夢の海水浴
「ね、インターハイも終わったし、パーッと海に行こうよ!」
「そうですね。」
「今年は譲くんも一緒に泳ごう?小学生の時は泳いでたんだし、泳げないわけじゃないんでしょ?」
「・・・ええ、多少は泳げます。」
曖昧に答えて、譲は作り笑いを浮かべた。
本当は、トップクラスの成績をキープするだけの腕前ぐらいは持っている。
だが譲は中学に入った頃から、あまり泳ぎは得意じゃないから荷物番をすると言って、ずっと浜辺で参考書や単語帳を開いていた。
3人で海に行こうと無邪気に誘ってくれる望美に嘘をつくのは辛かった。
将臣と2人で楽しげに泳ぐ望美を見るのもかなり辛かった。
しかしそれ以上に、望美の眩しすぎる水着姿を見せられるのが、もんのすごく辛かったのだ。
夏の日差しに輝く裸同然の望美は、まさしくアフロディテ。(譲ヴィジョン)
美男美女が多いオリンポスの神々でさえ色めきたったというのも頷ける美しさ。(譲ヴィジョン)
そんな望美を前に必死で自然に振舞っても、頭の中の譲鍋は妄想のごった煮で溢れそうになる。
第二次性徴を迎えたばかりの譲は、そんな自分に大いに戸惑い、不安を感じていた。
邪な考えで満たされている自分が、アフロディテと何らかの不可抗力で密着した場合、どうなってしまうのか。
自分を制御できないまま、ゼウスもびっくりの行動に出てしまうのではないか。
そんな出来事で望美に嫌われるのは嫌だ。
そんな出来事をきっかけに自分の想いが望美に伝わるのはもっと嫌だ。
そうでなくても、幼馴染という関係を保ちつつ、それとなく想いを小出しにするという、自分でもどうしたいのか分からない恋のために毎日がいっぱいいっぱいで。
とてもじゃないけど、アフロディテ化した望美と一緒に泳ぐ余裕なんてなかった。
だから望美は、譲の泳ぎが得意じゃないという嘘を、信じたままだ。
更衣室からルンルンでやってきた望美を見て、譲は面食らった。
昨年まで望美が着ていた水着は、シンプルなワンピース型だったはずだ。
だが、今年は違った。
ホルターネックのビキニと短めのパレオは、髪を上げた望美によく似合う。
言うなれば、南国のビーチでアバンチュールを楽しもうと誘っているかのような色香。
よく考えてみれば、アフロディテは1年(正確には2〜3年)の間に、エロスの大軍を率いる戦女神となってしまっていたのだ。
「お待たせ!」
望美が屈託のない笑顔で譲を見上げる。
露になった細いウエストへ今にもタックルかましそうだった譲は、その声でやっと我に返った。
「いえ、俺も今来たところですから。」
上を下への大騒ぎになっている脳内にも関わらず、常套句が無意識の底から滑り出てくる。
露になった項、鎖骨、胸もと、腰、以下自粛、どこを見てもヤバすぎて、目が離せない。
眼鏡を置いてきたせいで細部がぼやけているのも、微妙にそそる。
「どう?譲くんと海に行くために、買ったんだよー!」
望美がパレオをつまんで引っ張る。
・・・俺のため?!
