夢の七夕祭り
朝、いつものように時間ギリギリで家の門を出てきた望美は、ふいに有川家の玄関を振り向いた。
「そう言えば、今年は七夕飾り作らなかったんだね。」
言いながら、早足で歩き出す。
譲もそれに歩調を合わせて、大股で歩き出しながら答える。
「言われてみれば・・・そうですね。」
半分上の空で言って、譲は時計を見た。
1分37秒の遅れ。
望美のタイムキーパーを勝手に請け負っている譲にとって、今の最優先事項は駅までダッシュする距離を決める事だ。
・・・高橋の家の辺りから走れば余裕だな。
既に計測してある望美のダッシュ速度と脳内駅前マップを照合しながら、譲は何気なく言葉を継いだ。
「毎年、兄さんが言い出すから、すっかり忘れていました。どこかの竹林・・・私有地でしょうけど・・・そこから竹を勝手に切り出してきて『七夕やろうぜ』って持ってくるんですよ。」
「・・・あ・・・そうだったね・・・」
沈んだ望美の声を聞いて初めて、譲はやっと、兄の話には気遣いが必要だった事を思い出す。
隣を見ると、望美は早足で歩きながらも、沈んだ顔で地面を見つめていた。
朝っぱらから暗いムードに突入だ。
譲は少しでも雰囲気を変えようと、思い出話に花を咲かせる方向に舵を切る。
「でも、兄さんは花火がしたいだけだったんじゃないかと思うんです。飾り付けは全部俺たちにやらせて、兄さんが参加するのは短冊を燃やす時の花火だけだったでしょう?」
「・・・そうかもね。」
望美が顔を上げて薄く笑う。
その表情に未だ陰りがあるのを見て取ると、譲は制服のズボンで掌を拭ってから手を差し出した。
「さあ、急ぎましょう。遅刻してしまいますよ。」
「え・・・」
望美が立ち止まり、目を丸くして譲の手を見つめる。
譲の方から、こんな風に手を繋ごうとするなんて、皆無に等しいのだ。
「あ、えっと・・・とにかく、行きましょう。」
望美の反応を見て、譲は慌てて手を引っ込めると、速度を上げて歩き出す。
望美もやっと我に返って、やはり慌てて譲に追いつくと、少し考えてから、譲の腕に縋りついた。
「なっ・・・」
夏服のブラウス一枚の胸がフニと押し付けられて、譲が飛び上がらんばかりに驚く。
むしろ数センチ飛び上がったかも知れない。
「・・・ありがと・・・」
望美が俯いたまま、呟くように言った。
「・・・い、いえ・・・俺は何も・・・」
言いながら、譲は望美に抱き締められた腕を引き抜こうとする。
朝っぱらからこんな事されたら、妄想がヤバいことになって授業に集中できない。
けれど、望美は離さない。
「・・・・・・」
仕方なく、譲は望美をぶら下げたまま歩き出した。
望美もフニフニしながら付いて来る。
譲はもう一度、時計を見ると、その体勢のまま早足で歩き出した。
望美も激しくフニフニしながら付いて来る。
もちろん嬉しいけど、ここまで触りまくったら貰い事故とかいう言い訳も通用しない感じだ。
・・・それ以前に、先輩は何も感じないのか?
到底口に出せない質問を心で呟きながら、譲は前方を見た。
高橋の家のガレージが見えてきた。
あの場所に着いたら。
この腕を解いて、ダッシュしなければいけない。
ダッシュしなければ。
庭の片隅で、譲はライターを点火して、ろうそくに火を灯した。
行きつけの花屋で買った、売れ残りの小さな竹の枝。
昨年の余りの折り紙で作った、ほんの数枚の、短冊と七夕飾り。
有り合わせのもので作ってみたけれど、竹の枝が小さすぎて、とてもアンバランスだった。
将臣は、一体どこからあんな大きな竹を、たった独りで切り出していたのだろうか。
一体、どんな思いで。
「私も、入れて。」
隣の庭から声がして、望美が走って来る足音がした。
門を開けると、望美はやはり譲と同じ小さな竹の枝と、コンビニの袋を持っていた。
「七夕、やろう。」
そう言って、望美が袋の中身を譲に見せる。
中には花火が入っていた。
「今朝はごめんね、皆勤賞のシャーペン、貰えなくなっちゃったね。」
庭へと敷石を歩きながら、望美は残念そうに言った。
結局、譲は欲望に抗えず、高校生活2年目にして初の遅刻をするに至ったのだ。
「いえ、俺がもっと速く歩けば良かったんです。」
譲が晴れやかな表情で答える。
後悔はしていない。
シャーペンも、皆勤賞の名誉も、フニフニに比べたら何の価値もないのだ。
所詮、職員室がその場のノリで設けたような安い褒賞制度。
あの幸福に太刀打ちできる訳がない。
ろうそくが灯っている場所に着くと、望美は自分の竹の枝に付いていた短冊を外し始めた。
飾りはなく、コピー用紙の短冊が三枚付いているだけの、譲以上に急ごしらえの七夕飾り。
