夢のディープキス
「あっつ〜〜い!」
望美がシャーペンを放り出して床に倒れこんだ。
机に向かっていた譲が振り向いて、床に寝そべっている望美を見たとたん頬を染める。
短めのタンクトップから、ウエストが覗いている。
譲は釘付けになりそうな視線を外すため立ち上がると、クーラーの温度を下げながら言った。
「何か冷たいものでも食べますか?」
「うん!かき氷がいいな!」
望美が寝そべったまま首を捻って譲を見上げる。
「分かりました。」
火照った顔をいつもの癖で誤魔化しながら、譲が部屋を出て行く。
インターハイが終わり、部活を引退した望美は、看護学校の受験勉強を始めた。
だが、望美は譲の部活がない日を狙っては、集中できないとか何とか言いながら、勉強道具を持って遊びに来る。
譲もそれに付き合って、もともと使っている自宅学習型教材の夏期講習をこなしている。
かき氷を作りながら、譲がガランとしたリビングをチラリと振り向く。
平日の昼間、共働きの両親は家に居ない。
部屋に居る間はまだいいが、1階に降りると家の中の静けさが際立ち、望美と一つ屋根の下に二人きりである事実が、譲をどうしようもなく落ち着かなくさせる。
先ほどの光景がよみがえる。
床に寝転がる望美の広がった髪。
タンクトップの裾から覗いた小さな臍。
寝そべったまま、譲を見上げる瞳。
だが、あそこまで無防備な姿を晒されると、戸惑ってしまうのも確かで。
そして、望美が自分を男として意識していないことを、まざまざと見せつけられてしまうことも確かで。
譲が小さくため息をつく。
だからと言って、望美に何かしようという勇気もない。
「イチゴシロップで良かったですか?」
二人分のかき氷を盆に載せて譲が部屋に戻ると、望美が譲の机を覗き込んでいた。
「うん。いいよ。」
答えてから床の上のミニテーブルに戻り、看護学校用の教材を床にどける。
譲がかき氷の皿をミニテーブルに載せてスプーンを渡すと、望美は嬉しそうにそれを受け取った。
「ありがと!いただきます!」
「どうぞ。」
「ん〜っ!やっぱり譲くんのはフワフワで美味しい〜!」
望美の満面の笑み。
蕩けるような気持ちが自分を満たすのを感じながら、譲もかき氷を食べる。
この笑顔を見るためなら、どんなに手間のかかる料理でも苦にならない。
望美がかき氷をスプーンで掬いながら言った。
「譲くん、東大行くの?」
「いえ。東大に行けるほど俺は頭が良くないですよ。」
「でも・・・」
望美がかき氷を口に入れて、譲の机を見る。
先ほど望美が見ていた譲の教材には、東大コースと銘打ってあるのだ。
「東大に行くぐらいのレベルの勉強をしておけば、どこの大学に行くにしても来年が楽ですから。」
「ふーん・・・今から受験のこと考えてるんだ・・・偉いね・・・」
望美がなぜか少しつまらなそうな声を出す。
「・・・全然偉くなんかないですよ。」
そんな綺麗ごとではないのだ。
来年は暇になるであろう望美と会う時間を増やすため、受験勉強に時間を割きたくないだけのこと。
譲が暗い顔でかき氷にスプーンを突っ込んだのを見て、望美が気遣うような声を出した。
「何か、悩んでるの?」
「来年のことを考えると、憂鬱になるんです。」
「譲くんなら大丈夫。どんな大学でも絶対受かるって。それより今は私だよ〜・・・」
望美がスプーンを咥えて鼻でため息をつきながら、参考書を開く。
譲が黙ってかき氷をスプーンで崩す。
憂鬱なのは、受験のことではない。
2年前、望美が高校に進学してしまった時のように、また望美と住む世界が違ってしまうのだ。
望美が恋人である以上、何も心配することなどないはずなのだが、それでも不安で仕方がない。
また、置き去りになる。
幼い頃から繰り返し感じた焦燥感が心の奥底に染み付いている。
望美が参考書を見ながら、かき氷を食べている。
こんな時ぐらい、自分のことを見つめて、微笑みながら食べて欲しいのに。
望美が、遠い。
来年は、もっと遠くなる。
譲の視線に気付いて、望美が顔を上げる。
「何?」
「いえ・・・」
譲が慌ててかき氷に視線を落とし、掬って食べる。
望美もそれに倣ってかき氷を食べると、何かに気付いたような顔をして、いきなり舌を出した。
「赤くなってる?」
「え?」
「ほら、メロン味食べると緑になるから。」
「あ、そういう意味ですか・・・」
無邪気な言葉に笑みながら、望美の舌を見る。
「どう?」
小さく赤い、望美の舌。
こうしてまじまじと見ると、ずいぶん艶かしいことに気付く。
「・・・よく分からないです・・・同じ赤だからな・・・」
「そう?」
望美は首を傾げながらあっさりと舌を引っ込めた。
再び参考書に視線を落としたまま、かき氷を食べる。
赤い舌がチラリと覗いて譲がドキリとした。
慌てて視線を逸らし、かき氷を見つめて黙々と食べながら、思う。
望美の舌に触れるキスを、したことがない。
時々してみたいと思うことはあったが、ここまで意識したことはなかった。
「うわ〜!2重根号の外し方忘れてる〜!」
望美がいきなり叫ぶと、参考書を頭に被って天を仰ぐ。
そんな仕草も可愛い。
譲が小さく笑みを浮かべると、望美が唇を尖らせた。
「あ、譲くん、いま私のこと馬鹿にしたでしょ。」