譲の心中は、嬉しさと共に、泣きたい気持ちでいっぱいになった。
自分のためというなら、せめてもう少し露出度と色気のないものを選んで欲しかった。
今日一日が甘すぎる拷問となるであろうことは、簡単に予想できる。
「・・・泣きたいくらい似合ってます・・・」
譲がマジ泣き寸前の顔で本音を吐露する。
「もう・・・大げさなんだから〜。」
そう言いながらも、望美はまんざらでもないといった様子で身を翻し、砂浜へ歩き出した。
その背中を見た譲を、再び衝撃が襲う。
望美の首の後ろ、ホルターネックの部分が紐で蝶結びにしてあるだけなのだ。
衝撃のあまり譲の脳が高速回転を始める。
・・・何だその頼りなさは解けたらそれこそアフロディテじゃないかそんな大事なところをそんな心許ない紐でしかも解けやすい蝶結びそういうデザインかデザインとしては可愛いすごく可愛いけど不慮の事故で紐が解けてキャー譲くん結び直してとか言われたら俺いや別にそんなハプニングを期待してるわけじゃなくてでもちょっとだけ希望・・・
鍛え上げられた集中力さえも全開にして立ち止まってしまった譲に気付いて、望美が振り返る。
「どうしたの?」
「えっ、あ、いえ・・・」
譲が慌てて望美の横に並ぶ。
「暑いから早く泳ごうよ。」
言いながら嬉しそうに海を見る望美の横顔。
夏の日差しに眩しさ倍増でチョー可愛い。
だが、譲の視線はその後ろの結び目にばかり移動してしまう。
ああもう、その紐すごく気になる。
望美の動きに合わせて、まるで解いてくれと言わんばかりに揺れる。
・・・そうだこの水着が俺のためということはこの結び目も俺のためということでそうするとこれを解く権利も俺にあるわけで・・・
解いてしまいたい衝動から勝手な理論が暴走し始め、思わず左手で右手首を押さえる。
今はまずい。
せめて誰も居ない場所で。
というわけで、とりあえず脳内でトリップ。
誰も居ない南国のビーチで抱き合う二人。
譲の手が望美の首の後ろにある結び目を解く。
ぱらりと紐が解け、露になる望美の肌。
そこへ手を伸ばせば・・・
「気持ちいい〜!」
望美の声に譲がギョッとする。
見ると、望美が波打ち際に足を浸して、はしゃいだ声を出していた。
無邪気なその様子に、譲は自己嫌悪を覚える。
・・・何を考えてるんだ、俺は。
せっかく望美と二人、初めての海水浴デートに来ているのだ。
邪なことは考えず、純粋に楽しまなくては。
と言うより、邪な考えを一切排除しないと禁断の紐を引っ張ってしまいかねない。
焼けた砂の上を歩いた熱さを、海水の冷たさが洗い流していく。
「本当だ、気持ちいいですね。」
「うん!」
望美に微笑みかけると、望美が嬉しそうに譲の手を取って沖へ歩き出した。
浮き輪に入った子供たちが、波に乗って勢いよく流れてくる。
繋いだ手を離さないようそれを避けながら、譲は感慨深く言った。
「久しぶりだな、こういうの。」
「よくあんな風に浮き輪に入ってたよね。」
「はい。3人で手を繋いで。」
「そうそう!でも、強い波が来るとどうしても手が離れちゃうんだよね。それで3人のうち1人は絶対ひっくり返っちゃうの。」
望美がその時のことを思い出してきゃらきゃらと笑う。
譲も、その横顔を見ながら曖昧に笑む。
ひっくり返っていたのは、ほとんど譲なのだ。
望美の手をどうしても離したくなくて、流れに逆らい望美の方に身体を傾けるから、ひっくり返る。
「あの頃は、手を離さないように一生懸命だったのに、今思うと、可笑しいね。」
望美が笑い涙を指で掬いながら、譲を見上げた。
望美も手を離さないように努力してくれていたと知って、譲の心に甘い波紋が広がる。
「ええ、本当に可笑しいくらい真剣でした。貴女の手を離さないように・・・」
昔も今も変わらず、真剣すぎて滑稽なほどの、望美への想い。
望美の手を握る譲の手に、力がこもる。
「うん・・・」
望美が照れくさそうに頷いて、沖へ歩き出す。
歩を進めるたび、波が身体に当たり、次第に深く身体が沈んでいく。
大きな波が来て、望美の身体が浮いた。
「ひゃ・・・」
望美が慌てて譲の手を強く握り締め、着地する。
「・・・びっくりした。」
「大丈夫ですか?少し戻りましょうか。」
沖へ来すぎてしまったかと、譲が戻ろうとした。
だが、望美は興奮気味に沖へ向かう。
「ううん、この感覚大好きなの!もっと沖に行こう!」
「そうですか・・・?」
手を引っ張られて、譲はここ近年の海での望美を何も知らないことに気付く。
昨年まで、将臣はどうしていたのだろうか。
さすがに沖に行っている時までは、見ていなかった。
・・・こんな風に、手を繋いで?
「わぷ・・・」
望美が口まで波に呑まれそうになり、慌てた声を出す。
この感覚が好きだと言う割には、慣れていない感じだ。
「先輩、無理していませんか?」
譲のお節介モードが発動する。
望美は心配そうな譲の声を聞くと、小さく瞳を泳がせてから、恥ずかしそうに言った。
「つかまってもいい?」
「え?・・・ええ。」
どこにつかまるのか分からないまま譲が頷くと、望美は譲の手を離し、譲の胸に手を置いて抱きつくように身を寄せた。
「・・・!」
譲が息を呑む。
波が来て、望美の身体が浮き、その手が譲の肌を撫でるように上下する。
鳥肌が立つ。
望美はどういうつもりでこんな。
・・・俺が正気で居られるとでも?!
