織姫の花園


『天の川、今年も見えないね。』
携帯電話から響く望美の声は、心なしか沈んでいた。
昨年に引き続き、今年の七夕も鎌倉は曇り空だ。
「そうですね・・・」
譲は丁寧に屋根の上の夜空を確認してから、再び窓の向こうの望美に視線を戻した。
「・・・雲の切れ間でもあれば良いんですけど。」
『うん・・・でも、もうすぐ日付が変わっちゃう。』
ベランダの手摺りに肘をついて懸命に空を見上げているが、望美の声は諦めの色を含んでいる。
「ええ。会えそうにないですね。」
『うん。今年も会えないね・・・』
譲の言葉に応える望美の表情は、遠目から見ても儚げだった。
受験生でありインターハイを控えている譲と、高校生並に埋まった看護学校の時間割に加えてアルバイトをこなす望美は、それこそ土日の僅かな時間に会うことすら難しい。
想いが通じて貪欲になったとは言え未だに独り上手な譲に比べ、望美には譲の顔を見られない毎日が相当こたえているらしい。
こんな風に時々、アルバイトから帰った夜遅くに、遠慮がちな着信があって。
窓越しに顔を見ながら、とりとめもない話をする。
『短冊、燃やした?』
「はい、夕飯の後に・・・そうだ、先輩の分も預かって一緒に燃やせば良かったですね。」
『ダメだよ。私のお願いがバレちゃう。』
お互いの微かな笑い声が、お互いの携帯電話へ柔らかく伝わった。
「腕が細くなるように、でしょう?」
譲が笑い交じりの声で、望美をからかう。
『もう・・・!』
くるりと怒った顔になった望美だったが、クスクスと笑う譲を見て、急に泣きそうな顔をした。
それを見た譲が、驚いて笑いを収める。
望美は慌てて泣きそうな顔を無理に笑顔にしようと顔を歪めた。
だが、それにも失敗して俯く。
「先輩・・・?」
『会いたい・・・』
焦った譲が声を掛けたのと、望美が掠れた声で呟いたのは、ほとんど同時だった。
「え?」
よく聞こえなかった譲が聞き返すと、望美は顔を上げて、泣き笑いのような表情で言った。
『今なら私・・・譲くんに会いたいって、短冊に書くよ。』
譲が息を飲む。
望美が、そんなにも自分と会いたがってくれていたなんて。
譲は胸に染み入るような喜びに震えながら、速攻で自分に可能なプランを打ち出す。
今夜はもう遅い。
望美を外に出すわけにはいかないし、望美の父親に睨まれている譲はバレンタインデーと同じ轍を踏むわけにいかない。
「明日は土曜で部活も早めに終わります。その後で良ければ、一緒に平塚の七夕祭りに行きませんか。」
望美は再び俯くと首を振った。
『バイト・・・』
悲しそうな声に、譲も必死で畳み掛ける。
「じゃあ、日曜の夜。」
『うん・・・でも、今も会いたい・・・』
「え・・・」
けれど、譲が上げた戸惑いの声は、微かに浮き立っていた。
こんな可愛い無理難題なら、叶えることこそ本望。
『七夕の夜だもの。会いたいよ・・・』
その脈略の無さも、可愛すぎて。
何としても叶えてあげたくなる、残酷なワガママ。
「もちろん、俺も会いたいですけど・・・」
『じゃあ、会いに来て・・・キスしてよ・・・』
ベランダの手摺りに額を付けるようにして俯いたまま、望美は半ば自棄になって呟いている。
それが電話口なのだとしても、耳もとでキスしてなんて言われて奮い立たない男は居ない。
譲なんて勇気どころか下心から下半身から漏れなく奮い立ってしまいそうになった。
「・・・分かりました。」
決意がたっぷり籠もった譲の声に、望美が驚いて顔を上げる。
『ご、ごめん、言ってみただけなの、ただのワガママだって、譲くんも・・・』
望美の慌てた声が聞こえてくる携帯電話を、譲はいきなり切った。
窓の向こうで望美がギョッとする。
それを視界の隅に捉えながら、譲は携帯電話を机に置いて、大股で部屋を出た。



もともと譲は身軽な方ではない。
身体も大きい上、心身共に瞬発力に欠けていると言うべきか、毎度トップクラスな他の能力に比べて飛んだり跳ねたり系の競技成績は中の上程度。
