ホットチョコレート


家族も寝静まり、夜の静けさが深まる頃。
こんな時間に携帯が鳴ったことなどない譲は、突然鳴り響いた着信音に驚いて椅子から落ちそうになった。
望美からの着信を表すメロディー。
ガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、携帯電話に文字通り飛び付く。
「もしもし?!」
『あ、譲くん、夜遅くにごめんね。』
「いえ!どうしましたか?!何かあったんですか?!」
『ううん、えーと、うん、何かあったっていうか・・・ちょっと、私の家に来て欲しいの。』
「こんな時間に?!おじさんやおばさんにご迷惑でしょう?」
『もう寝てるから大丈夫。』
「・・・!」
譲が息を飲む。
『とにかく来て、ね、お願い。』
一方的に言うと、望美は慌てたように電話を切ってしまった。
ツー、ツーという無機質な音を聞きながら、譲は胸の高鳴りを抑えられない。
なぜなら、机の上の時計が、0時を指していたからだ。
それは、日付が指折り数えたバレンタインデーに入った事を示している。
例によって万一の事を考え、数週間前からソワソワ感が隠し切れなかった譲は、つい先ほど、明日に備えて早く寝ようと思ったばかり。
譲が有り得ない速さでドテラを脱ぐ。
電気代を考えて暖房は抑え気味の部屋の中、いきなり全裸になると、タンスの中から新しい下着ときれいめの普段着を出して着る。
それから鍵を取り出して机の引き出しを開け、数センチ四方の袋を取り出してズボンのポケットに入れる。
譲は両手で頬を叩いて気合を入れると、眠っている両親に気付かれないよう、そっと部屋を出た。


望美の家の玄関に着くと、待っていたかのように望美がドアを開ける。
「ごめんね。勉強中だったでしょ?」
家族を起こさないように配慮しての囁き声が、やけに色っぽい。
「ええ・・・まあ・・・」
囁き声で返しながら招き入れられた望美の家には、チョコレートの匂いが充満していた。
・・・まさか、手作りチョコ?!
料理下手を自覚している望美は、手料理を作る事を極端に避ける。
まして、料理上手な譲に対して料理で勝負しようなどおこがましいと思っているらしく、男の夢であるっていうか単に譲の夢である手料理系プレゼントは絶望的だったのだ。
譲は嬉しさに目頭を熱くする。
バレンタイン、最高。
どんなチョコだって、根性で全部平らげてみせる。
愛があれば、ラブイズオッケー。
だが、非常に失礼な譲の予想に反して、案内された春日家の台所はたいして荒れていなかった。
望美がボウルの中で液状になったチョコレートを計量スプーンでかき混ぜながら、上目遣いで譲を見上げる。
「あのね、トリュフを作ろうと思ったんだけど・・・何度やっても固まらなくて・・・」
見れば、『簡単!手作りシリーズ』と書かれた箱が数個転がっている。
すでに計量された材料がパックになっているタイプの製品らしい。
なるほど、これなら台所も荒れないはずだ。
そして譲の脳は素早く料理経験を検索し、トリュフが固まらない理由を弾き出す。
多分、冷やし足りないだけのこと。
的確なアドバイスをしようと口を開きかけた譲より先に、望美が言葉を続ける。
「だから、このまま食べてもらってもいい?」
そして、望美は計量スプーンでチョコレートを掬うと、譲の口へ持っていく仕草をしてみせる。
これは。
譲の意識はチョコレートがどうとかよりも全く別の事に食いつく。
これは、夢のハイアーンではなかろうか。
「ええ、もちろんです。」
譲は望美が食べさせやすいよう、いそいそとダイニングの椅子に座った。
危うく調子に乗ってアドバイスをしてしまうところだった。
美味しいトリュフを食べるより、このハイアーンを逃す方が痛恨の極み。
