夢の通り雨


「日本も熱帯化しているな・・・」
譲は駅から出て呟いた。
空梅雨かと思えば、スコールのような通り雨。
梅雨の晴れ間という意識が強かったので、折り畳み傘は部室のロッカーに置いたままだ。
夕立なら、すぐ止むかもしれない。
夕飯の買い物をして雨が止むのを待とうと、歩いて5分ほどのスーパーまで駆け出す。
「うわっ・・・」
スーパーに着いた頃には、譲はびしょ濡れになっていた。
カバンから部活で使ったスポーツタオルを出し、眼鏡の水滴を拭って身体を拭く。
譲は苦い顔で濡れた前髪をかき上げ、首にスポーツタオルをかけると、買い物カゴを取った。


「傘なら貸してあげるよ。」
夕飯の食材と一緒にビニール傘を買おうとした譲にレジのおばちゃんが言って、忘れ物の中から黒い傘を取り出す。
「あ、すみません。明日にはお返しします。」
譲が礼儀正しく答えると、おばちゃんは嬉しそうにウンウンと頷いた。
マイバッグを持ってスーパーを出て行く譲の後姿を、急な雨のせいで暇になったレジのおばちゃん達がウットリと見送る。
譲は子供の頃からこのスーパーを利用している。
中高生と言えば、パンかお惣菜、お菓子の陳列棚に直行してそのままレジに行くのが普通だ。
だが、譲は違う。
まずは野菜から。
いかにも真面目そうな長身の少年が、特売品や広告の品の値段を見ながら主婦と同じルートで歩くのは、とても目立つ。
買い物メモを持っている様子もなく、親に買い物を頼まれた子供によくありがちな戸惑いや照れを感じさせない。
特に、おつとめ品100円引きシールがついたアサリの開き具合を吟味している時の厳しい目などは、彼が自分で料理するのだということをうかがわせるに充分だった。
そして、そんな譲に好感を持つ女性は多い。
お惣菜作成のパートから品出しの学生アルバイトまで、譲はスーパーで働く女性たちの夫にしたいナンバーワンなのだ。
レジのおばちゃん達は特に熱狂的で、休憩になれば譲の話に花が咲く。
『昨日は特売のアジを買ってったよ。』
『最近和食が多いね。』
『特売のアジって、確かタタキ用の丸ごとでしたよね?・・・まさか自分で?』
『あ、あんた最近入ったから知らないんだ。』
『あの子は出来合いのタタキなんか買わないよ。』
『ええっ、本当ですか?!』
『ん。買うもの見ててごらん、あんたもそのうち分かるよ。』
『どういう家の子なんですか・・・?』
『それなんだけどさ・・・』
2年前、もの欲しそうにアワビを見つめる譲を鮮魚の加藤さんが目撃して以来、譲は、何か不幸な事情で貧乏な父親と二人暮らしをしているカワイソウな子という風におばちゃん達に語り継がれていた。
譲は全く違う意味でアワビを見つめていたのだが、おばちゃん達は貧乏なせいだと思ったのだ。
スーパーから出た譲が傘を差そうとした時、目の前を見慣れた長い髪が走り抜けて行くのが見えた。
咄嗟に声を上げる。
「先輩!」
望美が土砂降りの中立ち止まって振り向くと、当然のように手招きをした。
その間にも、望美の身体は濡れていく。
譲がブンブンと大きく手招きをして返す。
望美が仕方なく走って戻ってくる。
「何で?走っちゃえばすぐだよ。」
譲のもとに駆け寄るなり、望美は不満そうに言った。
「傘がありますから・・・それに、家まで走っても10分近くかかるでしょう?風邪をひきますよ!」
「平気だよ・・・暑いし・・・」
望美が口を尖らせる。
「そうやって油断していると夏風邪をひくんですよ。」
お節介モード全開で譲が言って、荷物を地面に置くと首にかけたタオルを外す。
「俺の使ったタオルで良ければ・・・」
「うん。」
望美は素直に頷くと、譲に背を向けた。
何をしたらいいのか分からず一瞬戸惑った譲だったが、頬を染めて望美の髪をすくうと、タオルに挟んで水を吸わせる。
濡れた望美の髪から、シャンプーの香りが強く香る。
当然のように譲に髪を触らせる望美。
その無防備さに、譲はため息をつく。
