「保健室」


女生徒がベッドで眠っている事に気付いた譲は、少なからず面食らった。
部活終了時刻の保健室に人が居ると思っていなかったのだ。
それから、その女生徒が思いを告げられずにいる幼馴染である事を知り。
大きく心臓が跳ねる。
「・・・先輩・・・?」
「あれ・・・譲くん・・・?」
思わず呟いてしまった声にも敏く反応した望美は、どうやら眠っていた訳ではないらしい。
気だるそうに起き上がろうとする望美を、慌てて譲が制止する。
「寝ていてください、具合が悪いのでしょう?」
望美のもとへ向かいながら、譲の心が浮き立つ。
ごく自然な形で望美に優しさをアピールできる、千載一遇の機会。
「・・・うん・・・でも、将臣くんに言われて迎えに来てくれたんじゃないの?」
身体を起こしかけた望美が再びベッドに身を沈める。
まただ。
譲は望美が部活終了時刻まで帰らずに寝ていた理由をあらかた呑み込むと同時に、ベッドへ歩み寄る足を止めた。
もう何度となく繰り返されてきた痛い嫉妬。
千載一遇の機会も、結局は将臣絡み。
きっと将臣にさんざん世話を焼かれて望美はここに居るに違いない。
「いえ、兄さんからは何も聞いていません。」
そう言って、譲は強張った顔を見られないよう望美に背を向け、棚の方へ向かう。
「え・・・じゃあ誰に聞いたの・・・?」
譲は思わず苦笑を浮かべた。
譲が自分を迎えに来たのだと頭から決めてかかっている望美。
そんな風に思われているのは、譲にとって喜ぶべき事だ。
「誰にも聞いていませんよ。」
譲は身体を半分だけ振り向けると、不思議そうな顔をしている望美に救急箱を見せながら続けた。
「帰りがけに、部で借りていた物を返しに来ただけなんです。先輩が寝ているとは知りませんでした。」
「そっか・・・てっきり将臣君の代わりに迎えに来てくれたんだと思っちゃった・・・」
望美の声が少しだけ落ち込んだように聞こえたのは、気のせいに違いない。
胸に広がってしまった淡い甘さを打ち消すため、譲は再び望美に背を向けて棚へと歩きながら言った。
「それより先輩、具合は大丈夫ですか? 歩いて帰れないくらい酷いなら、タクシーを呼んで病院に行った方が・・・」
「あ、うん、大丈夫・・・ちょっとお腹が痛いだけだから・・・」
望美にしては歯切れの悪い返答。
救急箱を棚に仕舞っていた譲の手が一瞬だけ止まり、頬が微かに染まる。
月に一度のサイクルで、いつも元気過ぎるほどの望美が嘘のように気だるそうになる日がある。
「・・・っそう、ですか。」
辛うじて、譲にしては素っ気無い言葉を返す。
歯切れの悪い望美と、素っ気無い譲。
お互いに常とは違う相手の様子を知りながら、知らないふりをする、暗黙の了解。
小さく流れた気まずさを振り払うように、譲は望美を振り返って微笑みかけた。
「それなら、俺が送って行きます。ここで寝ているより、家でゆっくり休んだ方が良いと思いますよ。」
もともと望美が生理痛でこんな風に寝込むことは少ない。
将臣も、望美の様子を生理痛と察した上で、しばらく寝ていれば治ると判断したのだろう。
いかにも将臣らしい、大雑把なようで的確な対応。
だが、今回ばかりは流石の将臣も判断を誤ったらしい。
望美の症状は改善していないようだ。
「ありがとう・・・でも・・・将臣くんがもうすぐ迎えに来ると思うから・・・待ってる・・・」
いつもの事と思いつつ、譲は悔しさが拭えない。
望美が自分ではなく将臣を選んだようにしか思えないのだ。
救急箱を仕舞い終わった譲は、音を立てて乱暴に丸椅子を引きずり、望美が寝ているベッドの枕もとへ座り込んだ。
「だったら、俺も待ちます。」
「・・・ごめんね、譲くん・・・」
ごめんと言いつつも、嬉しそうな望美の口調。
