シアワセ
緩く組んだ指先が外れそうになって、望美はそっと手を繋ぎ直した。
力が抜けた譲の大きな手と逞しい腕は、繋いだ望美の手と腕にも相応の重みを掛ける。
右上から、深い寝息。
恋人同士になって10年が経つが、未だに譲が望美に遠慮なく重みを掛けるのは、寝入った時ぐらいだ。
ピク、と繋いだ譲の手に力が籠もる。
どうやら、夢の世界まで辿り着いたらしい。
望美は譲を起こさないよう、繋いだ左手と下敷きにしている右腕を気遣いながら、譲に向き合う姿勢になった。
寝顔を見上げれば、いつもながら首が傾いてとても寝難そうに見える。
それでも、譲は二人で寝る時の腕枕をやめない。
いや、宿直明けに一人で寝ている時も、まるで望美が居るかのように同じ姿勢で寝ていたので、もう癖になっているのかも知れない。
・・・同じ姿勢ばかりだと身体に悪いよね。今度、反対側に寝てみようかな。
望美が看護師らしく譲の健康を思っていると、まるでそれを見透かしたかのように、譲が微笑んだ。
望美が目を丸くする。
よく見ると、薄く開いた唇が小さく動いていた。
譲が夢の中で何か笑ったり喋ったりしているのだと理解して、やっと望美は胸を撫で下ろす。
譲はと言えば、今度はフッと微かに息を吐いて笑っている。
・・・どんな夢、見てるのかな?
望美は可笑しくなって、譲と同じように、フッと静かに笑った。
不意に譲の手が大きく動いて、繋いだ手が外れそうになる。
望美は慌ててその手を繋ぎ直した。
ずいぶん楽しそうな譲の夢に、望美が出ていなかったら、少し悲しい。
自分がここに居るのだと知らせるように、譲の手をぎゅっと握る。
夢の世界に居ながらしっかりと握り返してくれた譲の手は、微かに汗ばんでいた。
梅雨の終わりが近づいている。
望美の手も同じくらい熱く汗ばんでいるけれど、二人に離れて寝ようという考えはない。
じわり、と胸の奥で温かいものが滲む。
偶然が、重なっただけだった。
脊髄損傷でICUに収容されたのが、背中に大きな怪我を負った青年で。
泣きながらそれに付き添っていたのが、青年に想いを寄せている少女で。
何度も何度も、私のせいなんです、と言っては泣き伏して。
患者の精神管理の一貫として彼女の話を聞けば、運転していた青年は横から来た車に先に気付いて、咄嗟に彼女の盾になったらしい。
偶然が、重なっただけ。
望美は、あまり気にしていないつもりでいた。
マンションに帰ってから、いつものように譲が作った夕飯を美味しく食べて。
長風呂で身体の疲れを癒した後は、いつものように譲に美味しく食べられて。
譲がそばに居る幸せと譲に愛される幸せに、満たされながら眠りについたはずだった。
だから、あの辛い記憶が夢に蘇るとは、思っても居なかった。
譲の胸で号泣するほど動揺してしまったのは、多分、自分が夢に見るほど気にしていたのだ、と気付いてしまったせい。
何年経っても、望美が自分の気持ちに気付くのは、手遅れになってからだ。
『辛い時には、頼って下さい。』
譲はまるで、ずっと前から望美の気持ちを知っていたかのように、優しく言った。
・・・辛いなんて言ったこと、一度もないのに・・・
以前からそうだったけれど、最近の譲はますます、望美の気持ちを詳細まで読み取るようになったと感じる。
夢から覚めた時点で既に、望美がどんな夢を見たか知っているような態度だった。
けれど譲は、こうして過去の記憶を蘇らせてしまうような仕事に就いている望美に、仕事を辞めろとは言わない。
無意識に強がってしまう、本当は弱い心。
それ以上に、辛くても仕事を続けたいという、強い覚悟。
両方をよく知った上で言う譲の言葉だから、それは暗闇に差す光のように、望美を導いてくれる。
『俺は先輩となら、どこへでも行きますよ。』
譲に強がっても無駄だと悟ってやっと、どこにも行かないでね、と本音を零した望美に、譲はそう返した。
恐れて留まるのではなく、前を向いて進みたい。
もともと望美がそう思って看護師を志したことさえも、きっと譲は知っている。
そうやって譲がそばで見守っていてくれるから、望美は自分の選択を後悔せず、たとえ立ち止まっても再び前に進めるのだ。
人々に起こる残酷な運命に泣かされても、それに向き合って強くありたいと思う。
もし残酷な運命が自分たちの身に降りかかったとしても、譲を想えば幸せで居られると思う。
だから、こうして遠慮がちに望美を幸せへと導いてくれる譲に、ずっとついて行く。
しばらく静かだった譲の唇が、また開いた。
すぐにそれが閉じられ、今度は喉仏がゴクリと動く。
自分にはないせいか、無骨な部位なのにとても愛しく感じる。
譲が男性であることを見せつけられると、自分がとても小さな存在に感じて、包み込んで欲しくなるのだ。
望美は身体を少しだけ起こして、喉仏に口付けた。
「・・・ぁ・・・」
頭の上で、譲の寝息に小さく声が混ざる。
望美は慌てて離れると、起こさないように息を詰めた。
譲から深い寝息しか聞こえてこないのを確認して、再び横になる。
横になってから望美は、小さな悪戯が成功したような達成感に可笑しくなって吹き出した。
また慌てて空いた手で口を押さえると、今度は何だか涙が出た。
口もとに手を当てて息を殺しながら、望美は涙を堪えて瞳を閉じる。
これがきっと、幸せという感情。
目蓋の向こうで、また譲がフッと吐息だけで笑った。
望美は瞳を閉じたまま、口もとに当てていた手を外して、囁く。
「今日も、大好きだったよ。」
楽しい夢の中に居る譲に、届きますように。
そう願いながら、望美は眠りに落ちていった。