譲がオロオロと望美を見下ろす。
だが望美は、頬を染めたまま黙って目を伏せている。
・・・こんな時ばっかりヘンな雰囲気出さないで下さい!
譲がキスしたいとか考えている時に、少しでもこんな雰囲気を出してくれたら、めちゃめちゃ持って行きやすいのに。
今みたいな状況では、エッチとかバカとか言って睨んでくれた方が冷静になれる。
近づいたせいで、いやらしく水を滴らせた望美の胸もとが、譲の裸眼視力でもモロ見えだ。
目のやり場と手の置き場に困ったまま、譲が助けを求めるように周りを見回す。
近くに居るのは、譲と望美なんかよりももっと激しく密着しながら平気で笑いあっているカップルばかり。
・・・どうして平気で居られるんだ?!
譲が心の中で泣き叫ぶ。
また波が来て望美の身体が浮き、お互い戸惑ったような顔を目の前で見合わせてから、望美の身体がまた沈む。
二人の間に流れる気恥ずかしさと気まずさは、明らかで。
だが、望美は離れるでもなく、黙ってヘンな雰囲気を出しているままだ。
大きな波が来て、譲の身体が小さく浮く。
「ひゃ・・・」
望美が頭まで波に呑まれそうになって声をあげたのを見て、譲は咄嗟に望美の身体を抱き上げた。
二つのふくらみを自分の胸に押し付けてしまったことに驚愕して、慌てて腕の力を緩める。
たが、同時に望美が首に腕を回して抱きついてくる。
安堵したような望美の吐息が甘く耳にかかって、一瞬気が遠くなる。
波が去り、望美の上半身が露になっても、譲は望美を抱き上げたままどうしたら良いか分からず動けなかった。
顔は見えないが、望美からも気まずい雰囲気が流れてくる。
次の波が来て身体に当たり、やっと譲が口を開いた。
「あの・・・大丈夫ですか・・・?」
「うん・・・」
望美が頷きながら、腕の力を緩め、すとん、と着地する。
水着一枚隔てただけの望美の胸が、裸のウエストが、身体を滑り落ちる感触。
拷問にしては、気持ち良すぎる。
・・・まずい
一切排除していたはずの妄想が既に譲鍋を満たしている。
譲は超特急で脳内に天使譲を召喚した。
天使譲はキエーと奇声を上げながら譲鍋をひっくり返して中身を空にすると、キリキリと弓を引き絞り、エプロン姿で譲鍋に入れる妄想を準備していた悪魔譲の眉間に矢を的中させる。
やっと冷静になった譲が、口を開いた。
「先輩、そろそろ上がりませんか?」
「え、何で?」
望美が頬を染めたまま顔を上げる。
「何でって・・・冷えは女性の大敵ですし・・・」
中年みたいな事を言い出す譲に、望美は首を傾げる。
「まだ10分ぐらいしか入ってないよ?いつも1時間ぐらい入ってるから大丈夫。」
そう言って、望美は再び譲に寄り添った。
いつも。
ピンク色に霞んでいた譲の頭の中に、サッと黒い影が降りる。
「兄さんとも・・・こんな風にしていたんですか?」
この甘い拷問に、将臣が毎年毎年かけられていたのだとしたら。
悔しさが込み上げる。
譲につかまって波に浮きながら、望美が首を振る。
「ううん・・・いつもイルカ持ってたし・・・」
「あ・・・」
言われてみれば、去年まで、望美はビニールのイルカを持って来ていた。
将臣と望美が着替えている間にイルカを膨らますのは譲の役目と決まっていたぐらいで。
自分が息を吹き込んだものを水着姿の望美が大切そうに抱き締めている姿は、中学生の譲を何とも言えないもどかしい気分にさせたものだった。
「どうして今年は・・・あ、壊れてしまったんですか?」
望美が恥ずかしそうに首を振る。
彼女から発せられたヘンな雰囲気を感じ取り、譲は息を詰めて言葉を待った。
「あのね・・・譲くんにつかまりたかったから、家に置いてきたの。」
「えっ・・・」
そうだ。
あのイルカが自分だったらどんなにいいかと切に願っていたのは、他ならない自分だ。
まさか、望美にも、裸の自分と触れ合いたいという願望があったなんて。
・・・ちょっと待て、計画的犯行だったのか?!
