夢の浮気デート
今朝は、望美がやけに大人しい。
いつも登校時には一方的に喋り、譲は聞き役なのだが、今日は静かだ。
「今度の日曜日、部活の練習がなければ、またどこかへ行きませんか?」
何か楽しい話題でも、と譲が話を振る。
先日のデートを、望美はかなり楽しんでくれていた。
家の前で、またデートしようね、と言った笑顔は最高だった。
譲にとっても、先日のデートは最高だった。
ていうか、お化け屋敷が最高だった。
他にお化け屋敷がある遊園地はどこだろうか。
浮かれポンチなことを考えながら望美を見下ろす譲を、望美が恐怖におののいたような顔で見上げた。
それを見て、譲が目を丸くする。
そんなにお化け屋敷が怖かったのだろうか。
「どうかしましたか?」
「な、なんでもないの・・・」
望美が慌てて首を振ると、譲から目を逸らした。
様子がおかしい。
「何かあったんですか?」
「ううん、こっちのことだから、気にしないで・・・」
望美が暗い顔で首を振った。
そんな風に言われると、かえってものすごく気になる。
悩んでらっしゃる神子様の力になりなさいと、スミレお婆さんが草葉の陰で囁く。
「何か悩み事があるなら、俺に話してくれませんか。そんな先輩を見ていると、俺の方が気になって眠れなくなりそうです。」
望美がギクリと譲を見上げてから、ため息をついて、言った。
「やっぱり譲くんに隠し事なんてできないよね・・・」
譲が真顔になる。
「隠し事・・・?」
微かに怒気を含んだその声に、望美がもう一度ため息をつく。
「譲くん・・・怒らないで聞いて?」
「・・・内容によります。」
「じゃあ、話さない。」
「・・・・・・分かりました。怒りません。」
「あのね、今度の日曜、デートなの。」
「は?!」
想定範囲外の言葉が望美の口から飛び出てきて、譲が間抜けな声を出した。
「・・・ごめんね、譲くん。」
やっと事態を理解した譲が、声を荒げる。
「どういうことですか?!」
「ほら怒った。」
望美が唇を尖らせる。
まるで譲が悪いかのような望美の様子に、譲が目を三角にする。
そんなことを言われて怒らない恋人が居るならお目にかかりたい。
だが、譲は溢れそうになる言葉を呑みこむと、沸騰しそうな頭を必死に冷ました。
このまま怒っては、望美が口を閉ざしてしまう。
「・・・分かりました。怒りませんから説明してください。」
譲の声が落ち着いたのを聞いて、望美がおずおずと口を開いた。
「この前、ラケットのガットを張り替えるようにコーチに言われたの。でね、もうすぐインターハイだし、卒業してもテニスは続けたいから、ちゃんとした所で張り替えようと思って、みんなにいい所がないか聞いてたの。そうしたら昨日、下田くんが、いいストリンガーが居る所を知ってるから二人で行こうって・・・」
譲が唇を噛む。
下田。
知っている。
男子テニス部部長でエース。
だが、もともとその座は将臣のものだった。
将臣に取って代わった男が誰なのか何となく気になっていた譲は、下田が将臣の代わりを務めていると知って憮然とした。
確かに下田はテニスが上手い。
ダブルスで将臣と組んで2年のうちからインターハイ出場を決めたほどだ。
将臣に取って代わるのも頷ける。
だが、どうも譲は下田を好きになれない。
髪の感じや仕草などが、どことなくヒノエに似ていて苛立つのだ。
何度もヒノエに臍を噛まされたせいか、譲はトラウマのようにヒノエに似た男が苦手になってしまっていた。
「・・・私が譲くんと付き合ってるのは皆も知ってるし、二人きりは嫌だって言ったんだけど・・・高校最後の思い出に、どうしてもって言うから・・・」
譲が黙ってため息をつく。
望美は優しい。
優しすぎる。
いきなり連れて行かれた異世界で、全く関係ない人たちのために、握ったことのない剣を振るったぐらいなのだ。
頼まれたら断れない性格。
こんな事が起こるのは分かり切っていた。
だが、最近の譲は、すっかり油断していた。
