夢のファーストキス


夕飯を食べ終えた譲が自分の部屋に戻ると、隣の家の窓から望美が顔を出しているのが見えた。
窓枠に肘をついてじっと夜空を眺めている様子は、少女のようで可愛らしい。
譲は思わず笑んで、窓を開けると声をかけた。
「何を見ているんですか?」
「あ、譲くん、今日は星がきれいだよ!」
望美が嬉しそうにはしゃいだ声を出す。
見上げると、屋根と屋根の間にある狭い夜空に、星が瞬いていた。
「本当だ・・・天体観測日和ですね。」
「そうだね・・・」
「公園まで、見に行きましょうか?」
「うん!」


真冬の澄んだ冷たい空気が、頬を刺す。
「えーっと・・・あれがシリウスだから・・・」
望美は一心に冬の大三角形を探していた。
遠慮がちにその後ろで夜空を眺めていた譲が、望美を盗み見る。
無防備な背中。
誰も居ない公園。
譲は望美の背中を抱き締めたい衝動に駆られた。
だが、それを行動に移す勇気などなく、少しでも望美に近づこうと考えをめぐらせる。
譲はコートを脱ぐと、後ろから望美を包むようにしてその肩にかけた。
望美が驚いて振り向けば、やましい気持ちがある譲は慌てて離れることしかできない。
そして、赤くなった顔を誤魔化しながら、用意していたセリフを滑り込ませるのが精一杯だ。
「寒くないですか?」
「ありがと・・・譲くんこそ、コート脱いだら寒くない?」
「大丈夫ですよ、俺はけっこう頑丈にできてますから。」
望美は、その言葉を聞いて何かを思い出したらしく、寂しげな顔をした。
「だめだよ。いつもそうやって無理して・・・」
肩にかかったコートを脱ぐと、譲に返しながら胸の辺りを見つめる。
「・・・セーター、着てくれてるんだね。」
望美が話題を逸らした、と譲は気付いたが、とりあえず頷いてコートを受け取る。
「ええ、でも、最初に袖を通すまですごく悩みましたよ。着るのも勿体無い、着ないのも勿体無いって・・・」
望美が吹き出す。
「もう、大げさだなあ・・・何枚でも編んであげるから、大事に着なくていいよ。」
望美の言葉を聞いて、譲が幸せそうに微笑んだ。
望美がそれを見て頬を染める。
譲の笑顔は前からこんなに可愛かっただろうかと思ってから、望美は、ずいぶん長い間、譲の遠慮がちな笑みしか見ていなかったことに気付いた。
それは、譲が自分への想いを隠していたせい。
「・・・座ろっか。」
照れた望美が近くのベンチへ腰をかけた。
「はい。」
譲もそれに従って隣に座ると横へコートを置く。
「熊野で星の話したよね・・・」
「ええ。」
話が続くと思っていた譲は、先を促すため簡単に返事をしたのだが、それきり望美は黙ってしまった。
小さな沈黙が流れて、譲が隣の望美を見る。
綺麗だった。
夜空を見上げる望美の横顔は、戦の日々に見た凛々しさを持っていた。
譲は、望美のその顔が好きでもあり、嫌いでもある。
凛々しく美しい横顔は、いつも譲の心をときめかせた。
何度でも惚れ直させた。
だが、その横顔は、望美が龍神の神子という存在に変わってしまったということも、譲に強く実感させた。
美しくなっていく望美に引きずられるように深まる恋心。
自分の知らない望美になって欲しくないという嫌悪感。
望美と同じ世界から来た人間であるという優越感。
それだけでは拭えない他の八葉に対する嫉妬心。
星の一族としての使命感。
そして、死の恐怖。
望美の凛々しい横顔は、あの頃の混乱した心理状態を呼び起こす。
不安。
焦り。
彼女は何を思っているのか。
他の男のことか。
源氏の未来のことか。
そんなことは忘れて、自分のことを。
いや。
自分には、そんな資格などない。
それなのに。
彼女から優しい言葉をかけてもらうたびに切なく胸を締め付けられて。
彼女が他の男に微笑んでいるのを見ただけで裏切られた気持ちになって。
彼女に近づく男達を勝手に牽制しては自己嫌悪に陥って。
拷問のような日々。
望美がふと陰りのある微笑を漏らして、譲の肩にもたれると、小さく呟いた。
「ごめんね・・・」
心の中を見透かされたような気がして、譲がビクリと肩を震わせた。
