夢の日常生活 〜夜〜
新聞受けから鍵を取り出して玄関を開けると、懐かしい自宅の匂いが譲を包んだ。
やっと、帰ってきたのだ。
ガランとした感じに違和感を覚えたが、今まで大人数で生活してきたせいだろうと深く考えずに階段を上がった。
しかし、自分の部屋のドアを開けて譲は目を丸くした。
客間になっていたのだ。
慌てて2階の部屋のドアを全部開け放つ。
それらは全部、以前のままだった。
残るは一つ。
・・・まさか。
譲は、将臣の部屋のドアを勢いよく開けた。
そこには、自分の部屋にあった家具が、整然と収められていた。
家がガランとしているように感じたのは、将臣の気配が消えていたからだったのだ。
・・・ということは。
乱暴にカバンを放り投げると、窓に駆け寄りカーテンを開ける。
向かいの窓の中で、望美が脱いだスカートをハンガーにかけているところだった。
背伸びをする望美のブラウスの下から、パンティーが覗く。
「・・・っ!」
譲は3秒ほどそれをしっかり見てから、慌ててカーテンを閉めた。
粋だ。
白龍ってばそういう事に疎かったくせに粋な計らいをしてくれる。
しかし、これから先、お約束なドッキリハプニング満載の生活が続くのかと思うと、嬉しさと同時に不安がよぎる。
今ごろカーテンの向こうで望美がブラウスを脱ぎ始めていることが分かっているだけに、隙間から覗いてしまいたい欲求と戦うのも、ものすごく大変なのだ。
もともと、中学に入った将臣と部屋を分けることになった時、望美の部屋が見えない場所を希望したのは譲だった。
『いいのか?』
将臣は譲を哀れむように言った。
『兄さんが近くの方が、先輩も何かと便利だろ。中学生同士、仲良くやればいいじゃないか。』
嫉妬丸出しで譲が言い放つと、両親も、将臣も、悲しそうに黙ってしまった。
あの時、譲さえ希望すれば、この部屋は譲のものだった。
譲は怖かったのだ。
望美の部屋が見える場所で過ごす事が。
カーテンを開けるタイミングさえも、掴めそうになかった。
望美の部屋が気になって、落ち着いて過ごせそうになかった。
何よりも、望美の部屋を眺めたり覗いたりしたいという衝動に勝てそうになかった。
将臣を盾にして、結局、譲は望美から逃げていたのだ。
それでも将臣は、そんな譲に気を遣ってか、よく声をかけてきた。
『譲、望美がカーテン開けっぱで着替えてるぞ。』
その度に、譲はこれでもかと言うほど、将臣を叱り付けた。
だが、今考えれば、わざわざ譲に怒られに来なくても、一人で眺めればそれで済むことのはずだ。
譲ほどではないにしろ、将臣だって、望美のことを幼馴染以上に思っていたのだから。
あれは、将臣なりの、譲の想いに対する礼儀だったのだろう。
将臣を盾にして望美から逃げていたくせに、将臣に対しては嫉妬心から冷たく当たってきた自分。
それでも将臣は、黙って譲の盾となり、譲の想いを見守ってきたのだ。
・・・兄さんには、かなわないな。
苦い思いのままカーテンから手を離し、制服を脱ぐ。
ワイシャツのままGパンを履いていると、携帯電話が短く鳴った。
望美からメールだ。
そのアドレスと番号だけ、着信音が変えてあるのですぐ分かる。
もちろん、他の番号は全部、デフォルトの呼び出し音にしか設定していない。
『いま家に居る?』
『はい。台所に居ます。』
すぐに返事を打つと、譲は部屋を出て、開け放したままだったドアを閉めながら階下へ降りていった。
料理が上手か下手かは、慣れが重要だ。
蓄積された経験と技があれば、たいてい応用が利くようになる。
譲が料理上手なのは、もともと凝り性だったのと、理科や家庭科で得た知識を駆使しているせいもあるが、何より両親が共働きで、特にキャリア組の母親の帰りが遅いことに理由があった。