昔は望美の周りに寄りつく男を片っ端からチェックして、近づこうものなら葬ってやろうと鼻息を荒くしていたのだが、最近は相思相愛であることに浮かれて、チェックを怠っていた。
それに、将臣が居ないことも大きい。
公認カップルのように扱われていたせいで、将臣は虫除けとしてかなり役立っていた。
テニス部内でも、虫たちが譲以上に遠巻きに、じっと望美を見つめていたのを譲は知っている。
虫除けが居なくなった事によって、それらが望美に近づくチャンスができてしまったのだ。
「・・・分かりました。先輩が断れないなら、俺が断ります。」
自分の油断に対する怒りを抑えて譲が静かに言うと、望美は首を振った。
「可愛そうだから、やめて・・・私が譲くんと別れる気がないことは、下田くんもよく分かってるの。彼氏には申し訳ないから内緒にしてくれって、何度も言われたし・・・」
譲がため息をつきながら乱暴に前髪をかきあげる。
それは多分、譲に申し訳ないからではなくて、譲にバレるとヤバイからだ。
お人好しの望美は、完全に下田の口車に乗せられている。
「デート中も、絶対に譲くんのこと忘れたりしないから・・・ずっと譲くんのこと考えてるから・・・」
縋るように見つめられ、譲がドキリとする。
望美にしては珍しい、甘い言葉。
望美が自分のことだけを考えてくれるなら。
重く沈んでいた譲の心が、少しだけ浮上する。
「ね・・・いいでしょ?」
油断したところを必殺お願いモードで狙撃され、譲は条件反射で頷いていた。
・・・帰ろう。これを食べたら帰る。決めた。
譲は、眉間にしわを寄せてハンバーガーに齧り付きながら、今日何度目かの決心をしていた。
ガラスの向こう、斜め向かいの店では、望美と下田が楽しそうにランチを食べている。
今朝、どうしても望美のデートが気になる譲は、庭に出てホースで水を撒いていた。
偶然を装って、一言声をかけるだけでも。
片思い十数年のうちに培われた譲的アプローチ方法だ。
そして、玄関を出て行く望美の姿を見て、譲はホースを取り落とした。
ドレッシーなピンクのワンピースに、ヒールが高めのサンダル。
髪はサイドだけを編み込んで、後ろで留めてある。
自分と会う時、望美は一度もそんなお洒落をしてくれた事はない。
この間のデートだって、母親とデパートへ行く時ぐらいのお洒落度だった。
譲とのデートがお洒落度10なら、今日のデートはお洒落度100だ。
声をかけるつもりだった譲は、ショックのあまり呆然とそれを見送った。
そして、望美の姿が見えなくなった途端、ダッシュで水道の水を止め、自分の部屋へ階段を駆け上がり、財布をつかんで家を飛び出してきたのだった。
下田が望美の皿からドリアを一口奪って、幸せそうに口に入れる。
望美が驚いたように下田を見てから、ぷうと頬を膨らませる。
それを見た下田が笑いながらその頬をつつく。
なんとも素敵なカップルぶりだ。
譲が泣きたくなってカウンター席で突っ伏す。
今日一日、ずっとこんな調子なのだ。
髪を触ったり。
肩を抱いたり。
腰に触れたり。
譲がしたくてしたくて出来ないようなボディタッチを、下田はごく自然にやってのける。
たいして年も変わらないのに、そんなスキルが高いところなどは、苛々するほどヒノエそっくりだ。
そして、望美は一瞬戸惑ったような顔を見せるが、その手を払いのける訳でもない。
そこも気に入らない。
譲としては、花びらみたいに真っ二つにしてから、もう二度と復活できないように封印して欲しいくらいなのだ。
望美もまんざらではないのではないか。
譲の中に、小さく疑念が生じる。
なぜなら、下田は完璧なのだ。
ガットの張替えというのは完全に口実で、張替えを待つ間、下田は望美をデート然と連れまわしている。
そして、そのエスコートには一分の隙もない。
譲のように、望美にいちいちお伺いを立てたりせず、女の子が喜びそうなところへ黙って連れて行く。
望美だって女の子だ。
可愛い雑貨屋さんに連れて行かれれば、瞳を輝かせて店を見て回る。
その間に、下田は女の子に交じって望美の好きそうなアクセサリーを選ぶ。