多分、望美は譲の行動パターンを熟知した上で、その行動を操作している。
問題は、それが無意識であるか、そうでないか、だ。
「まったく、ずるい人だな・・・」
判断がつかないまま、譲は嬉しそうな望美の顔から目を逸らして呟いた。
どちらにしても、今のところは将臣同様、自分も必要とされているのだ。
そう思うと、思考はどうしても将臣を出し抜きたいという方向へ向かってしまう。
譲は忙しなく立ち上がり、隣のベッドから毛布を持ってくると、半分に畳んで望美の下半身を覆った。
「ありがと・・・」
そして、望美から深い感謝を滲ませた声が漏れることで、自分の思考の醜さに気付かされる。
「いえ、たいした事はしていません。」
譲は暗い顔で答えて、静かに椅子に座り直した。
そんな風に感謝されるほど、自分は望美の症状改善だけを願って行動している訳ではないのだ。
もちろん、今回の酷い生理痛が冷えから来ているのではないかという考えもある。
だが、将臣にはできないような配慮を望美に見せつけたいという醜い思考が50パーセントを超えている以上、望美に礼など言われる筋合いではない。
「弓道って、怪我なんかしないと思ってた・・・」
「え・・・?」
自責の念に意識を支配されていた譲は、望美が何故急にそんな事を言うのか咄嗟に理解できない。
「ほら、救急箱・・・この間の新人戦?」
「ああ・・・ええ、そうです。遠征だったから借りたんですよ。」
望美の言葉が、先ほどの譲の行動に基づいていると知って、譲はやっと笑みを浮かべる。
「正しく指導を受けていれば、まず怪我をする事はないんです。でも、手の内が未熟だと、慣れた頃に弦で顔や腕を打ったりする事があるから・・・特に女子は顔に傷でも残ったら大変ですからね、夏休み前に女子部の先輩が救急箱を借りようって言い出して、俺が管理する係に指名されたんですよ。」
「そっか・・・なんか楽しそうだね・・・譲くん。」
望美が嬉しそうに目を細める。
「えっ、そうですか?」
「うん・・・譲くんがこんなに楽しそうにたくさん話すの、久しぶりに見た気がする。」
「・・・そうでしょうか・・・」
首を傾げながらも、譲は自分が饒舌になっている理由を悟る。
望美とゆっくり話すこと自体が久しぶりなのだ。
あの夏以降、将臣の目が気になるせいか、三人で居ても落ち着かない。
望美と二人きりで過ごすのも、江ノ島の展望台以来だ。
「・・・うん・・・すごく楽しそうだよ・・・」
望美が嬉しそうに、柔らかく自分を見つめる。
具合が悪いせいか、寝起きのようにゆっくりと喋る望美の、とろりと甘い声音。
そんな望美と二人きりで居る事を改めて意識してしまい、譲は思わず顔を覆うように眼鏡を上げた。
望美は、自分が饒舌になっている理由を、どう思っているのだろうか。
「もしかして、譲くん・・・弓道部に好きな人ができた・・・?」
「はあ?!どうしてそうなるんですか?!」
譲が思わず大声を上げ、望美が目を丸くする。
「え・・・どうしてって・・・女子部の子と仲が良いみたいだし、顔の傷を気にしたりしてるから・・・」
「それとこれとは関係ありません。救急箱の事はたまたま指名されただけですし、顔の傷については一般論として言っただけです。」
「あ、ごめん・・・怒った?」
怒りを隠せないままピシャリと言い放った譲に、望美はただ驚いているだけのようだ。
譲は慌てて冷静を取り繕う。
「いえ、別に怒ってなんかいませんよ。」
この狂おしい程の想いを気付いて欲しいかと言われれば、その答えはNOだ。
今の近しい関係を、壊したくない。
だからこそ、想いを告げないまま、幼馴染として傍に居る事に甘んじている。
だが、こうして望美が想いに気付いていない事を改めて見せ付けられると、どうしようもない怒りが湧き上がるのだ。
