はピシャリと言って青木を黙らせると、スポーツタオルで身体を拭き始めた。
研究熱心という意味では譲も負けていないと思うのだが、どうやら見ている雑誌の系統が違うらしい。
女性が男性の胸元に興奮するという青木の話も分からないではない。
将臣が女生徒達にモテていたのも、あの制服の着崩し方がミソだったのかも知れないのだ。
望美が将臣とばかり仲良くしていたのもあるいは・・・
譲が身体を拭きながらどこかへ意識を飛ばしているのに気付き、青木が悪戯っぽい顔をする。
カバンから香水を取り出すと、いきなり譲の背中に垂らした。
「?!・・・何をした?!」
譲が慌てて背中をタオルで拭く。
青木がフフフと笑うと、香水のビンを掲げた。
「ヒトフェロモン配合。これであなたもモテモテ!」
「・・・ばかばかしい。」
譲がタオルについた濃い香りに顔を顰める。
甘ったるい、ココナツのような香り。
「おい、バカにするなよ。これをつけ始めてから、3組の美加ちゃんとけっこうイイ感じなんだぜ?」
「3組?接点がないじゃないか。」
「そうだよ。そこがスゴイ所なんだよ。廊下ですれ違うたびに熱く見つめられちゃうんだな、これが。」
青木が満面の笑みで香水をカバンにしまった。
譲が半信半疑の顔で制服を着る。
動く度に、甘ったるい香り。
確かに、何やら気分まで甘ったるくなる。
「じゃ、俺、先帰るから。」
青木がカバンを持って背を向ける。
「は?」
「おい・・・フェロモンつけて俺と真っ直ぐ家に帰る気かよ。高いんだから無駄にするな。」
「お前が勝手につけたんだろ。」
「とにかく、今日は望美ッチと帰れ。じゃあな!」
「待てよ青木!」
慌てて学ランを羽織る譲を置いて部室を出て行こうとする青木に、3年生が声をかける。
「なんだ、ケンカか?」
「いえ、有川がこれから彼女とキメるらしいんで、邪魔者は消えるんスよ。」
拳を握って卑猥に動かしながら言った青木の言葉に、部室中から歓声が沸いた。
「オオーーーッ!!」
青木はククッと笑うと、ひょこひょこと部室を出て行く。
その背中を、有川コールと譲の怒鳴り声が追いかけてきた。