そして、イヤリングを望美の耳に当てたりしながら、さりげなく望美の髪や耳に触れるのだ。
電柱に身を隠しながらそれを見た時、譲は衝撃を受けた。
なんとも自然で格好良くありながら、それでいて下心を満足させる行為。
ものすごく、真似してみたい。
だが、自分にそれができないことは、分かり切っている。
望美の髪や耳に触れようとするだけで、ドキドキしすぎてぎこちなくなってしまうに違いない。
こんな自分で、望美は満足しているのだろうか。
もっと恋人らしくイチャイチャできる、下田のような男の方が、一緒に居て楽しいのではないか。
・・・もともと白龍に呼ばれなければ、先輩が俺に振り向くなんて事は有り得なかった訳だし。
譲の思考がどんどん深みにはまっていく。
勝手にコンプレックスボーイ、譲の本領発揮だ。
・・・帰ろう。
何も考えず夢中で望美を追いかけて来てしまったのだが、陰からこっそりデートを見守っていたって、望美がデートを中断して譲のもとに戻ってきてくれるわけでもないのだ。
ふと自分の格好を見下ろせば、庭弄り用の着古したTシャツとズボン。
惨め過ぎる。
望美と下田がレストランから出たのを見て、譲も立ち上がった。
譲は、駅から家へ向かう道を、とぼとぼと歩いていた。
50メートルほど先には、手を繋ぐ望美と下田が見える。
下田は、どんなことがあっても望美の手を離さない。
譲はあんなに勇気を出して、10分間手を繋ぐのが精一杯だったというのに。
結局、譲は最後までデートを見守ってしまった。
庭弄り用の格好はかえって好都合で、芝生の上に這いつくばったり、埃だらけの壁に張りついたりしたので、かなり汚れている。
だが、それらの汚れを払う気力もない。
電車の中で他の乗客の視線を感じても、失恋した自分を嘲笑っているのだろうと甚だしく後ろ向きで勝手な解釈をするだけだった。
譲がフッと諦めの苦笑を浮かべる。
望美から別れの言葉を聞く覚悟はできている。
また片思い生活に逆戻りだ。
・・・思えば短い人生だったな。
望美との幸せな日々を思い返しながら顔を上げると、二人の姿が忽然と消えていた。
もう諦めたならよせばいいのに、譲が慌てて二人の姿を探す。
公園を覗くと、二人が奥の方で向かい合っていた。
慌てて身を隠す。
・・・下田のやつ、人気のない公園で、何をするつもりだ?!
望美に無理チューでもしようものなら、ただじゃおかない。
譲は屈んでツツジの生垣に身を隠しながら、少しでも二人に近づこうとする。
だが、何を話しているのかが聞こえる場所までは近づけない。
ツツジの隙間から様子を伺っていると、下田が望美を抱き締めた。
・・・あの野郎!
譲が思わず立ち上がる。
背後のアジサイに頭がぶつかり、ガサ、と音がした。
だが、譲はそれに気付く間もなく、動けなくなってしまった。
望美が嫌がるでもなく、されるがままになっているのだ。
同意の上か。
さあっと頭から血が引いていく。
譲にとっては永遠のような短い時間のあと、下田は持っていた望美のラケットを望美に押し付け、走り去っていった。
望美がラケットを抱いたまま、立ち尽くす。
譲も、その背中を見つめたまま、立ち尽くす。
望美がショルダーバッグからハンカチを取り出し、目の辺りを拭ったのを見て、譲は呪縛から解かれたように我に返った。
ツツジを飛び越えて望美に走り寄る。
「先輩・・・!」
望美が瞳を潤ませたまま驚いたように振り向く。
譲は望美のもとまで走り寄ったものの、何を言ったら良いのか分からず、その顔をじっと見つめた。
望美の瞳から、涙が溢れる。
この涙は、下田に対する拒否なのか、譲に対する決別なのか。
「もしかして、見てた・・・?」
望美が溢れる涙を拭いながら、涙声で言う。
譲がしばらく迷ってから、口を開いた。
「ええ、見てました。偶然、通りかかって・・・」
望美が俯いて泣きながら呟くように言った。
「・・・辛いね・・・こういうの・・・」
望美が再びハンカチで涙を拭う。
