楽園をめざして


名前を呼ばれた気がして、譲は目を覚ました。
暗闇。
時計の秒針。
シーツの肌触り。
順に明確になっていく感覚が、自分の部屋の、いつもと同じ夜であることを知らせる。
夢だったのだろうか。
未だ、明け方には遠いようだ。
「・・・譲く・・・っ・・・しっかり・・・」
すぐに腕の中から声がして、譲は誰に呼ばれていたのかを悟った。
同時に、その声が涙に濡れていることに気付く。
「先輩?!」
微かに差し込む月明かりを頼りに覗き込めば、望美の瞳は閉じていた。
「・・・っく・・・おねが・・・うぅっ・・・たすけ・・・」
そこから止めどなく流れる涙と、嗚咽混じりに漏れる言葉。
何か、悪い夢にうなされているらしい。
「先輩、起きて下さい、先輩っ?!」
譲は慌てて身体を起こすと、望美を揺り起こした。
泣きながら目を覚ました望美はしばらく呆然と譲の顔を眺めていたが、やっと自分の状況を飲み込むと、譲に抱き付いて泣き出した。
「怖い夢を見たんですね・・・」
柔らかく抱き留めて優しく髪を撫でながら、譲は慰めの言葉をかける。
「・・・うん・・・」
望美は泣きながら頷いて、譲の胸に顔を擦り付けた。
素肌が、涙で濡れていく。
「俺の夢・・・ですか・・・?」
自分で言うのもはばかられたが、やはり気になる。
言葉を詰まらせながら問うと、望美が身体を硬くした。
「・・・どうして、そう思うの・・・?」
譲の胸に顔を埋めたまま、望美は掠れた声に警戒を滲ませる。
どうやら、聞かれたくない内容だったらしい。
譲の身にも覚えがある。
まして望美は、あの夢を実際に経験したと言っていた。
もし、似たような夢を見たのなら。
追求してはいけない気がする。
けれど、共有しなければいけない気もする。
「いえ・・・俺の名前を、寝言で呼んでいたから・・・」
譲が迷いを滲ませながら言うと、望美は更に身を硬くして、すすり上げながら身体を離した。
「そっか・・・うん・・・譲くんの夢だったよ・・・」
言いながら、望美は背を向けてダブルベッドを降りる。
ベビードールの裾で大きめのフリルが揺れて、薄い生地から透けて見える望美の華奢な肢体を更に細く見せた。
いや、少し痩せたのかも知れない。
望美は背を向けたまま手の甲で涙を拭うと、譲を振り向いて笑みを作った。
「・・・大丈夫だから、心配しないで・・・起こしちゃってごめんね・・・」
明らかに無理をしているその様子に、譲は言葉を探して黙り込む。
望美はそれを見て取ると、譲の視線から逃げるようにその場を去った。
寝室の外、洗面台から水音がし始める。
譲は望美を追いかけることもできず、ベッドの中で上体を起こしたまま片膝を立て、そこに頬杖をついた。


望美が県内の大学病院に看護師として就職してから、5年半が経っていた。
譲はと言えば、薬学部の課程を修了して同じ大学病院に薬剤師として勤務するようになったのが、たったの1年半前。
やっと仕事にも慣れ、周囲の様子が見えるようになってきたとは言っても、まだまだ下っ端だ。
聞けば、望美はそんな譲と同じ就職2年目に集中治療室の担当になったらしい。
二人の関係を知って何かと世話を焼いてくる先輩薬剤師によると、かなり酷い傷を見ても眉一つ動かさずに処置できる度胸を買われたとか。
確かに、血で血を洗う戦場を見てきたのだ。
他の看護師に比べて度胸があるのは確かかも知れない。
重篤患者を集めた集中治療室で緊張感を切らさずテキパキと働く様子も教授陣に気に入られて、今では中堅として後輩の指導にも当たっていると言う。
そのせいだろうか、以前、望美が言っていた。
『ICUは大変だから毎年異動の希望出してるんだけど、なかなか異動にならないんだよね。』
きっと、教授陣が首を縦に振らないのだろう。
だが、それ以前から譲はずっと心配していた。
死と隣り合わせの毎日。
今夜のように辛い記憶が蘇った経験も、一度や二度ではないだろう。
望美がそれを覚悟でこの職業を選んだことは分かっている。
それでも、望美の性格をよく知っている譲は、時々思うのだ。
望美は、異世界で罪のない人を殺した自分を責めているのではないか、と。
罪滅ぼしのため、茨の道を歩むことを自らに課しているのではないか、と。