譲が作ったアンバランスな七夕飾りに、その急ごしらえの短冊を飾り付ける。
「何をお願いしたんですか?」
飾り付けている望美の横顔を眺めながら、譲は例年と同じく、望美の願いを探った。
「えへへ、秘密。」
望美も例年と同じくそう言って、可愛らしく舌を出す。
そう言いながらも、望美は短冊を隠そうとしない。
譲はそんな望美に悪戯っぽい笑みを向けてから、飾り付けられた短冊を手に取った。
「あっ、見ちゃダメだよ!」
冗談めかして隠そうとする望美の手から逃れるように、家からの薄い明かりにかざす。
『腕が細くなりますように』
女性らしい願いに、笑みが零れた。
昨年までは、こんな風に堂々と願いを見たりできなかった。
短冊を燃やす段になってから、こっそりと見たりしたものだ。
望美の願いに恋の片鱗があるかどうかが、知りたくて。
望美はと言えば、無邪気なもので、譲や将臣に訊かれて困るような願いを短冊に書いたことなど、一度もない。
譲は毎年、全てが終わった後に、隠しておいた短冊を人知れず燃やしていたというのに。
そんな事を思いながら、2枚目の短冊を手に取る。
『譲くんと、ずっと一緒にいられますように』
突然、自分の名前が出てきて、心臓が跳ねる。
息を飲んで振り返ると、望美は譲に背を向けて、コンビニの袋から花火を出していた。
まだ短冊を燃やしてもいないのに、望美の行動にしては早すぎる。
照れ隠し。
じわりと甘い思いが込み上げる。
声を掛けるのもはばかられて、譲は3枚目の短冊を手に取った。
『白龍の世界の皆と、将臣くんが、幸せで居られますように』
甘い思いと、静かな喜びが込み上げる。
「先輩。」
呼ぶと、手持ち無沙汰らしく地面に花火を並べたりしていた望美が肩をビクリと震わせてから振り向いた。
「・・・なに?」
ろうそくの灯りでも分かるほど顔を赤くした望美に、2枚の短冊を指し示す。
照れくさそうにしていた望美が、目を丸くして立ち上がる。
譲が示している短冊は、折り紙の裏に書かれた、譲の願いだ。
首を傾げながらそれを見て、望美が顔を綻ばせる。
『先輩を、一生守り通すことができますように。』
『兄さんや白龍達が健康で幸福な生活を送って居ますように。』
ほとんど同じ、二人の願い。
照れた顔を見合わせて。
望美が、瞳を閉じる。
家の中から両親が覗いていないのを確認してから、譲は望美に唇を寄せた。
いつもより長く触れてから唇を離すと、望美はやはり照れくさそうに竹の枝に向き直る。
「譲くんは、他に何をお願いしたの?」
そう言って、小さな枝を掻き分ける。
「あっ!」
譲は大声を上げると、慌てて3つ目の短冊を引き千切った。
「そういう風にされると気になるじゃない。」
望美が小さく膨れて譲の手から短冊を奪おうとする。
「駄目ですっ!」
譲はそう言うと、望美に背中を向けてポケットからライターを出し、即座に火をつけた。
「熱っ!」
短冊が勢い良く燃え上がり、炎が短冊を昇ってきて、譲が思わず手を離す。
短冊だったものは、灰になりながら地面に落ちた。
「もう、火傷したらどうするのよ?」
望美が呆れた声を出して。
「すみません・・・」
譲がしゅんとする。
ロマンチックなムードは台無しだ。
でも、短冊を見られたらもっと大事なものが台無しになるので、それは良しとする。
「どうせエッチな事なんでしょ・・・?」
望美がため息混じりに呟く。
守り通したはずの大事なものは、もうずっと前に台無しになっているらしかった。
短冊を燃やした後のろうそくで、花火に火をつける。
確か、幼稚園の頃。
スミレお祖母さまに教えてもらって、将臣と3人で始めた、七夕祭り。
短冊を燃やした後に花火をするのは、スミレお祖母さまが考え付いた事だった。
それから、なんとなく、七夕がその夏の花火の解禁日のようになって。
譲たちは毎年、七夕を指折り数えるようになっていた。
小学校高学年になってからだろうか、短冊を燃やしている家が少ないと知った頃にはもう、お祖母さまはこの世には居なくて。
どうして自分たちの七夕だけ、普通と違うんだろうと思いつつ。
それでも、将臣はどこからか竹を切り出してきて。
譲と望美はせっせと飾りを作って竹を飾り立て。
高校生になっても七夕の日には必ず、3人で、花火をした。
「ねえ、譲くん、ロケット花火ごっこしない?」
残り少なくなった花火を並べ替えながら、望美は呟くように言った。
「ロケット花火ごっこ・・・ですか?」
譲は記憶を探りながら、首を傾げた。
そんなゴッコがあっただろうか。
「うん。」
望美が恥ずかしそうに頷く。
その様子を見て、譲にブレイクスルーが起こる。
・・・まさか、俺のロケット花火を先輩に打ち込むという非常に危険な遊びでは・・・!