望美が不思議そうに譲を見上げる。
「どうしたの?」
「・・・いえ、あの・・・先輩が急に謝るから・・・」
しどろもどろになりながら譲が答えると、望美が自嘲的に微笑んだ。
「そうだね・・・」
そう言って、また話題を逸らすように譲の右腕をセーターの上からぺたぺたと触る。
「・・・こっちだけ太くなっちゃったよね。」
「そんな事、先輩が謝らないでください。けっこう部活に役立ってますし・・・」
確かに左右の腕の太さは違ってしまったが、それは譲にとって望美を守り抜いたという勲章だ。
「ううん、謝ったのは違うの・・・」
望美は首を振って、譲の右腕を両手でつかんだまま続けた。
「・・・譲くんの気持ちに、ずっと気付かなくて、ごめんね。拷問みたいだったんでしょ?」
譲が息を飲む。
そんな事を望美に言った覚えはない。
「な・・・なんでそんな事を・・・」
知っているのか、と言いかけて、口をつぐむ。
それでは肯定しているのと同じだ。
「時空を戻ってくる前に、譲くんが言ってたの。」
「・・・・・・」
譲が瞳を見開く。
なぜ、自分はそんな事を望美に言ってしまったのか。
そのあと、望美とどうなったのか。
「譲くんの言うとおり、私は残酷なことをしてたんだなあって・・・昔の譲くんとか、いろいろ思い出してたら、改めてそう思ったの。」
譲はその言葉を聞いて、眉間にしわを寄せた。
望美に対して、残酷だ、拷問だと罵ったことは明らかだ。
確かにそう思っていた時期もあったが、直接本人に言うなど、有り得ない。
「本当に俺が・・・先輩にそんな事を・・・?」
「うん。譲くん、すごく辛そうだった。多分、悪い夢ばかり見て、追い詰められちゃってたんだと思う。」
そうかも知れない。
限界は近かったのだ。
望美を守るために自分の命を投げ出す決心がなかなかつかず、誰かに相談したい、自分の辛さをぶちまけてしまいたい、といつも思っていた。
あの朝、望美に好きだと言ってもらえなかったら、どうなっていたか分からない。
だが、自分が望美を口汚く罵ったという事実はショックだ。
「すみません・・・俺、先輩に酷いことを・・・おかしな夢でも見たと思って、忘れてください。」
「うん、それも言ってた。」
「何を言ってるんだ俺は・・・」
苛ついた声を出して、譲は左手で前髪をかき上げた。
罵っておいて忘れろだなんて、支離滅裂だ。
「あとね、自分が嫌だけど、止まらないって。」
「何だよそれ・・・そんなこと言うくらいなら止めろよ・・・」
譲が恥ずかしそうに自分の言葉へ突っ込みを入れる。
望美はその様子を見てクスッと笑うと、右腕から手を離し、譲の右手を取った。
「ううん、止まらなくて良かったと思う。すごく大事な言葉、いっぱい聞けたもの。」
「拷問だとか残酷だとか、先輩を責めて愚痴ってるだけじゃないですか・・・みっともない。」
望美は俯いて、照れくさそうに膝の上で譲の右手を玩びながら言った。
「・・・ほんの小さな頃から、貴女のことが好きだった・・・」
譲の手が小さく震える。
「・・・春も夏も秋も冬も、ずっと貴女の姿を目で追っていた・・・」
急速に、譲の掌が汗ばんでいく。
「・・・貴女が兄さんのことばかり気にかけても・・・」
「ワーッ!」
譲が突然大声を上げた。
望美が驚いて顔を上げると、譲は真っ赤になっていた。
「もうやめてください・・・」
「なんで?最後にとっておきの言葉があるのに・・・」
「いいです!聞きたくないです!恥ずかしくて耐えられそうにない・・・」
「だって、譲くんが自分で言ったんだよ?」
「だから恥ずかしいんですよ・・・先輩・・・お願いですから全部忘れてください・・・」
「・・・やだ。」
望美が嬉しそうにそっぽを向く。
「・・・先輩・・・」
譲が嗜めるような声を出した。
望美は譲に向き直ると、真摯な瞳で見上げる。
「・・・あの時は結局すれ違っちゃったけど、私は嬉しかったもの。譲くんのすごく切ない告白。」
譲が視線を泳がせる。
その様子に焦れた望美は、いきなり譲の両腕を引っ張ると、自分の肩の上に持ち上げた。
「だって、こうだよ?・・・バーンって、板壁に私を追い詰めてさ・・・」