「あれ?譲くん、どうしたの?」
他のテニス部員と一緒に校門を出てきた望美が目を丸くする。
結局、譲は望美に熱く見つめられてしまうかも知れないという一縷の望みを捨てられなかった。
青木の言葉が冗談だと分かっている3年生や同級生にさんざんからかわれ、事情を知らない1年生から尊敬と羨望の眼差しを受けながらも、譲は帰途につく彼らと別れて校門の前で望美を待つことにしたのだ。
「えっ・・・と、その・・・たまには一緒に帰ろうかと思って・・・」
譲が頬を染めて眼鏡を押し上げる。
「ふうん?」
望美が虚ろな表情で譲を見上げた。
いつも以上の鈍感ぶりに、テニス部員たちの方が気を遣ってフォローする。
「ほら望美、たまには彼氏と帰りなよ。私達は先帰るから、ね?」
「うん。」
望美がボーッとしたまま頷く。
「有川君、よろしくね〜。」
そう言うと、テニス部員たちは、そそくさと去っていった。
譲が首を傾げる。
望美の様子がおかしい。
「先輩、何かあったんですか?」
「ううん、別に・・・何も・・・」
言いながら、望美が歩き出した。
譲も横に並ぶ。
望美の足取りがおぼつかない。
何か酔っ払ったような。
そこまで思い至って、譲がドキリとする。
猫にマタタビ。
そんな感じだ。
まさか、もうフェロモンの効果が現れたというのだろうか。
フラフラとした足取りのせいで、横を歩いている望美の肩が、時々譲の腕に触れる。
譲が慌てる。
ちょっと効きすぎではないか。
だが、慌てながらも、譲はフェロモンの効果を確信していた。
彼女いない暦17年の青木に全く接点のない女の子が惚れてしまうぐらいなのだ。
もともと譲に惚れている望美にそんなものを嗅がせたら、効きすぎになってしまうのも頷ける。
もうこうなったら、キスして、とか言わせてみたい。
譲は逡巡してから、意を決して詰襟に手をかけた。
「もうすぐ衣替えですね・・・さすがに暑いな・・・」
言いながら、学ランとワイシャツのボタンを1つ目まで外してみる。
さすがに将臣のように学ランのボタンを全て外すのは、ためらわれる。
「そう?」
望美が首を傾げて、譲の胸元を見上げた。
じっと見つめられて、譲は内心ドキドキだ。
望美は、ふう、と色っぽく息を吐くと、目を伏せて言った。
「・・・譲くん、暑いなら学ラン貸してくれない?」
譲がギョッとする。
脱げと。
望美が脱げと言っている。
やはり将臣が学ランのボタンを全て外していたのには、何か秘密があったのだ。
「え、ええ、分かりました。」
譲は慌てて学ランを脱ぐと、望美に渡した。
「ん・・・牛乳プリン食べた?」
望美が首を傾げる。
「い、いえ!甘いものは一切食べてないです!」
譲がギクリとして、聞かれてもいない事まで釈明する。
望美は、譲の回答を聞いていないような顔のまま学ランを羽織って、幸せそうに微笑んだ。
「いい匂いがする・・・」
トロンとした笑みを向けられ、譲の背中を冷や汗が伝う。
ここまで効果テキメンだと、かえって罪悪感が募る。
これでは、眠り薬を嗅がせて襲うのと同じではないか。
だが、いつもと違って全体的にホワンとした空気をまとう望美は、とても可愛いらしい。
もう少し見ていたい。
それに、このマタタビ酔い状態の望美を元に戻す方策があるわけではないのだ。
駅に着き、ホームで電車を待つ。
ずっと言葉少なに俯いていた望美が、突然、譲の腕に縋った。
「・・・先輩・・・?」
「ん・・・ちょっとつかまってていい?」
そう言って顔を上げた望美の頬が染まっている。
「は、はい・・・俺は構いませんけど・・・」
譲がオロオロしながら頬を染めているうちに、電車がホームに入ってきた。
そんなに混んではいないが、座席は空いていない。
望美と一緒に電車に乗り込むと、望美に縋られていない方の手で、吊り革につかまった。
望美が悩ましげに前髪をかき上げる。
時々漏れるため息が、やけに色っぽい。
横目でそれを見ながら、譲は新たな期待に胸を躍らせる。
これは。
キスして、どころじゃないかも知れない。
青木の言葉が、嘘から出た誠になってしまうかも知れない。
電車が揺れて、望美がよろける。
「おかしいな・・・」
望美はそう呟くと、いきなり譲に抱きついた。
「・・・!」
譲が息を飲んでから、慌てて顔を上げて周囲を見回す。
数人のサラリーマンと目が合ったが、大抵の乗客はそ知らぬ顔だ。
何もこんな所で。
譲がそう口に出そうとすると、望美が顔を上げた。
「ごめんね、譲くん・・・なんか、頭がヘンなの・・・」
頬を染めた望美に上目遣いで見つめられ、譲の顔が火照る。
なんか、頭がヘン。
譲も初めて性的興奮を覚えたときにはそう思った記憶がある。
「いえ・・・大丈夫ですか?」
「うん、こうしてればラクだから・・・」
そう言うと、望美は譲の胸に頭を預けて目を閉じた。
譲が心臓をバクバクさせながら、片手で望美を抱き寄せる。
ワイシャツから望美の温もり。
ぐったりと体重をかけられて、密着度も高い。
それどころか、望美は時々、胸に頬ずりするように、頭を動かす。
「・・・今日の譲くん、いい匂いがするね。」
目を閉じたまま、望美が呟いた。
「そ、そうですか?」
別に隠すこともないのだが、何となく罪悪感に苛まれている譲は、焦ってとぼける。
「うん・・・」
望美が目を閉じたまま幸せそうに微笑む。
しばらくしてから、望美はゆっくりと顔を上げると、潤んだ瞳で譲を見つめて言った。
「・・・なんか・・・おいしそう・・・」
再び望美が譲の胸にとさ、と頭を預ける。
譲はと言えば、真っ赤になっていた。
今のは何だったのか?
誘い文句なのか?
食べちゃいたいという意味か?
譲がチェリーで美味しそうという意味なのか?
これは据え膳というやつか?
何もなかったら男じゃないのか?
疑問符が脳内をドドドと駆け抜けて行き、そのあとの更地から欲望がむくりと起き上がる。
やる。
俺は今日、男になる。
青木、ありがとう。
お前は今日から親友に昇格だ。
男の決心をした譲を乗せて、電車が駅に着く。
譲に支えられながら改札を出ると、望美は膝を崩れさせながら言った。
「もうダメ・・・歩けそうにないみたい・・・」
ぐったりとして熱くなった望美の身体を支えながら、譲がゴクリと唾を飲む。
身体に直接触れてもいないのに立てなくなってしまうなんて、さすがヒトフェロモン。
具体的にはよく分からないが、何かもう、とにかくスゴイ事になりそうだ。
「大丈夫ですよ、俺が運びます・・・どこかに寄りますか?」
望美を運ぶため、肩にかけていたカバンの紐を斜めに身体にかける譲に武者震いが走る。
経験値もゼロなのにラスボスに挑む感じの凄まじい戦いになるに違いないのだ。
震えが走らない勇者が居ようか。
だが、負ける気はしない。
今の譲は、フェロモンという回復呪文を無限に使える裏技を知っているようなものだ。
「ん・・・とにかく着替えたいの・・・私の部屋まで運んでもらっていい・・・?」
「分かりました。」
譲は自分の中で最高に凛々しい横顔を望美に見せながら、望美を横抱きに抱き上げた。
「え・・・おんぶでいいのに・・・」
言いながら望美がカバンを自分の身体の上に置き、譲の首につかまる。
譲は自分の中でキラリと白い歯を輝かせながら首を振った。
「いえ、こうさせてください。俺は今、ものすごく勇者っていう気分なんで!」


そして。
勇者然と望美を抱いて家に上がり込んだ譲に、出迎えた望美の母は感激の表情で言った。
「ありがとう、譲くん!朝から風邪っぽかったから心配してたのよ〜!」

青木は親友から腐れ縁に2階級降格となった。




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