訳が分からない。
だが、どんな時でも、望美をなぐさめるのは、譲の役目だ。
例え、望美が他の男のために泣いているのだとしても。
おずおずと頭を撫でると、望美がラケットを抱いたまま、譲の胸に額をつけようとする。
「あっ・・・待ってください・・・」
譲は慌てて望美に背を向けると、身体についた埃を払った。
「埃だらけだね・・・どうしたの?」
望美の手が譲の背中の埃を払う。
「えっ・・・と、蔵の掃除を・・・」
譲が慌てて釈明する。
「譲くんの家の蔵って、芝生が生えてたっけ?」
「く、蔵の掃除のあと、庭の芝刈りを・・・」
言いながら譲はあたふたと望美に向き直った。
「ふうん?寝転がって芝刈りしたの?なんかアジサイも付いてるし・・・」
泣き止んだ望美が半信半疑の顔で、譲の頭に点々と付いているアジサイの花粉や枯れた花弁を取り除く。
背伸びをして、譲に抱きつくように髪を触る望美の顔が、目の前に迫る。
譲は、その唇がピンクに彩られ、濡れたように光っていることに気付いた。
今まで、望美はこんな唇を自分に見せたことがあっただろうか。
否。
なぜ。
なぜ他の男と会う時には口紅をつけて、自分と会う時はつけないのか。
他の男に、こんな誘うような唇を見せて。
吸い込まれるようにじっと見つめる。
諦めるなんて、できない。
この唇を、誰にも渡したくない。
譲の顔が近づいてきたのに気付いて、望美が頬を染めて顔を背けた。
「・・・今日はダメ・・・」
「どうしてですか?」
譲の声に怒りが滲む。
下田のための唇だからだとでも言うのだろうか。
「・・・・・・」
望美が黙って手の中のアジサイの花弁を地面に捨てた。
それを見た譲が苛立つ。
自分もそんな風に捨てるつもりか。
譲は無理やり望美の顔を自分に向けると、怒りに任せて口付けた。
「ん・・・!」
望美が一瞬遅れて喉の奥で拒否の声を上げる。
その声にギクリとして、譲は唇を離した。
そんなに自分とのキスが嫌だというのか。
「ほら、付いちゃった・・・」
望美が憮然としてハンカチで譲の唇を拭う。
眉間にしわを寄せてされるままになっている譲に、望美が続ける。
「・・・いつもはこんなことしないくせに・・・怒ってるの?」
「怒ってるに決まってるじゃないですか・・・俺の前で口紅をつけてくれたことなんかないでしょう?」
譲の言葉を聞くと、望美は頬を染めて言いにくそうにしばらく黙ってから、口を開いた。
「・・・だって・・・キスしたら付いちゃうから・・・ベタベタして嫌じゃない?」
譲が眉間にしわを寄せたまま固まる。
望美の意図をやっと理解したのだ。
望美の中で、口紅をつけないことは、いつでもキスしていいというサインだったという意味になる。
ということは、下田にはキスをさせるつもりはなかったという意味で、譲と会う時に口紅をつけないのは・・・
どんな顔をしたらいいのか分からず眉間にしわを寄せたままの譲の頬が染まっていく。
「・・・鈍感・・・」
望美は目を伏せて呟くと、ハンカチで口紅を拭ってから目を閉じて顔を上げた。
ドサクサに紛れて一番言われたくない人間に鈍感と言われてしまったのだが、譲は嬉しさに震えながらもう一度優しく口付ける。
唇を離すと、譲は望美の身体をラケットごと強く抱き締めた。
とりあえず、今のところ、望美の心はまだ譲のものだ。
「譲くん、今、私のこと考えてる?」
腕の中で望美が言った。
「え?・・・ええ、当たり前じゃないですか。」
突然の質問に戸惑いながら、譲は正直な気持ちを返す。
「・・・当たり前・・・か・・・」
望美はそう言うと、幸せそうに譲の胸に頬をつけて続けた。
「・・・好きな人が自分のことを考えてくれるって、当たり前だけど、すごく貴重なことなんだね・・・」
「そうですね。」
譲が確信を持って頷く。
望美は今日初めて気付いたかもしれないが、譲は、常に痛いほどそう思っているのだ。