何でもできる将臣が、唯一面倒くさがった夕食当番。
その役を買って出るうち、譲は料理の面白さにハマっていた。
だが、譲が夕食当番を買って出たのは決して将臣に対する優しさからではない。
学級委員、運動会の一等、劇の主役から卒業式の答辞まで。
1年前に将臣が同じ事をしているというだけで、どんなにそれが優秀でも、譲は誰にも褒めてもらえなかった。
幼い頃の譲は、誰かに褒められたい一心から、将臣がしない事ばかりを選んでするようになっていたのだ。
もともと将臣はコツコツと地道な作業を繰り返すタイプの努力が嫌いだ。
料理、ガーデニング、そして中学以降の勉強。
譲は将臣を出し抜こうとするうちに、いつの間にかそれらを極めてしまっていた。
そんな醜い感情から生まれた特技が、結果的にあちらの世界で望美を喜ばせることになったのは、譲にとって偶然と言う他ない。
新聞受けからゴソゴソと鍵を取り出す音がする。
炊飯器をセットし終わって冷蔵庫から挽肉や野菜を出していた譲は、紅茶の缶を取り出した。
望美の用件は、だいたい想像できる。
望美は、台所に入ってくるなり切羽詰った声で言った。
「譲くん、将臣くんが居なかったことになってるみたいなの。」
譲は紅茶の茶葉をティーポットに入れながら、落ち着いた声で答えた。
「そうみたいですね。」
「・・・そうみたいって・・・」
望美が語尾に怒りをにじませたのを感じ取って、譲も苛立ちを覚える。
あんなに兄へ冷たく当たってきた自分に、今さら兄の不在を嘆けと言うのか。
「兄さんの部屋が俺の部屋に変わってました。」
ヤカンのお湯をティーポットに入れると、ダイニングテーブルの上に置く。
それに促されるように、望美が椅子に座りながら言った。
「え?!じゃあ、将臣くんの物は何も?」
「はい。なくなっていました。」
「・・・ってことは・・・おじさんとおばさんも・・・」
望美がみるみる青ざめていく。
「まだ帰って来ないと分かりませんが、多分、兄さんの記憶は・・・」
「・・・そんな・・・」
望美がテーブルに肘を付いて顔を覆った。
譲はティーカップに紅茶を注ぎながら、落ち着いた声で言った。
「帰って来ない兄さんを無駄に探し回るよりは、記憶を消されている方がいいと思いますよ。」
「でも・・・私のせいで・・・」
望美の涙声を聞いて、譲はティーポットを置くと、奥歯を噛み締める。
・・・どこまで先輩を苦しめれば気が済むんだ。
半年も行方不明のままで。
八葉の勤めもろくに果たさないで。
そうかと思えば敵として現れて。
全てが終わって戻ってきた今も。
・・・もうたくさんだ。
将臣の事で望美が自分を責めているのをこれ以上見たくない。
「先輩のせいじゃないですよ。兄さんが選んだことですから。」
必死で本心を隠して紡ぎ出した言葉は、ため息混じりになってしまった。
望美が涙に濡れた顔を上げる。
「・・・譲くんはそれでいいの?」
「俺は・・・兄さんが・・・居ない方が・・・」
途切れ途切れに言いながら、ワイシャツの袖を捲る。
「・・・嘘・・・」
望美から向けれらる悲しげな視線に耐えられず、譲はテーブルの上に畳んであったエプロンを広げると、望美に背を向けてそれを着けながら言った。
「嘘じゃないですよ・・・俺は、ずっと兄さんのことを疎ましく思ってましたから・・・兄さんが居なくなれば先輩を独り占めできるって・・・」
望美が息を飲む音が聞こえた。
軽蔑されるだろうか。
嫌われてしまうだろうか。
だが、それが真実だ。
譲は、苦い思いを抱えたまま玉葱の皮をむき始めた。
「・・・先輩は、どうして俺なんかを・・・?」
「え?」