嬉々として言いながら見上げた譲の顔が、思ったよりも近くにあって、望美は言葉を失った。
頬を染めてされるままになっていた譲が、望美の様子に気付き、慌てて離れる。
そんな譲を少し不満そうに見て、望美は言った。
「だからね、これからも譲くんの気持ち、止めないで欲しいの。」
「はあ・・・」
これからも何も、譲には気持ちを止められずに自ら告白した経験などない。
今だっていい雰囲気になっていたのに、抱き締めたいとかキスしたいとか、常々思っているような事を実行する余裕もなく、ただ昔からの条件反射で望美の様子に合わせてしまう。
先に望美からの告白を受けてしまった譲は、悲しいほど受け身のままだった。
「もう・・・分かってる?」
「・・・え、ええ・・・」
望美は譲の冴えない返事に、黙って星空を見上げる。
少し考えてから、不安そうにポツリと言った。
「・・・譲くんは、キスしたいとか思う?」
「え・・・」
当たり前だ。
キスどころかあんなコトやこんなコトも。
望美に近づくだけで、エッチな妄想が溢れてしまう。
そのせいで、望美に触れることさえできなくなってしまうのだ。
だが、譲の口からは昔から繰り返してきた誤魔化しの言葉が勝手に滑り出る。
「・・・そ、それはまあ、そんなような気がしないでもないですが・・・」
「え?・・・ごめん、意味が分からないんだけど・・・」
「・・・その・・・何て言うか・・・」
言いながら、ちらりと望美を見ると、望美は縋るように自分を見つめていた。
譲が真顔になる。
自分がはっきりしないせいで、望美をそこまで不安にさせていたのだ。
「・・・すみません、したいです。」
譲は罪を白状するように言って、ぺこりと頭を下げた。
望美が恥ずかしそうに視線を逸らす。
「じゃあ・・・しよっか。」
「は?」
目を丸くする譲をそのままに、望美は顔を譲の方へ向けて、あっさりと目を閉じた。
「・・・!」
譲が固まる。
キスの仕方など分からない。
どのくらい顔を傾けるのか。
眼鏡は外した方がいいのか。
唇は開くのか閉じるのか。
全身の血液が高速で駆け巡る。
望美が待っている。
焦って思考がまとまらない。
なかなか近づく気配がない譲に、望美は再びあっさりと目を開ける。
「しないの?」
その様子に、譲は微かな怒りを覚えた。
キスひとつで心臓が壊れそうなほど、自分は望美が好きなのだ。
それを、望美はずいぶん簡単にしようだのしないだの言ってくれる。
「・・・先輩は、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか?」
「え?・・・落ち着いてなんかないよ・・・」
言いながら、望美が顔を強張らせた。
それを見た譲の心に、小さな猜疑心が生まれ、膨らんでいく。
「初めてですか?」
思ったまま口に出してから、譲は後悔した。
初めてじゃなければ何だというのだ。
だが、望美はますます顔を強張らせて首を傾げた。
「・・・初めてじゃないように、見える?」
「誰とですか?!」
気付いたときには、譲は硬い声を飛ばしていた。
望美が黙る。
「兄さんですか?まさかヒノエとか?それとも、他の・・・」
責め立てるような譲の声に、望美が泣きそうな顔で首を振る。
「譲くんとなの・・・」
譲は息を飲んだ。
自分にそんな記憶はない。
望美の様子から、幸せなキスでなかったことは、一目瞭然だ。
先ほどの望美との会話が蘇る。
「もしかして、俺、告白した勢いに任せて先輩を無理矢理・・・」
望美の話を総合すると、それぐらいの事をしてしまいそうな感じだ。
そうじゃなくても、あの時空での生活は溜まる一方だったのだ。
望美が泣きそうな顔のまま首を横に振る。
譲は、先を促すように望美を見つめた。
「言わなきゃダメ?」
望美が瞳に涙を溜めて心底言いたくなさそうにする。
「言いたくないような事を俺がしたんですね?」
譲の声音が再び硬さを帯びる。
望美は再び首を振ってしばらく黙っていたが、涙を堪えて言った。
「あのね・・・譲くんが・・・死んじゃった後に・・・」