そんな譲が、無謀にも望美の部屋のベランダへ忍び込もうとしていた。
ヒノエとはワケが違うのだ。
譲の場合は、腕力のみに頼らざるを得ない。
有川家と春日家を仕切る柵を腕力のみで乗り越え、望美の部屋のベランダに一番近い木を腕力のみで登り切る。
自責の念に瞳を潤ませて望美が見守る中、最後にそっとベランダの手摺りへ飛び移ったつもりが、ドスンと体重相応の音がした。
バレたか、と一瞬固まった譲だったが、とにかく手摺りを乗り越えて、息を切らせながらベランダへ降り立つ。
「ワガママ言って、ごめんね・・・」
部屋着のTシャツとハーフパンツが木屑にまみれているのも気にせずに、望美は感極まったように譲へ強く抱き付いてきた。
春日家の庭に潜んで望美の居るベランダを見上げた時からロミオになりきっていた譲のロマンチック脳も、感極まれりと望美を掻き抱いて。
「・・・キスしに・・・来ました・・・」
まだ息を切らせたまま、譲はそう言うなり望美の唇を貪った。
望美の方も、自分からキスしてと言っただけあって積極的だ。
今まで譲がしてきた所作を真似しているらしく、ぷるぷるの柔らかい唇で舌を吸われ、下唇を啄まれ、譲はその度にゾクゾクと襲う快感に身を任せた。
未だ息が整わず、苦しくなって唇を離しても、望美が首にぶら下がる勢いで追いかけてくる。
すっごいコレ。
マジやっばい。
酸欠のせいか快楽のせいか朦朧としてきた頃、望美がハッとして部屋の方を振り返った。
フラフラの譲をベランダの端へ追いやって、慌てて部屋の中へ入っていく。
「望美?起きてる?」
部屋の中から望美の母親の声がして、譲は身を固くした。
望美が譲を追いやった場所は、カーテンの陰なので部屋からは見えない。
下手に動かない方が得策と、瞬時に判断する。
「ど、どうかした?」
部屋の中では、望美が上ずった声でとぼけていた。
「すごい音がしたけど?」
やっぱり譲の着地がバレていたらしい。
二人にとっては永遠のようだった濃厚キスも、どうやら望美の母親が階段を上ってくる程度の短い時間だったようだ。
「う、うん、譲くんが・・・えっ・・・と・・・電話してたら転んじゃって。」
「はあ?」
そう、ジュリエットは嘘が下手なのだ。
ロミオ大ピーンチ。
「・・・っ・・・えっと、だから、譲くんとベランダで電話してたら、転んじゃったの!」
「ああ、そういうことね・・・もう、気を付けなさいよ。」
望美の急ごしらえな嘘は説得力がイマイチだったが、そこは望美の母親だ。
電話している状態からどうやって転ぶのかという疑問には行き当たらなかったらしい。
「はーい。」
軽い望美の返事とともに、ドアの閉まる音がした。
ドアの向こうの様子を伺っているらしい沈黙の後で、やっと望美がベランダに顔を出す。
「びっくりしたあ・・・」
あの親にしてこの子あり、望美は完璧にやり過ごしたという風に胸を撫で下ろした。
この様子ではいくつ命があっても足りないと判断したロミオは、早々にこの場を去ることにする。
「じゃあ俺、そろそろ帰ります。」
望美の願いも叶えたし、今夜のオカズもゾクゾクするほど頂いたので、長居する理由もあまりない。
だが、思った以上に望美は悲痛な声を上げて残念がった。
「ええっ? いま来たばっかりなのに・・・せっかく来てくれたんだし、もう少しゆっくりしていきなよ。」
お中元を届けに来た人を引き止めているみたいだな、と思いつつ、譲は望美に腕を引かれて窓際まで歩み寄る。
そういえば、前に望美の部屋に入ったのは、小学生の時だ。
思春期を迎えて以降の望美の部屋は、男が足を踏み入れてはいけない秘密の花園と自分で勝手に決定したので、自分の部屋から遠く眺めることはあっても、こんなに近くで覗いたことはない。
ふと見たローテーブルの上には、小さな観葉植物。
その下にはピンクの丸い座布団が可愛らしく敷かれている。
望美らしく、すっきりと甘すぎない色遣いの家具が並んでいるのに、そこは確かに女の子の部屋だ。