「・・・下田くんが、最後に一度だけ抱き締めてもいいかって言った時に、私、はっきり言ったの・・・いいけど、抱き締められてる間も、多分下田くんのことは考えられないって・・・それでも下田くんは黙って私のこと抱き締めたけど・・・でも・・・泣いてたみたいだった・・・」
譲が黙って望美の髪を撫でながら、望美の言葉に耳を傾ける。
先ほどの望美の涙。
望美は、下田を振ったことに心を痛めていたのだ。
戦の後もそうだった。
望美はいつまでも平家の行く末や死んでいった兵士たちのことを考えていた。
どうしても避けられない選択。
それによって傷つく者も少なくない。
だが、望美はその選択を曖昧にしたり、他人任せにしたり、後悔したりしない。
しかし、その選択によって大いに心を痛める優しい女性であるのも事実。
そして、それをなぐさめるのは、譲の役目だ。
「多分、俺も・・・先輩に振られていたら、同じ事をしたと思います。」
「え・・・」
望美が意外そうに顔を上げる。
「諦め切れなくて・・・心が手に入れられなくてもいいから、真似事だけでもって・・・でも、実際に真似事をしてみて、初めて分かるんです。心が手に入らなければ、意味がないって。」
実際、譲には何度もそんな経験がある。
将臣と共に、望美の一番近くで何年も過ごして来たのだ。
だが、近づけば近づくほど、心の遠さに打ちひしがれてばかりだった。
親密度が高くなると、考えていることが見えやすくなる。
多分、下田も、望美が考えていることを、まざまざと見せ付けられたのだろう。
望美が考えていること。
それは、望美が数日前に約束したとおり、譲のことだ。
「下田先輩も、今日、やっと分かったんじゃないかと思います。でも本当は、最初にデートを断られた時点で分からなければいけない事なんです。だから・・・望美先輩が気に病むことではないと、俺は思います。」
「ありがと・・・」
望美が小さく笑んで、譲の胸に再び頬をつけて目を閉じると続けた。
「・・・やっぱり、譲くんとこうしてる方がいいな・・・」
「そうじゃなければ、困ります。」
譲が苦笑する。
「・・・うん・・・下田くんに抱き締められたときは、なんか、ドキドキして落ち着かなくて・・・でも、譲くんの胸は、広くて温かくてすごく安心するの・・・お布団みたいなの・・・」
「・・・・・・」
譲が複雑な顔をする。
望美はかなり抵抗なく譲の胸に飛び込んでくることが多い。
キスひとつで頬を染めるのに、譲に抱きつく時は平気な顔をしているのには、譲も気付いていた。
なんと、望美は温かいお布団に飛び込む感覚でそれをやってのけていたのだ。
確かに、細身の下田に比べれば、譲の胸は広い。
だからと言って、お布団扱いはどうかと思う。
自分に抱き締められた時にこそ、ドキドキして欲しいのに。
だが、譲はそれを口に出さなかった。
どちらにしても、望美は譲の方がいいと言っているのだ。
望美が自分に触れて安心すると言っているのだから、ボディタッチをためらう必要もない。
「・・・帰ろっか。」
そう言って、望美が身体を離す。
「はい。」
譲は頷くと、ラケットケースの紐を肩にかけて歩き始めた望美に、さりげなさを装って手を伸ばす。
いきなり肩を抱かれ、望美がギョッとして譲を見上げた。
譲は望美の視線を感じたが、どう対応したらいいのか分からず、ことさらにそ知らぬふりをする。
望美はそれを見ると黙って俯き、譲に肩を抱かれながら数歩歩いたが、耐えられないように口を開いた。
「・・・譲くん、恥ずかしいから、手、離してくれない?」
「え・・・」
譲が大ショックを受けながら手を離す。
分からない。
なぜ、街中で下田に肩を抱かれても嫌がらなかったのに、人気のない公園で譲に肩を抱かれるのはダメなのか。
思わず歩みを止めた譲に、望美が先に立って歩き出す。
振り向いてくれそうもないその様子に、譲が慌てて追いかける。
「せ、先輩、じゃあこれは?」
望美の腰に手を置く。
望美が飛び上がるようにして逃げる。
「・・・やだっ・・・なんでそんな所触るの?」
「ええっ・・・?」
譲がますます青くなる。
「あの・・・これもダメですか?」