「分かってるんです。兄さんには、俺なんかがどう頑張っても手に入れられない人徳がある。九郎さんもヒノエも・・・他の皆の方が、俺なんかより先輩を幸せにできる地位や能力を持っていた。先輩に相応しい男は俺なんかじゃないって、とっくに分かってるんです。」
「・・・譲くんは?」
「え・・・?」
「譲くんは今、幸せ?」
「いや、俺のことは・・・別に・・・どうでも・・・」
皮をむき終わった玉葱を包丁で半分に切りながら、譲はしどろもどろになった。
なぜ望美はそんな事を自分に問うのか。
確かに今はこの上ないほど幸せだ。
正直言えば、どんなずるい手を使ってでも、望美を失いたくなどない。
だからこそ知りたいのだ。
人徳も地位も財産もない自分を、ただ嫉妬深いだけの自分を、なぜ望美が選んだのか。
自分の中の何を望美は求めているのか。
「あのね、私は、誰かに幸せにしてもらいたいんじゃなくて、一緒に幸せになりたいの。だから、私を幸せにしてくれるだけじゃなくて、私にも幸せにしてあげられる人がいいの。」
いつの間にか譲の隣に来ていた望美が、まくし立てる様に言って譲の顔を覗き込む。
「・・・は、はい。」
譲が気圧されて頷いたのを見て、望美は不安そうな顔になった。
「だから、私にとって大切なのは、譲くんが幸せかどうかなの・・・そういうのって、迷惑?」
譲は力いっぱい首を振って叫ぶように言った。
「いいえ!そんなことないです!俺は今、信じられないくらい幸せです!」
それを見て、望美がぷっと吹き出した。
「なんかさ、何度も似たようなこと言い合ってない?私たち。」
「・・・そうですね・・・すみません・・・俺、信じられなくて・・・」
譲も苦笑を浮かべると、玉葱の微塵切りを始めた。
「何を?」
「・・・先輩が俺のこと・・・その・・・幸せすぎて・・・だから・・・どうしたらいいのか・・・」
あざやかな手つきで玉葱に切れ目を入れながら、譲が頬を染める。
照れてしまって、意味が通じるように話せていない。
だが、望美も譲の雰囲気から言いたいことを感じ取って、頬を染めると、小さな声で言った。
「どうもしなくていいよ。譲くんにそんな風に思ってもらえるだけで、私も幸せだから。」
「・・・はい・・・」
温度の高い沈黙が流れる。
望美はしばらく譲の手もとを見ていたが、甘い雰囲気に耐えられなくなり、ことさらに明るい声を出した。
「え〜っと・・・今日のメニューは何かな?」
そう言うと、挽肉のパックを開け始める。
「つまみ食いはだめですよ。」
譲が手を動かしながら微笑む。
望美が手を止めて憮然とした。
「いくらなんでも、生肉は食べないよ。手伝おうと思っただけ。」
譲がはっとして顔を上げる。
「あ・・・すみません。よく兄さんが生の挽肉をつまみ食いしてたから。」
「ええっ?」
「ユッケと一緒だろって・・・加熱を前提に売ってる物なんだから、ユッケとは新鮮さが違うって言っても聞かなくて・・・まったく・・・兄さんの胃腸は強靭だから、どこに行っても元気にやっていけると思いますよ。」
懐かしそうに言って、譲は再び玉葱を刻み始めた。
どんなに鬱陶しくても、いや、鬱陶しかったからこそ、将臣の残していった記憶は色濃い。
「ああ、でも兄さんはエビで蕁麻疹が出たことがあるから、シーフードには気をつけないと・・・南の方はエビがよく獲れるからな・・・」
玉葱を刻みながら、譲は呟くように言った。
追いつこう追い越そうと睨み続けてきた背中。
追い越すチャンスは永遠に失われたまま、もう会うこともない。
「あっそうだ・・・いけない・・・ご飯を4合も・・・3人じゃ食べきれない・・・」
呟きが少しずつ掠れていくのを聞いて、望美が気遣うような声をかけた。