それきり、望美は続きを言わなかった。
涙を堪えるのに必死で、言えなかったのだ。
譲が呆然とする。
自分に再会するため望美が時空を戻ってきたことは、望美に聞いて知っていた。
だが、望美は、譲の見ていた夢と同じになったと言っただけで、譲の死について詳しく語らなかった。
譲は、望美が自分の死に直面した際、何を思いどう行動したのか気になってはいたが、聞くのも憚られたので、これまで触れないでいた。
望美は、嘆いてくれたのだ。
自分の亡骸にキスをするほどに。
それがどんなキスだったか、想像に堪えない。
しかし、嬉しさと切なさで溢れる譲の心の隅には、冷たい何かが生まれていた。
「ごめん、こんなこと言うつもりじゃなかったの・・・帰ろ?」
望美は震える声でそう言って、ベンチから立ち上がろうとした。
その腕を、譲がつかんで引き止める。
その拍子に、望美の瞳から涙が零れ落ちた。
「ごめ・・・っ・・・」
途端に望美がぼろぼろと涙をこぼし始める。
譲は望美の頭を自分の胸に押し付け、そのまま抱き締めた。
「俺は、生きてますから。」
「・・・うん・・・」
腕の中から、望美の涙声が小さく返って来る。
「そんなファーストキスは、忘れてください。」
「・・・・・・」
望美の返事はない。
分かっている。
忘れられるわけがない。
それでも。
譲が身体を離し、望美の顔を覗き込む。
「忘れてください。」
望美が瞳から涙を溢れさせながら、首を横に振る。
それを見た譲の心の中に、冷たい何かが急速に広がっていく。
今、望美の心を占めているのは、他でもない自分。
だが、死という最もずるい永遠で望美の心を捕らえて離さない彼は、自分ではない。
望美とファーストキスをしたのも。
望美に切なく告白をしたのも。
・・・俺じゃない。
譲は、嗚咽の漏れる望美の唇をじっと見つめてから、自分の唇をそこへ押し付けた。
「・・・っん・・・」
望美の喉が苦しげに鳴る。
泣いている時に口を塞がれれば、苦しいのは当然だ。
すぐに望美が唇を離す。
「待って、苦し・・・」
譲は、望美の言葉も聞かずに、再び唇を押し付ける。
望美が再び唇を離し、顔を背ける。
「お願い、やめて・・・」
譲は構わず涙に濡れた望美の頬に口付けて、怒りを含んだ低い声で言った。
「貴女が何もかも忘れるまで、俺はやめない。こんなの嫌だ・・・」
それを聞いた望美が突然、譲に縋りつくと、子供のように泣き声をあげ始めた。
敬語を忘れて本心を吐露した、あの譲が、ここに居る。
あの時すれ違ってしまった、ありのままの譲。
彼と想いを通わせたいと、望美は心のどこかで、ずっと願っていたのだ。
今度こそ、その想いを受け止めたい。
「・・・やめないで・・・」
泣きながら呟いた望美の唇へ、譲がめちゃくちゃに唇を押し付け始める。
そこにはいつもの邪な気持ちなど欠片も存在せず、譲の心はただ、冷たい嫉妬で満たされていた。
「そんな奴は忘れて・・・俺のことだけ考えて・・・」
めちゃくちゃなキスの合間に、譲が絞り出すように言う。
望美に助けられた命。
望美から告げてくれた想い。
そこから始まった今の二人だからこそ、死んでしまった自分に囚われて欲しくない。
生きている自分のことだけを、好きになって欲しい。
譲の言葉を聞いた望美が、自ら譲の唇を求める。
譲の言う通り、あのキスを、忘れなくては。
運命を変えた意味を、身体中で感じなくては。
譲の唇の温かさが、あの冷たい唇の記憶を溶かしていく。
息を継ぐため唇を離せば、譲からも熱い吐息が漏れる。
再び唇を求めれば、押し返される感触。
そして、自分を抱き締める腕の力強さ。
もっと感じたい。
望美が譲の首に腕を回して、譲の唇を啄ばむ。
譲の背筋を快感が走り、譲はゾクリと身体を震わせてから、おずおずとそれに応える。
急激に火照っていく身体。
その火照りが、譲の心に宿っていた冷たい嫉妬をも溶かしていく。
二人は、お互いの傷を癒すように、夢中でたどたどしいキスを繰り返した。




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