譲が後ろから望美の髪をかき上げ、耳に触ると、望美がビクリと身体を震わせて肩を竦めた。
「・・・やんっ・・・」
甘い声。
譲が固まる。
望美が赤くなって耳を押さえると、責めるように言った。
「もう、やめてよ・・・恥ずかしいから触らないで・・・」
耳が弱い、耳が弱い、と脳内の望美ノートに何行も書き込んでいた譲がはっと我に返る。
「ちょっと待ってください・・・どうして下田先輩は良くて、俺はダメなんですか?」
譲も責めるような声を出す。
下田はあんなに嫌と言うほど望美に触れたというのに、恥ずかしいというだけで譲の触れる権利が奪われるなんて、断固抗議したい。
譲の言葉を聞いて、望美が眉間にしわを寄せた。
しばらく黙って考え込むと、低い声で言った。
「・・・見てたの?」
譲がはっとする。
「い、いえ!」
慌てて首を振る譲に、望美が言った。
「もしかして、ほっぺにチューしたのも、見てた?」
「・・・嘘を言わないでください。」
譲が憮然として返す。
嘘でもそんな事を望美から言われるのは不快だ。
「やっぱり見てたんだ。ずっと。最初から最後まで。私のこと信じてくれなかったの?」
望美が怒りを露にして譲に詰め寄る。
ついに、譲は開き直った。
「しっ・・・仕方ないじゃないですか!先輩がそんな格好で家を出て行くのを見たら、誰だって後をつけたくなりますよ!」
「格好?」
望美が自分を見下ろす。
「・・・俺と会う時、そんな格好してくれたことないから・・・」
譲がそっぽを向きながら言った。
些細な事で子供のように拗ねている譲に、望美が吹き出す。
「そうだね・・・」
言いながら譲の手を取ると、幼稚園の時にしていたように、ぶんぶんと振りながら歩き出す。
「・・・なんでだろ・・・なんか、今さらって感じするんだよね・・・」
「・・・先輩・・・」
譲が情けない声を出す。
「ごめん。今度のデートは、めいっぱいお洒落するね。」
あまり悪びれていない様子で望美が笑いながら言う。
その様子に譲は苦笑すると、念を押すように言った。
「・・・約束ですよ。」
「うん。じゃあ指切り。」
望美は頷くと、無邪気に小指を差し出した。
子供のような仕草。
小指を絡ませながら、譲は望美の心を分析する。
多分、望美の中で、自分は幼馴染と恋人の間を行ったり来たりしているのだ。
子供の頃のように接しているときは幼馴染で。
譲を男と意識して接しているときは恋人で。
手を繋いだり、抱きついたりするのは幼馴染としての行為。
キスをしたり、肩を抱かれたりするのは恋人としての行為。
幼馴染だから、お洒落はしない。
恋人だから、口紅はつけない。
望美の中に起きている、パラドックス。
「・・・指切った!」
望美の小指が離れ、望美が鼻歌でも出そうな顔で歩き出す。
たったそれだけの事に、譲は言いようのない寂しさを感じた。
自分は、ほんの少しでも、一秒でも長く触れていたいのに。
望美は、そんな風に思ったりしないのだろうか。
恋人と少しでも長く触れ合っていたいと思わないのだろうか。
それ以前に、今の譲は、望美の中で幼馴染なのか、恋人なのか。
安心しきった横顔。
多分、前者だ。
最後の角を曲がる。
隣り合った二人の家の門が見える。
明日から、また、日常が始まる。
大半の時間を幼馴染として過ごす、日常。
「じゃ・・・」
家の前で別れの言葉を口にしかけた望美の手を、譲は思わずつかんでいた。
望美が驚いたようにつかまれた手を見てから、首を傾げて譲を見上げる。
「なあに?」
何か言いかねている子供に対するような、幼馴染のお姉さんとしての仕草。
譲はその顔を見つめていられずに、頬を染めて目を逸らした後、きょろきょろと辺りを伺う。
周りに誰も居ないのを無意味に確認してから、望美に目を戻す。
根気よく譲の言葉を待つ、他意のない望美の瞳。
やはり見つめていられずに、目を逸らす。
「あの・・・」
何を言えばいいのだろうか。
もう少しだけ、近くに来て欲しいと。
触れたいと。
・・・どこに?