この甘い拷問は、他ならぬ望美の差し金だったのだ。
・・・先輩、やっぱり貴女は残酷な人だ・・・嬉しいけど・・・
心の中で目の幅涙を流している譲に、望美が周りを見回しながら、ぽそぽそと話し出す。
「ほら・・・あんな風に、恋人同士が海の中でいちゃいちゃしてるでしょ?・・・楽しそうだな〜って、子供の頃から思ってたの・・・だから・・・一度やってみたくて・・・」
分かってない。
彼女は、そんなことしたら譲がどうなっちゃうかなんて、全く分かっていないのだ。
だが、どんな事でも、望美の願いを叶えるのは、譲の役目だ。
それに、水着姿の望美に触れたいという思いは譲にもある。
とにかく、邪な事を考えないようにだけ細心の注意を払えばいい。
「えっと・・・じゃあ、こんな感じですか・・・?」
そう言うと、ウイルスソフトのように天使譲を常駐させて、譲は望美を抱き寄せた。
「ん・・・でもなんか、恥ずかしいね・・・」
「・・・ええ・・・」
「あ、そうだ・・・譲くん、このまま抱っこしてもう少し沖まで連れてってくれない?」
「そうですね、せっかくですから。」
望美の頭が自分の頭と同じ高さになるよう抱き上げると、譲が沖へ歩き始める。
「あっ、大きい波!」
望美が可愛らしく慌てた声を上げる。
譲はその言葉を言い訳にして望美を強く抱き寄せる。
眉間を射抜かれて死んだフリをしていた悪魔譲が顔を上げてキラリと眼鏡を光らせた。
「ひゃ〜」
譲と一緒に大波に浮いて、望美が子供のように気持ち良さそうな声を上げると、譲の首に抱きつく。
地に着かない望美の足が海流に流されて譲の足に絡まる。
悪魔譲がウフンといやらしい笑みを浮かべた。
「やっぱりイルカより譲くんの方がいいみたい!」
耳もとで、望美の無邪気な声。
天使譲が慌てて悪魔譲を殴りつける。
「そうですか?」
「うん!イルカだとずっと浮いてるから、この感覚が楽しめないんだもん!」
そう言うと、望美は嬉しそうに砂浜を見ながら続けた。
「それにね、イルカだと流されちゃうから、こんなに沖まで来たことないの。」
望美が急に譲の肩につかまって身体を伸び上がらせる。
譲の頭より高く身体を浮かせると、望美は沖や岸を見渡した。
「わー!いい眺め!」
譲はと言えば。
目の前に、望美の胸。
・・・わー、いい眺め・・・
吸い込まれそうになって、ぶんぶんと首を振る。
「どうしたの?」
「いえ!何でも!」
「水がかかっちゃった?あ、そうだ!」
望美は顔を輝かせると、浮力を使って体勢を変える。
軽い身のこなしで譲の腕に座り、首につかまった。
「景色がよく見えるから、こうしててもいい?」
望美が譲の顔を覗き込む。
「は、はい・・・」
譲がテンパった顔で頷く。
父親が子供を抱いて運ぶときのような体勢。
望美の身体が海水に浮いているせいで、こんな体勢でもあまり重くない。
だが。
腕に載っているのは望美のお尻で。
「進めー!」
望美は馬に乗ったような気分らしく九郎の口真似などしている。
腕を振ったりするものだから、目の前の胸が小さく揺れる。
「おおー・・・」
戸惑ったような鬨の声を上げて、譲が沖へ進む。
「もっと気合を入れて声を出してよ。そんなじゃ戦に負けちゃうよ?」
「無茶を言わないでください・・・」
譲が情けない声を出す。
今、気合を入れて声を出したら、違う所に気合が入ってしまいそうなのだ。
・・・南無八幡大菩薩、彼の国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願わくは・・・
天使譲が矢を握り締めて必死で精神統一をしている。
譲の背よりも高い波が来る。
望美が腕に乗っているので、なかなか身体が浮かない。
鼻まで波に浸かりながら、腕に乗っている望美を落とさないよう細心の注意を払ってバランスを取り着地しようとする。
そんな譲を見て、望美が慌てて腰を浮かした。
「や、譲くんが溺れちゃう!」
バランスを取っている時に動かれて、譲の身体が傾ぐ。
「・・・!」
「きゃっ!」
譲の腕から落ちそうになって、望美が譲の頭に抱きついた。
バシャ、と海水を被ってから、譲は自分の身に何が起こったのか気付く。
柔らかい胸で鼻と口を塞がれて、息ができない。