「あ・・・先に寝てて良かったのに・・・」
ふんわりとした布を纏っているせいか、寝室へ戻ってきた望美は風に飛ばされてしまいそうな風情だった。
「・・・ええ・・・」
譲は生返事を返して、ベッドへ上がる望美に手を伸ばす。
望美はその手を取らずに目を伏せると、急に勢いよく抱き付いてきた。
「うわっ・・・!」
勢いに負けて譲が後ろに倒れ込む。
「びっくりした?」
勝ち誇ったように譲の身体の上に寝そべって、望美は譲に向かって、イーだ、というように唇を横に引いた。
望美を身体の上に載せたまま、譲は降参の意を表して呆れの混じった溜め息を吐く。
「まったく・・・」
カラ元気も、いいところだ。
譲がそのまま望美の頭を撫でると、望美は表情を保てなくなったのか、慌てて譲の胸に顔を埋めた。
どう言えば、いいのか。
「・・・仕事・・・辛くないですか・・・?」
天井を見つめて、譲は言葉を選びながら呟くように言う。
裸の胸に触れる望美の顔が、小さく左右に動いた。
「ううん・・・そうじゃないの・・・」
胸から脇へこぼれ落ちた望美の髪を一筋、指に絡ませて、譲は再び言葉を探す。
「・・・今日、ICUに入った患者さん・・・」
「うん・・・車の事故だって・・・」
救急外来から連絡を受けて、輸血や緊急手術のための調剤をしたのは譲だった。
薬剤を満載したワゴンを押して手術室へ駆け付けると、まだ10代と思える女性が取り乱して医師に縋っていた。
お願いです、助けて下さい、と。
譲も戦場を知る身だし、就職してからも何度かそういう場面に居合わせてきたが、やはり慣れない。
大きな怪我だったのだろう、女性には目立った外傷が見られないのに、手や服が血に染まっていた。
望美が悪夢を見るに至った原因について、譲に思い付くのは、その出来事ぐらいだ。
ふいに、譲は一つの仮説に至る。
「どんな怪我だったんですか・・・?」
「・・・ん?・・・うん・・・車が横から突っ込んで来たんだって・・・ドアの破片が背中にね・・・」
少し言い淀んでから、望美が言い難そうに答えて、譲の仮説は証明された。
今でも忘れない、あの夢。
望美を庇って傷を受けたのは、背中だった。
譲は黙って、胸の上の望美を抱き締める。
「譲くん・・・」
譲が全てを理解したことを、望美も感じ取ったのだろう。
「・・・どこにも、行かないでね・・・」
安心したように、望美は胸の内を遠回しに吐き出した。
譲は目を閉じて、深く息を吐く。
「いいえ・・・」
言うと、望美が目を丸くして顔を上げた。
否定されるとは思っていなかったのだろう。
譲はいきなり身体を反転させて望美を組み敷いてから、その瞳を覗き込むように続ける。
「・・・俺は先輩となら、どこへでも行きますよ。」
譲にされるまま目を見開いていた望美だったが、譲の言葉を聞いて、やっと本来の笑顔を見せた。
「うん、ずっと一緒だよ・・・」
けれど、言いながら再び望美の瞳は潤み始める。
譲は望美の前髪をかき上げて、涙が零れる前に瞳を閉じさせると、優しく口付けを落とした。
望美の辛い記憶や罪悪感を、消し去ることはできないけれど。
少しだけでいい、癒すことができるなら。
「辛い時には頼って下さい。俺にできることがあれば、何だってしますから。」
「うん・・・」
望美が幸せそうに瞳を閉じたままで頷く。
取り敢えずは、望美の心を掬い上げることに成功したようだ。
と、望美が可愛らしく唇を開き、顎を突き出した。
口付けの催促。
「・・・確かに俺にしかできないことですね・・・けれど、これだけで良いんですか?」
微笑みながら冗談ぽく言えば、望美も悪戯な顔で片目を開ける。
「さしあたっては、ね。」
答えると、望美は譲の首に手を伸ばして、自ら譲の唇を引き寄せた。





「・・・それから二人で飛行機に乗るんですけど、それがまた本当に浮かれた格好で・・・」
ダイニングテーブルに突っ伏して未だ眠そうな望美に、譲はキッチンで朝食を作りながら浮き立った声で喋り続ける。
「・・・色違いのアロハシャツなんですよ。先輩は似合ってましたけど、俺は恥ずかしくて着られそうにない・・・」
望美はテーブルに突っ伏したまま、譲が先に用意したサラダのミニトマトだけをつまみ食いすると、微笑んで続きを促した。
「で? それで夢は終わったの?」
「いえ、その後ビジネスクラスと思われる広い席で機内食を食べたり眠ったりしてから、すごく暑い空港に降り立つところで終わるんです・・・なんだかリアルな夢でした。目が覚めて可笑しくなってしまったくらい。」
ふ、と望美も幸せそうに笑む。
「・・・正夢かなあ?」
「まさか・・・この世界に戻ってから、正夢と思われるものは見ていませんし・・・」
だが、譲は否定しながらも手を止める。
「・・・でも、本当に幸せそうだったんです、俺たち。だから、正夢だったら良いとは思います。」
「うん・・・ねえ、他に何か気付いたことは? 着いたのはどこの国だったの?」
やっと目が覚めてきたらしい望美が、身体を起こして興味深そうにする。
譲は再び手を動かし始めながら、首を傾げた。
「そうですね・・・行き先ははっきり分かりませんでしたが・・・かなり長い時間を飛行機の中で過ごしているように見えましたから、ハワイ近辺ではなさそうですね。到着した空港も大都市のようでしたし、オーストラリアか、南米か・・・」
言って、譲は望美をチラリと振り向く。
「へ〜、オーストラリアかあ〜、いいなあ〜・・・」
望美はテーブルに頬杖を突いて、何やら想像を膨らませているようだった。
こっそりと、譲がその左手を見つめる。
夢の中の二人が、幸せそうに見せ合っては微笑んでいた、左手の薬指。
そこにはシンプルなデザインの指輪が揃ってはめられていた。
結婚指輪であることは、間違いない。
けれど、それを浮かれた顔で望美に言うのは違う気がした。
今のところ、少なくとも譲は、夫婦同然の同棲生活に満足していて、結婚という次のステップのことはあまり考えていない。
やぶへびになって、心地良い現在の関係が壊れる可能性は避けたかった。
もし、今朝の夢が星の一族の正夢であれば、そう遠くない未来に二人は結婚し、南の楽園へ新婚旅行に行くことになる。
確かに昨晩は、あの異世界での夜と同じように「自分が望美にできることは何か」を考えながら眠ったのだが。
・・・まさか・・・な・・・
譲は半信半疑のまま薄く笑んで、小さく浮かんだ期待を打ち消すようにフライパンの中の卵を菜箸でかき回した。




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