譲が目を丸くして首を振る。
「え?!馬鹿になんて・・・」
「じゃあ、これ分かる?」
望美がくるりと機嫌を直すと、譲の隣に移動して参考書を見せる。
「ええ、2重根号の外し方なら分かりますよ。」
「そうだよね、分からないわけがないよね・・・」
言いながら、望美はかき氷の皿を引き寄せて残りを飲み干す。
少し不満そうな望美の様子に気付いて、譲が伺うように望美を見る。
望美がため息をつきながら、ぺろりと唇を舐めた。
舌の動きに譲の心臓がまた小さく跳ねる。
望美はかき氷の皿を置くと、譲に肩を寄せて参考書を見せながら言った。
「どうやるんだっけ?」
望美の肩が腕に触れて、譲はどぎまぎしながら参考書を指差す。
「分かりやすく公式にしてあるじゃないですか。これを覚えてしまえば、あとは全部ワンパターンですよ。」
「この公式がよく分からないの。」
望美が焦れたように言った。
「それはですね、例えば・・・」
説明し始めた譲の横顔を、望美がじっと見つめる。
「あの・・・先輩、聞いてますか?」
望美の視線に気付いて、譲が頬を染めながら控えめに望美を諌める。
「ううん、聞いてなかった。」
望美が自棄になったように言い放った。
譲が目を丸くする。
望美らしくない。
譲が驚いているのを見て、望美は泣きそうな顔になった。
「・・・ごめん、八つ当たりして・・・なんか・・・譲くんが遠い感じがするの・・・」
「え・・・?」
「譲くんはすごく頭がいいのに今から受験勉強してて・・・私はこんな数Tの問題が分からなくて困ってて・・・なんだか違う世界に住んでるみたいに思ったの・・・」
譲が真顔になる。
望美は望美の視点で、譲と同じ想いを抱いているのだ。
譲は参考書を閉じて傍らに置くと、望美をそっと抱き締めた。
「・・・俺もです。」
「え?」
望美が腕の中で不思議そうに見上げてくる。
「来年、先輩が卒業するのを思うと、先輩が遠くなってしまう気がして・・・それこそ実際に違う世界に住むようになるでしょう?」
「あ・・・」
いま気付いたというように、望美が小さく声を上げる。
望美の口の中で、小さく舌が蠢く。
それをじっと見つめながら、譲が続ける。
「・・・来年が憂鬱なのもそのせいですし、今から受験勉強をするのも来年貴女と会う時間を作るためです。」
「そんなの・・・私の方が暇になるんだから毎日会いに来るよ。」
望美が喋るたび、舌が可愛らしく動く。
・・・すごく美味しそうだ。
望美の言葉を聞きながら、譲は頭の片隅で場違いな事を思う。
舌に似た食べ物なんて見たことがないのに、なぜこんなに食べたいと思うのだろう。
「それでも不安なんです・・・」
言いながら、譲が顔を近づける。
望美が口をつぐんで目を閉じる。
唇が重なる。
二人の距離がゼロになっている。
それなのに。
ゼロであるはずの距離でさえも、不安が拭えない。
遠い。
譲は少しだけ顔を離して囁いた。
「先輩・・・舌を・・・」
「舌?」
わけが分からないまま、望美もつられて囁く。
その拍子に唇が開いたのを見て、譲は再び顔を近づけると、舌を出してそこへ差し入れた。
望美がビク、と身体を震わせる。
それに気付いた譲は慌てて舌を引っ込めた。
唇を離すと、望美が驚愕の顔で譲を見つめている。
「・・・すみません・・・嫌でしたか・・・?」
大失敗をしでかしたような気分になり、譲が真っ赤になる。
「・・・もしかして、今の・・・ディープキスっていうやつ・・・?」
望美も真っ赤になりながら、ぽそぽそと言う。
「・・・え、ええ・・・そのつもりだったんですけど・・・下手ですみません・・・」
譲が申し訳なさそうに言ったのを聞いて、望美が慌てて首を振る。
「ううん、こっちこそごめん、驚いちゃって・・・」
「っそうですよね、前触れもなく・・・本当にすみませんでした・・・」
譲がそう言って望美から離れようとする。
そのTシャツを望美がつかんだ。
譲が驚いて望美を見る。
望美はTシャツをつかんだまま、小さな声で言った。
「驚いちゃって、何も分からなかったの・・・だから・・・」
望美が意を決したようにぎゅっと目を閉じる。
譲は小さく息を呑んでから、もう一度、顔を近づけた。
望美の唇が、小さく開いている。
それだけのことが、ものすごく色っぽい。
おずおずと、そこへ舌を差し入れる。
望美の身体が小さく逃げて、しかし同時にTシャツが強く引っ張られる感覚。
望美の口内に侵入した舌が、望美の舌に触れる。
柔らかく、ぬるりとした感触。
微かに甘くイチゴが香る。
混ざり合う唾液。
全てが官能的で。
譲は、このキスがなぜ交わりの前触れに使われるのか、身をもって知る。
息苦しくなって唇を離すと、望美が恥ずかしそうに目を伏せた。
そして、譲のTシャツを握り締めていたことに気付き、慌てて手を離す。
申し訳なさそうにその部分を撫でてしわを伸ばす望美を、譲がそっと抱き寄せる。
望美が譲の胸に身体を預けて、小さな声で言った。
「キスに味があるって・・・初めて知った・・・」
「ええ・・・俺も初めて知りました・・・」
熱のこもった声で、譲が答える。
望美はしばらく黙ってから、囁くように言った。
「・・・すごく近くになれるキスだね・・・」