苦しい。
けど、離れたくない。
脳内では精神統一だけであっけなく力尽きた天使譲が、舞い踊る悪魔譲に踏み付けられていた。
息苦しさと快感で、頭が朦朧としてくる。
・・・いっそこのまま殺して・・・
望美が聞いたら泣いて怒りそうな事を思いながら、譲が着地する。
ほっと息をついた望美が、慌てて身体を離した。
「ごめんね!苦しかった?!」
譲が深く息を吸ってから、トロンとした顔で言う。
「ええ・・・一瞬天国が見えました。」
「えっ大丈夫?沖に来過ぎちゃったかな?」
「そうですね・・・少し戻ります。」
譲は呆けたような顔のまま、岸に向かって歩き始める。
その様子を見た望美は、心配そうに濡れた譲の前髪をかき上げて言った。
「一度上がろっか・・・水も被っちゃったし・・・疲れたでしょ?」
額を這う望美の手の感触だけで、譲がゾクリと身体を震わせて黙り込む。
「・・・・・・」
「どうしたの?」
「いえ・・・上がるのは構わないんですけど・・・」
そのまま譲は真顔になると、岸へ歩きながら黙ってしまった。
望美が首を傾げながら、譲の真顔を見つめる。
望美の足が地に着くぐらいの場所で、譲は望美を腕から降ろした。
「・・・っ・・・」
望美の肌が身体を滑り、譲が小さく声を上げる。
「・・・?」
望美に見上げられ、譲は慌てて口を開いた。
「あのっ、ちょっと待ってもらえますか?」
「うん。」
望美が頷くと、譲は望美に背を向けて、空を見上げた。
望美が首を傾げて、譲の見ている方向を見てから、譲を覗き込む。
譲は左の掌に右手の指先で何かを書きながら、空を睨みつけてブツブツと何か呟いていた。
「ねえ、何してるの?」
望美が言うと、譲はため息をついて泣きそうな声で呟いた。
「ダメだ・・・最終兵器の複素数が役に立たない・・・」
「え?」
「先輩、すみません、先に上がっていてください・・・俺、頭を冷やしてきますっ!」
それだけ言うと、譲は頭から波に飛び込んで行った。
「譲くん?!」
望美が慌てて追いかけようとしたが、次の瞬間には、整ったクロールがずいぶん先の波間に浮かんだ。
泳ぎが得意じゃないなんて、嘘だ。
望美は、なぜ嘘をついていたのか、戻ってきたら問い詰めよう、と腕組みして譲を見送った。
全速力で遊泳区域終了のブイまで泳いで頭と身体を冷ました譲が海から上がってくる。
眼鏡がないので目を細めて望美を探すと、望美は波打ち際に座り込んで砂を掘っては積み上げていた。
望美の右側には小さな水溜り、左側には砂の山。
通り過ぎる男達がチラチラと望美を見ているが、あまりにも子供っぽい行動に、声を掛け損ねている。
砂浜で色っぽく寝そべったりしていたら、今ごろナンパされていただろう。
「独りにしてすみませんでした。」
望美を見る男たちをジロリと睨んでから隣にあぐらをかいた譲の膝に、望美は黙ったまま掘っていた砂をペチャリと載せた。
「うわっ・・・」
譲が驚いて声を上げてから、望美の可愛すぎる抗議に頬を緩ませる。
「なにニヤニヤしてるの?」
望美が憮然とする。
「・・・すみません、先輩は怒ってるんですよね。」
笑みを浮かべたまま言うと、譲は小さく砂を掬って望美の膝に垂らし、控え目なお返しをした。
「そうだよ。譲くんが嘘ついてたから。」
「え・・・」
譲がギクリとする。
邪なことを考えていたのがバレたのだろうか。
望美は両手で砂を掬うと譲の腿にベタベタと塗りつけながら言った。
「泳ぐのが得意じゃないなんて、嘘でしょ?」
「あ・・・いえ・・・そんなことは・・・」
望美が手を止めて、譲の腿に手を載せたまま譲の顔を覗き込む。
「嘘。将臣くんと同じくらい速かったもの。それに、自己流の将臣くんより型がキレイ。スイミングに通ってる子みたいだった。」
「・・・・・・」
「どうして?本当は海が嫌い?」
「・・・・・・」
望美にじっと見つめられて、譲は黙ったまま小さく首を振る。
「じゃあ、どうして?・・・私、ずっと3人で一緒に泳ぎたかったんだよ?」
真摯な望美の瞳に射抜かれて、目を逸らせない。
いや、ここで目を逸らしたら、疑われてしまう。
どう言えば。
他の理由を探そうとして、譲は思い直す。
・・・また逃げるのか、俺は?