「散らかってるけど、良かったら入って?」
望美は言いながら、ローテーブルの上のレポート用紙を片付け始めた。
入ってと言われても。
もちろん、譲だって望美の部屋には、入ってみたい。
だが、ピンクの座布団に正座した自分を想像するだけで、むず痒いような恥ずかしさに耐えられなくなる。
まさに、花園の中央に座らされて天使に花冠を載せられてしまうような照れ臭い感覚だ。
まして最近の自分たちが二人きりになったら、することは一つ。
今夜の積極的な望美と花園でお触りしたら、何かもう、色々耐えられないことになりそうな予感がする。
まあでも、ちょっとだけ、そんな耐えられない感じをひと夏の経験しちゃいたい気もするけど。
思わず望美のベッドへ視線を移せば、もう寝るばかりというように広げられた肌掛け布団が生々しい。
「譲くん?」
呼ばれてやっと、譲は我に返った。
望美が無邪気な瞳で自分を覗き込んでいる。
「・・・やっぱり俺、帰ります。」
「どうして?!」
「こんな時間に、ご両親に黙って先輩の部屋に入るなんて、やっぱり良くないですから。」
「そんな・・・」
寂しがる子猫のように訴えかけてくる望美の瞳が見ていられず、譲は思わず視線を逸らした。
同時に、きゅ、とTシャツの裾をつかまれる感覚。
「・・・ううん、良くなくても、いいんだよ。今日は七夕だもの。」
驚いて見れば、望美の瞳は子猫から虎に急成長し、強い光を放っていた。
また始まった。
七夕娘の、可愛いワガママ。
「私、悪い子になるの。パパとママに嘘ついても、譲くんとこうしてたいの。」
言いながら、望美は譲の居るベランダへ上がり、譲にぎゅっと抱き付いた。
感激のあまり、譲の脳内にいつかCMで見たタイタニックのテーマが流れる。
つい最近まで幼馴染み以上恋人未満から抜け出せない感じだったのに、いきなり家族以上夫未満に格上げだ。
しかも七夕どころかロミジュリ感まで最高潮に盛り上がる情熱的な台詞を聞いてしまった。
そんなロマンチック脳でタイタニック祭りな譲を、戦女神は更に攻め立てる。
「だから・・・ね、もう一回、キスして?」
囁くような声で言われて、譲はメロメロ状態で望美の唇を目指し、腰を屈めた。
すぐに望美に首を引っ張られて、七夕モードのキスを堪能する。
舌を絡め合ったり、吸い合ったり。
ただ自分の拙いテクをそのまま返されているだけなはずなのに、いつもの一方的なキスとは違って、そう、すごく淫らだ。
キスだけではない。
望美が譲の頭を引き寄せようと頑張るせいで、身体がいつもより密着している。
柔らかい胸が、鳩尾をイイ感じに圧迫して、ある意味心臓マッサージ。
いつものお触りの時だって、思わず反応しちゃう身体を必死で隠してるっていうのに、こんな腰が砕けそうな悪さをされて譲の彦星が良い子にしてる訳がない。
辛うじて、緩めのハーフパンツであることとTシャツの裾が外に出ていることが救いだが、もう既に彦星はかなりの熱を持っている。
譲はそれとなく腰を引きながら、キスを終わらせるタイミングを計り始めた。
早めに退散して、発熱した彦星を救出しないと。
だが、身体を離そうとしている譲の考えを感じ取ったのだろう、望美は離さないとでも言うように、腕を譲の首から背中へ移動させた。
心臓マッサージの圧迫が更に強くなって、逆に譲の心臓が止まりそうになる。
しかも、せっかく引いている腰が、背中を引き寄せられたせいで望美に触ってしまいそうになって焦る。
これ以上密着したら、絶対バレる。
「・・・んく・・・」
ふいに、望美から色っぽい声が漏れて、二人の舌を濡らしていた水分が吸い込まれる感触がした。
飲んだ。
望美が、ネバネバに混ざり合った二人分の熱い唾液を、ゴックンした。
いつもゴックンするのは譲の役目だったから、こんなことは初めて。
ペタリと付けたら汚ーいとゴシゴシされるべき存在である唾液を、事も無げにゴックンしてくれるのは、感動に似た喜びがある。