望美が立ったまま、少し屈んで譲にチョコレートを食べさせる。
ボウルから直接、しかも計量スプーンで食べさせられているのに、譲は天にも昇る気持ちだ。
ボウルと計量スプーンというシチュエーションさえも、今の譲の中では「新婚さんみたいv」という超ポジティブシンキングになる。
ああ、これでこそ恋人同士。
ハートマークを飛ばしながら、譲が計量スプーンに吸い付いた。
ステンレスの計量スプーンは、譲の舌の動きをダイレクトに望美の手に伝える。
「・・・!」
望美が思わず手を離す。
「?」
スプーンを咥えたまま、譲が目を丸くした。
「あ、ご、ごめん。」
望美は慌てて譲の口からスプーンを取り返す。
そのうちにも柔らかい口の感触が手に伝わって、望美がみるみる赤くなる。
何となく、失敗作を一人で食べさせるのが申し訳なくて始めただけの行為。
だが、よく考えてみれば、ものすごく照れくさい事をしてしまったような気がする。
望美はボウルと計量スプーンを持ったまま、早口で言った。
「えっと、はい、以上、バレンタインデーでした!」
「ええっ?!」
譲が心底残念そうな声を上げる。
もっとハイアーンを楽しみたいのだ。
「う・・・」
申し訳なさそうに声を詰まらせる望美に、譲は怒ると言うより不思議そうに言った。
「以上って・・・バレンタインデーはさっき始まったばかりじゃないですか・・・チョコレートも残っているし、これだけ(エッチなし)だったら、別に明日帰って来てからでも良かったんじゃないですか?」
「う・・・」
望美がさらに申し訳なさそうに縮こまる。
そんな望美を見て、譲の口もとが引き締まった。
「うわ・・・」
望美が絶望的な声を上げる。
こうなった譲は、納得のいく答えを聞くまでテコでも動かない。
望美は俯いて、計量スプーンでチョコレートをかき混ぜながら、ぽそぽそと言い始めた。
「だって・・・譲くん、毎年弓道部の女の子にチョコレート貰って来るから・・・一番に食べて欲しかったんだもん・・・」
そして、照れ隠しに一口、チョコレートを舐める。
譲の反応がないので恐る恐る顔を上げれば、譲は右手で眼鏡を外して左手で目の辺りを拭っていた。
「なっ・・・なんで泣いてるの?!」
「先輩の成長ぶりに嬉し涙を禁じ得ません・・・」
「ん?どういう意味?」
譲は眼鏡を掛け直して椅子から立ち上がると、首を傾げる望美からボウルを取り上げてテーブルに置き、感極まったように強く抱き締める。
「ひゃ・・・譲くん、大げさだよ・・・」
望美が照れた声を上げても、譲は興奮したままだ。
「あんな可愛い事を言われて、大げさも何もありませんよ。」
「そ、そうかな・・・?」
珍しく攻めモードの譲に戸惑って、望美はその場を誤魔化すような事しか言えない。
構わず譲は望美を見つめてうっとりと囁く。
「俺の一番は、全部貴女のものですから、安心してください。」
「な、何言ってるんだか・・・」
初めて譲の口から出たと言ってもいい口説き文句らしきものにも、望美は微妙なツッコミを入れるのが精一杯だ。
もとより譲は、望美に普通の対応など、求めていない。
言葉など要らないとばかりに、激しく口付け始める。
「・・・ん・・・!」
翻弄されて、望美がくぐもった声を上げる。
流されないよう、譲の着ているトレーナーを握り締める。
息が。
譲の口付けが一方的すぎて、呼吸のタイミングが合わない。
「・・・は・・・」
苦しい。
それなのに。
先ほどスプーンを通して手に伝わってきた譲の舌の感触が、頭の片隅によみがえる。
「・・・せんぱ・・・い・・・」
口付けを続けながら、譲がうわごとのように囁く。
声が甘い。
息が荒い。
違う。
譲が、いつもと違う。