男が恋人の濡れた髪をこんな風に触って、何も感じないと思っているのだろうか。
譲の中で、衝動が小さく動く。
「・・・まったく・・・仕方のない人だな・・・」
衝動を誤魔化すための言葉が、譲の口から勝手に滑り出た。
「あ、その言葉、久しぶりに聞いた。懐かしいなあ・・・毎朝のように聞いてたのにね。」
「・・・・・・」
譲は黙って望美の髪を丁寧に拭う。
世話を焼かない生活になって久しい。
寝乱れた望美の姿を眺めながら呟いていた、衝動を誤魔化すための呪文。
だがそこに、無防備すぎる望美に対しての本音が覗いてしまっていることに気付く。
「もういいよ、ありがと。」
望美が振り向く。
譲は慌ててそっぽを向くと、タオルを差し出した。
「あの、身体も拭いた方が・・・」
「うん。」
望美は譲の様子に気付かないままそれを受け取って、身体を拭き始めた。
譲がそれを盗み見る。
髪の毛が張り付いた首筋。
半袖のブラウスから透ける水色の下着。
膨らんでいく衝動を抑えなくてはいけないと思っても、視線を逸らすことができない。
そこへ、望美がスカートを押さえてトドメのひと言を呟いた。
「やだ・・・パンツまで濡れちゃってる・・・」
すでに稼動している譲の煩悩が頼んでも居ないのに妄想を組み上げる。
水色の下着姿でベッドに横たわった望美が、恥じらいながら同じセリフを吐いていた。
・・・こんな時にそんなセリフを・・・!
譲は根性で望美から視線を引き剥がすと、身体の火照りを鎮めるためタイムサービスで買ったトマトの割引率を計算し始めた。
身体を拭き終えた望美は、譲にタオルを返そうとして、ためらった。
雨に濡れた前髪を無造作に後ろへ撫で付けた譲は、やけに大人びて見える。
遠くを見て何かを真剣に考え込んでいる顔も、なぜか男を感じさせる。
気恥ずかしさを覚えた望美は、譲のタオルを口許に当てた。
そして何かに気付き、すうっと息を吸うと、悪戯っぽく言う。
「譲くんの匂いがする。」
割引率の計算に集中していた譲がギョッとして望美を見る。
「やめてください!汗臭いでしょう?」
譲はかあっと赤くなって、望美からタオルを取り上げようとした。
望美がクスクスと笑いながらそれを逃れて背を向ける。
「そんなことないよ。ぎゅってする時と同じ匂い。」
そう言って、望美はもう一度タオルの匂いを嗅いだ。
どこまでも無邪気に、望美は譲を煽る。
譲が突然後ろから望美を捕まえるように抱き締めた。
「・・・だったら、俺はこうしている方がいいです。」
低く囁いて、望美の手からタオルを奪う。
望美は嫌がるでもなく、されるままになっている。
と言うより、反応がない。
こんな人通りのある場所で抱き締めたことを怒ってしまったのだろうか。
譲は慌てて離れると、びしょ濡れのタオルを足もとのマイバッグに放り込んだ。
傘を差し、地面に置いていた荷物を持ってから恐る恐る望美の表情を見る。
望美は、タオルを奪われた状態のまま頬を染めて立ち尽くしていた。
不思議な達成感が譲の心に生まれる。
望美に翻弄されてばかりの譲が、望美をそんな状態にしたのは初めてだった。
さっそく心に余裕ができてしまった譲は、ことさらに落ち着いた声を出して望美を促した。
「行きましょうか。」
「・・・ん・・・」
望美が恥ずかしそうに頷いて、譲の差し掛ける傘に入る。
望美の手が自分の腕にそっと置かれたのを感じて、譲は冷静を装いながら横目で望美を見た。
俯く望美との距離が近い。
頬を染めて歩き始めた二人の後姿を、レジのおばちゃん達が見守る。
「若いってのはいいねえ!羨ましいねえ!」
「あんな所でラブシーンなんて、真面目そうな割に大胆な子だねえ・・・」
「でも良かったんじゃない、やっと幸せになれて。」
「いやあ、今まで彼女が居なかったのがおかしいくらいだよ。やっぱり貧乏だからかねえ?」




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