望美が何だか色っぽい声を出して飲み込んだのも、こう、色々と想像をかき立てる。
この七夕娘、譲の腰を発破粉砕する気満々だ。
「・・・っ・・・すみません・・・」
耐えられなくなった譲は、ついに望美の肩を引き離して、濃厚キスを強制終了させた。
そのせいで、ぺろりと舌を出して恍惚とした望美のエロ可愛い表情をモロに見てしまい、それもまた譲を追いつめる。
「・・・ん?・・・どうしたの?」
望美は未だうっとりと余韻に浸りながら、ゆっくり首を傾げた。
こんな幸せそうな神子様を寂しがらせるのは、星の一族として誠に遺憾でありますが。
「・・・俺、もう帰らないと・・・」
譲は瞳を泳がせながら、ソワソワと自分の部屋を振り返った。
「イヤ!」
言うなり望美が抱き付いてきて、慌てて譲は腰を引く。
「?」
突然へっぴり腰になった譲を不思議そうに見上げる七夕娘を、譲は青息吐息で諭した。
「・・・先輩・・・そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど、こんな場所でキスしていれば、近所の人からも見えてしまいますし・・・」
「だから、部屋に入ってって、言ってるじゃない。パパやママにバレてもいいって。」
望美が微かに苛立ちを滲ませる。
いくら七夕とは言え、ワガママにも程がある。
譲は一つため息を吐くと、少し考えてから、言葉を継いだ。
「俺が気にしているのは、ご両親のことだけではないんです。こんな時間に男を部屋に入れるのがどういうことか、先輩は分かっているんですか?」
言って、望美に分かるように、望美の背後にある部屋の中のベッドへ視線を送る。
腕の中で望美が背後を振り向いて、微かに身を固くした。
「気付いていなかったんでしょう?」
畳み掛けると、望美はしばらく黙ってベッドを見つめてから、再び譲に強く抱き付いた。
「・・・いいんだもん。」
譲がアチャーと天を仰ぐ。
そうでした。
考えてみれば、望美はもう、とっくに覚悟ができているのだ。
譲の方が、すぐ美味しいすごく美味しいになってしまう即席な自分に自信が持てず、先送りにしているだけで。
もちろん、現状のへっぴり腰をどうにかスッキリしたい気持ちは切実にあるけれど、なにぶん不慣れな17歳。
普通に住居不法侵入の状態で望美のベッドをギシギシいわせてしまうスリルを楽しむ余裕は、今のところない。
「・・・お願いですから、先輩・・・今夜はもう、許して下さい・・・」
困り果てて泣きそうになりながら言うと、望美は驚いたように青ざめて離れた。
「・・・じゃあ、いつならいいの・・・?」
俯きがちに、望美が硬い声を出す。
だが、かなりテンパっている譲は望美の異変に気付かない。
やっと解放されたとばかりに背を向けて、ベランダの端へ歩きながら言った。
「ですから、明後日の夜、平塚の七夕祭りに行きませんか?」
そのまま、ベランダの手摺りに手をかけて、固まる。
自分が登ってきた木は、あんなに細かっただろうか。
「そうじゃなくて・・・」
苛立ったように言いかけた望美だったが、譲の様子に気付いて口をつぐむと、近づいてきた。
譲の隣に立って暗闇に目を凝らしてから、のんきな声で続ける。
「・・・降りられる?」
降りることは、多分、可能だ。
登ってきたのだから。
だが、先ほどのベランダに飛び移った時の物音を思うと、あれだけの衝撃荷重に耐えられる程の枝ではない気がする。
何本かバキバキと枝を折って、ドスン以上に騒々しい音と不法侵入の証拠をバラ撒いてから、ほうほうの体で降りることになるだろう。
すっかり全身が冷えていくのを感じながら、譲は呟くように言った。
「・・・やめておいた方が、良さそうですね・・・」



かくして譲は、望美の両親が寝静まった頃、こっそり望美に玄関を開けてもらって帰ることになった。
それまでの間、譲はつい先ほどの予想通りピンクの座布団に正座して、予想以上に気まずく恥ずかしい一時を過ごすことになる。




メニューへ Homeへ