3人で一緒に泳ぎたかったという望美の言葉。
望美に嫌われたくないが故に望美から逃げていた譲は、結局望美を悲しませていたのだ。
これ以上、嘘を重ねたくない。
だが。
邪なことを考えていたとは、言えるはずもなく。
だから。
少しだけ勇気を出して、その根本にある、気持ちを。
砂だらけの望美の手を握って、譲は初めての告白のように言った。
「・・・貴女を、好きだったからです。」
望美が息を呑むと、頬を染めて目を伏せる。
可愛らしい。
自分の言葉が望美をこんな風にしたことに、譲は妙な高揚感を覚える。
「分からないよ・・・そんなの・・・」
甘みを帯びた望美の声に、気温が2度ほど上がったような気になる。
この暑い空気は、二人の間に流れる雰囲気のせいか、照りつける日差しのせいか。
高揚感も手伝って、譲が熱に浮かされたような声を出す。
「どうして・・・俺が子供の頃から貴女のことを好きだったのは、もう知っているでしょう・・・?」
「ん・・・知ってるけど・・・違うの・・・好きだから一緒に泳げないなんて、分からないよ・・・」
望美から発せられる甘い雰囲気に酔ったまま、譲は望美に少しだけ顔を近づける。
「貴女に・・・触れたくなってしまうから・・・」
望美がかあっと真っ赤になると、慌てて譲の手を振り解く。
意味もなく砂を掘って山を作る作業を再開すると、怒ったように言った。
「信じらんない!私の水着姿を、そんな目で見てたの?!」
譲が水をかけられたように甘い雰囲気から目を覚ます。
「えっ・・・あ・・・すみません・・・」
しゅんとしてしまった譲を見て、望美がしまったという顔をする。
だが、素直になれないまま、望美は小さな声で言った。
「・・・もしかして、今も?」
「すみません・・・今年の水着は特に・・・辛いぐらいで・・・」
譲が俯いたまま頬を染めて、傍らの砂山にぷすりと人差し指を挿し込んだ。
望美も照れたまま唇を尖らせる。
「辛いって言われても・・・譲くんに可愛いって褒めてもらいたくて買ったのに・・・」
それを聞いた譲はモジモジと砂山にトンネルを掘り始めながら口を開く。
「・・・っそれは・・・あの、もちろん可愛いですし・・・すごく嬉しいんですけど・・・何て言うか・・・そのせいでイロイロと我慢を強いられると言うか・・・」
「エッチなんだから・・・」
望美の言葉に、譲はまた怒られるのかと手を止めた。
「・・・我慢しなくていいのに。」
そう続けて、望美が立ち上がる。
「え・・・」
譲が望美の言葉に驚いて顔を上げた。
首の後ろの紐が誘うように海風に揺れている。
海の方を向いたまま、望美は頬を染めて言った。
「また沖まで連れてって・・・あそこなら人が少ないから、キスしても見られないよ、きっと・・・」
慌てて立ち上がろうとしていた譲が、ベチャと砂に両手をついて項垂れる。
・・・あの状況でキス?!
そんなことしたら、今度こそどうなるか分からない。
ああ、でもキスはしたい。
それも、海の中で抱き合いながらキスだなんて、映画みたいにロマンチック。
このチャンスを絶対に逃したくないと譲の中の蟹座ロマンチストサイドが断固主張している。
譲はヨロリと立ち上がった。
先を行く望美を追いかけながら、脳内でグッタリとしている天使譲を叩き起こす。
望美が譲の我慢をキス程度と思っている限り。
甘すぎる拷問は、まだまだ続くのだ。