譲はしばらく望美の手をつかんだまま逡巡していたが、急に身体を屈めると、望美に短いキスをした。
望美が目を丸くして譲を見つめる。
「すみません!」
譲は意味もなく謝りながら手を離し、慌てて身を翻す。
「また明日!」
望美に背を向けたままそう言って、譲は自分の家の門に駆け込んで行った。
望美が呆然とそれを見送る。
こんな風に、不意打ちでキスをされたのは初めてだったのだ。
よく考えてみれば、譲がキスをしてくるのは、望美が求めたときか、嫉妬で我を忘れた時かどちらかで・・・
「譲!朝からこんな時間まで黙ってどこに行ってたの?!庭も途中じゃない!」
譲の母の怒声が聞こえてきて、望美が我に返る。
「どこって・・・ちょっと買い物に・・・」
ボソボソと答える譲の声。
「その格好で?!1日かけて?!どこで何を買ってきたの?!」
「・・・っそれは・・・とにかく庭を片付けるから、もういいだろ・・・」
「良くないわよ!夕飯が要るかどうかが分からないとすぐ怒るのは、貴方でしょう?!」
「うん・・・次から気をつける・・・」
「・・・まったく・・・仕方のない子ね・・・・」
有川家の1階ベランダと庭の間で繰り広げられるやりとりは、家の門から玄関に向かう望美にまで丸聞こえだ。
流石に一日中望美を尾行していたとは言えないらしい譲の、苦しい言い訳。
笑いを堪えながら望美が玄関のドアを閉めようとした時、隣の庭でホースを片付ける譲の後姿が見えた。
肩を落としたその背中を見た望美に突然、切なさが込み上げる。
庭弄りも途中のまま夢中で家を飛び出して。
埃だらけになってまで一日中ついて回って。
他の男のために泣く望美を一生懸命なぐさめて。
しまいには母親に怒られて。
呆れるほど、望美のためだけに独りで空回りした、譲の今日一日。
「・・・バカ。」
譲の背中を見つめながら囁くように漏れた望美の呟きが、好き、と言うのと同じ熱を帯びる。
望美は、やっと気付いたのだ。
言葉にしないまま、譲が常に溢れさせている、好きだという気持ちに。
恋人が、自分のことだけを考えてくれているということ。
当たり前だけど、貴重なこと。
それに気付けないまま、多くの時間を幼馴染として過ごし、譲に甘えてきた自分。
そして、そんな自分を全て受け止めてくれる、譲。
ホースを片付け終わった譲が、手を洗ってから玄関へ向かう。
途中でふと立ち止まると、胸の高さまで育ったキュウリの蔓を眺める。
譲は家の中を伺ってから、身体を屈めてキュウリの葉にキスをした。
キュウリに並々ならぬ愛情を注いでいるその様子に、望美が目を丸くする。
譲は望美に見られているのにも気付かずに、キュウリを熱く見つめながら、そっと自分の唇に触れる。
次の瞬間、譲はいきなり頭をかきむしった。
「・・・何をやってるんだ俺は・・・!」
小さく聞こえた譲の呟きに、望美は譲が何を思ってキュウリに口付けたのかを初めて悟る。
確かに、キュウリの蔓は望美の背と同じくらいの高さに育っている。
でも、だからって。
真っ赤になった望美は、慌てて音を立てないようにドアを閉めた。
照れと恥ずかしさから、サンダルを脱ぎつつ思わず口に出す。
「そんなにしたいなら好きなだけすればいいのに!」
だが譲は、望美の求めがなければキスをするのも一苦労なほど照れ屋で。
望美が気付かない方向へ、好きだという気持ちを無駄にばら撒き続けることしかできない。
「もうっ、本当にバカ!」
焦れたように言ってみる。
それでも、譲に対する切なさは込み上げるばかりだ。
「おかえり、望美。なに怒ってるの?」
望美の母が台所から顔を覗かせた。
「何でもない!」
火照った顔を見られないよう、望美が慌てて階段を上がる。
その背中を、母親のからかうような声が追いかけてきた。
「ほら見なさい。譲くん以外の男の子とデートして上手くいくわけがないのよ、あんたは。」