意識がどこか、違う場所に行ってしまっている。
どうしよう。
このまま譲に任せていたら、多分、その場所に連れて行かれてしまう。
怖い。
なのに、その場所に行ってみたいとも、思う。
だって。
気持ちいい。
譲が口付けを続けながら、耳たぶに触れてくる。
「・・・ん・・・」
快感で声が上がってしまう。
恥ずかしい。
でも、そんな思いもすぐに、次の快感が押し流す。
耳たぶに触れていた手が首筋に降りて、肩を伝い、胸を撫でた。
「・・・!」
唇を封じられて息を飲むことさえ許されないまま、望美は譲の所作に甘んじる。
どうしよう。
嫌じゃない。
譲がいったん唇を離し、唾を飲む。
ただそれだけの動作なのに、望美はただならない雰囲気を感じる。
始まってしまう。
再び望美に口付けてきた譲は、無遠慮に望美の胸をまさぐり始めた。
でも、このまま。
ああ、このまま。
二人の意識が、交わらないまま一致する。
突然、ゴホン、と咳払いが聞こえて、二人は抱き合ったまま飛び上がった。
振り返ると、望美の父親があからさまに不機嫌な顔で台所の入り口に立っていた。
快楽に火照っていた譲の顔から急速に血の気が引き、反対に望美は更に赤くなる。
望美の父親は、ゆっくりとした動作で冷蔵庫からペットボトルを出しながら、ぼそりと呟いた。
「いい加減、離れたらどうかな。」
譲と望美が飛び退くように離れて、青い顔と赤い顔を見合わせる。
バレンタインデーにロミオとジュリエット誕生なんて、笑えなすぎる。
ペットボトルの水をゴクゴクと飲んで、望美の父親が鼻からため息をついた。
「譲君も大人の真似事をするようになったか・・・」
残念そうな、軽蔑するような声音。
譲の背中を脂汗が伝う。
エッチモードにスイッチオンしたのを、バッチリ見られていたらしい。
パタン、と音を立てて冷蔵庫を閉めると、望美の父親は譲を見据えて言った。
「夜中にコソコソ上がり込んでこんな事をするような子じゃないと思っていたんだけど?」
「す、すみません。」
内心、膝から崩れ落ちそうになりながら、譲は神妙な顔で頭を下げる。
「パパ、違うの、私が譲くんを呼んで・・・」
「望美らしくないな・・・」
望美の言葉を遮るように言って、望美の父親は寂しそうな顔をすると、再び口を開く。
「・・・パパはショックです。」
望美の父親は、そう言うと台所を出て行ってしまった。
寝室のドアが閉まる音を聞いて、やっと望美が口を開く。
「ごめん、譲くん、私が呼び出したせいで・・・」
「いえ、おじさんの言う事はもっともですから。」
譲は動揺を隠して笑顔を作る。
譲が春日家に対してコツコツと積み上げてきた信頼は地に墜ちた。
ロミオとジュリエット誕生は免れたが、これから色々とやり難くなるのは簡単に予想できる。
とりあえず、春休みの合同レジャーは中止、あるいはそれとなく日帰りになるかどちらかだ。
「長居してもいけませんし、もう帰りますね。チョコレート、美味しかったです・・・おやすみなさい。」
譲はそれだけ言って、振り返らずに台所を出て行ってしまった。
望美は何も言えないまま、それを見送る。
譲の言うとおり、父親の言う事はもっともだ。
だが、父親が言うほど譲に悪気はなかった。
父親の寂しそうな顔がよみがえる。
振り返らずに出て行った譲の背中がよみがえる。
父親を傷つけた。
譲も傷つけた。
台所に降りる冷たい静けさの中で、望美が泣きそうになる。
だけど。
選ばなくてはいけない。
どちらを傷つけ続けるかを。
望美は呆然としたまま、そっと耳たぶに触れる。
自分で触っても、快感は得られない。




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