「・・・譲くん・・・」
譲が懸命に笑顔を作ろうと顔を歪める。
「この挽肉も・・・兄さんのリクエストで買ってあったんです・・・久しぶりにハンバーグ食いたいって・・・兄さん、ハンバーグ好きだったからな・・・こんなことになるなら・・・あっちで一度ぐらい食べさせてやればよかった・・・」
ぽろり、と譲の瞳から涙が零れ落ちた。
『泣き虫ゆずる!』
幼い将臣の声が蘇る。
『目にゴミが・・・っ』
「玉葱が・・・っ」
あの頃と同じ、情けない言い訳。
『ウソつくなよバーカ!』
そう言って笑う将臣の隣で、望美はハンカチを取り出して一生懸命に譲の涙を拭ってくれた。
『ゆずるくん、だいじょうぶ?』
瞳を潤ませた望美が、あの頃と同じようにハンカチを取り出して譲の涙を拭う。
違うのは、笑う将臣が居ないだけ。
泣き顔を見られたくない譲が顔を背けた。
「・・・先輩・・・平気ですから・・・」
「だめだよ。はい、屈んで?」
こんな時だけ、望美はお姉さんぶる。
仕方なく譲が屈んで目を閉じると、望美は眼鏡を外して譲の涙を拭き取り、少し躊躇ってから、その頬に口付けた。
ハンカチとは別の柔らかい感触に、譲が目を見開く。
そのままみるみる赤くなっていく譲の顔に、望美はぎこちなく眼鏡をかけると、そそくさと背を向けてテーブルについた。
「将臣くんの分、私が食べてってもいい?」
そう言うと、望美は冷めてしまった紅茶を一口飲んで、恥ずかしそうに微笑んだ。
「あら、今日のお味噌汁は美味しいわね。」
譲の母が味噌汁を一口飲んで目を丸くした。
「ん?そうか?」
そう言って、譲の父も味噌汁を啜る。
「今日はだしの素を入れる前にカツオ節でだしを取ってみたんだよ。」
「そうか・・・あっちにはだしの素なかったもんね。」
望美が口を挟む。
「はい。」
「大変だったでしょ?」
「いえ、皆に美味しいって言ってもらえれば俺は・・・」
・・・あっち?
譲の両親は首を傾げたが、譲の表情を見て、そんな疑問は追いやられてしまった。
譲は昔から望美に対して緊張しすぎだった。
誰よりも望美を想っているのは、視線や表情で明らかなのに。
つい最近まで、自然に接することなど出来なかったはずだ。
その息子が、こんなに落ち着き払って望美に微笑みかけている。
よく見ると、いつの間にか顔つきも男らしくなっている。
これは。
これはもしや。
譲の父はたまらなくなって口を開いた。
「譲、もう望美ちゃんとチューはしたのか?」
「・・・げほっ、げほげほっ!」
味噌汁を啜っていた譲がむせる。
「もう、お父さんは唐突過ぎるのよ。」
言いながら譲の母は立ち上がり、コップに水を汲むと譲に差し出した。
望美が譲の背中をさすりながら、頬を染めて口を開く。
「おじさんってば、気が早いよ・・・まだホッペだけだよね、譲くん?」
「・・・げほげほっ!」
水を飲んでいた譲が再びむせる。
「うんうん、そうか・・・」
譲の父は、感激のあまり瞳を潤ませて頷いた。
健気な息子が耐え忍んで来た長い年月を思うと、涙を禁じ得ない。
「先輩っ、そんなこと言わなくていいんです!」
やっと落ち着いた譲が真っ赤になって望美を叱り付けるが、望美はキョトンとしている。
「え?何かまずいこと言った?秘密の関係にしたかったの?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど・・・」
二人のやり取りを聞きながら、譲の母はこっそりと涙を拭った。
望美の鈍感は健在のようだが、譲が幸せならそれでいい。
譲の両親はすぐにでも立ち上がって万歳三唱したい気持ちを押し留め、潤んだ瞳で微笑みあった。
次の日曜日、譲の母は、腕によりをかけて赤飯を炊いたのだった。