「そっ・・・それはどんなゴッコ遊びなんでしょうか・・・!ぜひ先輩の口から詳しく教えて欲しいです・・・っ!」
興奮気味に尋ねる譲に、望美はやはり照れながら言った。
「ほら・・・分かんない?ロケット花火に火をつけて、お互いにピューッ、バーンって。」
説明しながら、望美はピュー、バーンと指先を譲の胸に食い込ませる。
オウ、と撃たれたガイジン風に心の中でリアクションしてから、譲は慎重に訊いた。
「・・・俺が?」
「うん、私に。」
とたん、譲がガバッと望美の肩をつかむ。
「先輩、それがどんなに痛いことか分かってますか?!」
「う、うん、まあ。」
譲の勢いに、望美が少し怯えつつ頷いた。
「子供がやってはいけない遊びだって分かってますか?」
「うん、分かってる。」
「当然ですけど俺は初めてですよ?」
「えっ?いつも、将臣くんとやってたじゃない。」
「は?」
やっとのことで譲が誤解に気付く。
・・・あれか・・・!
将臣は、いつの頃からか、七夕には必ずと言っていいほどロケット花火を隠し持つようになっていた。
譲が望美と二人で線香花火などしてイイ雰囲気になっていると、決まってロケット花火が飛んでくる。
『危ないじゃないか、兄さん!』
望美を守るヒーロー気取りで譲が立ち上がると、将臣はニヤニヤしながら持っているロケット花火を半分投げて寄越す。
ご近所の迷惑という考えも頭を掠めるが、譲もそれを拾わない訳にはいかない。
宣戦布告。
望美を懸けて戦うという、暗黙の了解。
何せ、ロケット花火に当たったら望美の前で情けない悲鳴を上げる破目になるのだ。
必死で避け、真剣に狙って打つ。
譲にとっては、ちっとも楽しい思い出じゃないので、ゴッコなどと言われてもピンと来なかった。
「駄目です。全く・・・どうして先輩が、あんな危ない事をやりたがるんですか。」
呆れて言うと、望美はまた照れくさそうに目を伏せて言った。
「だって・・・カッコいいんだもん。」
「え・・・?」
譲が間抜けな顔をする。
「毎年、遠くに避難しながら見てて、いつも、ドキドキしてた。あの頃は、仲良くて羨ましいなとか、そんな風にしか思ってなかったけど、今なら分かるよ。私、ロケット花火ごっこしてる二人が、好きだった。」
そう言って、望美は地面に並べられた残り少ない線香花火に火を点ける。
嬉しさ半分、悔しさ半分。
自覚はしていなかったらしいが、あの頃から、望美は自分と将臣を、男として見ていたという事になる。
男として見てくれていたのは、嬉しいけれど。
将臣も同じように見ていたという事実が、悔しい。
望美が線香花火を見つめながら、続ける。
「将臣くんはね、すごく動作が速いの。ライター擦るのも速くて、導火線に火を点けるのも一瞬で、連続で何個も打つんだよ。でも、いつも余裕の笑みなんだよね。」
譲も思い出す。
あの連続攻撃は、かなり手強くて。
必死で避ける譲を、嘲笑うかの笑顔で。
とても、悔しかった。
苦い顔で譲が線香花火を一つとって点火すると、望美は再び話し始めた。
「譲くんはね、一つ一つ、しっかり狙うの。」
望美の線香花火の芯が、突然、落ちる。
構わずに、望美は次の線香花火を取って火を点けて、更に続ける。
「将臣くんが花火を全部打っちゃった後も、まだいっぱい残ってて、そこから戦いは一方的になっちゃうの。弓道を始めてからは、花火を矢みたいに持って狙いを定めて・・・」
言いながら、望美は譲の線香花火に自分の線香花火を近づける。
「・・・導火線の火花が眼鏡に映って、その奥の瞳が、すごく真剣で真っ直ぐで・・・私、あの頃から、譲くんの真剣な瞳が、好きだった。」
二つの線香花火が触れ合って、一つになって、大きな松の葉を散らした。
花火から望美に視線を移すと、望美の大きな瞳と目が合って。
「そうやって、真剣な目で私を見つめてくれるのが・・・今も、すごく好きだよ。」
そう言った、望美の顔が、ふいに近づいて。
唇を塞がれると同時に、二つ分の線香花火の芯が落ちて。
譲は、身体中の血が沸騰する音を、聞いた気がした。