高校生にもなって、こんなに近しい関係のまま甲斐甲斐しく世話を焼く異性の幼馴染がどこにいる。
再び冷静さを失いそうになり、譲が腕組みをして俯く。
望美はしばらく黙ってその様子を見つめてから言った。
「・・・好きな人、居るの・・・?」
譲がギョッとして顔を上げる。
「な・・・!」
慌てて否定しようと口を開いたが、望美の寂しそうな表情に気付いて息を飲む。
何故、そんな顔をするのか。
「・・・そっか・・・居るんだ・・・」
そう言って、望美は寂しそうな表情のまま、譲から瞳を逸らして天井を見やった。
譲は今更ながら否定が遅れた事を悔やむ。
細心の注意を払って、こういう会話の流れは避けてきたはずだった。
だが、一瞬の表情に、淡い期待に、冷静さを失ってしまい。
いつものように話を逸らす事ができなかった。
次の質問の予測は容易だ。
譲が身体を強張らせる。
何と答えれば。
いや、答えは決まっている。
言えません、と誤魔化せば良いだけのこと。
だが、先ほどの望美の表情がちらついて、心が揺れる。
貴女です、と言ってしまおうか。
そう言ってしまえば、想いが通じるだろうか。
あの表情に、数百分の一の確率に、賭けてしまおうか。
譲の心臓が高鳴る。
望美が天井を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「・・・いいなあ・・・私も好きな人が欲しいなあ・・・」
「・・・・・・」
弄ばれているのかも知れない、と思う時がある。
収まらない心臓の高鳴りを持て余す譲を尻目に、望美はそのまま瞳を閉じてしまった。
毛布で温まったせいか、少し眠くなったのだろう。
譲がどっと身体の強張りを解く。
深く息を吐くと、望美の前髪が小さく震えた。
思わず息を潜めてから、望美との距離の近さに気付いて、思わず目を逸らす。
こんなに近くに望美の顔があるのは、数年ぶりで、戸惑う。
いま抱えている想いが恋だと自覚した頃にはもう、望美の顔など眺める余裕などなくなっていたからだ。
くるくる変わる表情を追うのに必死で。
瞳が合えば見つめていられずに目を逸らし。
眠っていると聞けば逃げるようにその場を去り。
だから、寝顔を見るのも子供の頃以来。
長い睫。
白い頬。
柔らかそうな唇。
吸い込まれるように、譲は望美の唇を見つめる。
誘うような桃色。
触れたい。
無防備な寝顔は、譲の下心を呼び覚ます。
いつも真っ直ぐな光を宿す望美の瞳は、譲の下心を白昼の下に晒すような潔癖さがある。
だが、それが閉じられている今、譲の下心を御すものは、居ない。
今なら、気付かれずに唇を奪えるかも知れない。
譲は振り返ると、保健室の外に意識を向ける。
痛いほどの、静けさ。
再び望美の寝顔を見つめると、譲は意を決して、望美の唇に顔を近づけた。
簡単なこと。
唇と唇を、触れさせればいいだけのこと。
だが、望美の息を感じられるほどの距離から、前に進めない。
もし。
もしも、望美に気付かれてしまったら。
幼馴染で居られなくなる。
今あるささやかな幸福を、全て失う事になる。
「・・・ん・・・何・・・?」
甘い吐息が顔にかかる。
「・・・!」
慌てて姿勢を元に戻しても、もう遅く。
望美が目を丸くして譲を見つめる。
あんなに顔を近づけていたのだ。
何をしようとしていたかなんて、一目瞭然。
譲はジュッと音を立てて頭に血が上るのを感じた。
顔から火が出るというのは、こういう事を言うに違いない。
「あっ、あの・・・違・・・これは・・・!」
脳内が恥ずかしいという思いだけで溢れて、何を言っているのかも自覚できない。
完全にパニックになっている。
「・・・お腹が痛いだけだから・・・熱はないよ・・・」
望美が柔らかく笑んだ。
譲は頭から水をかけられたかのような感覚と同時に自分を取り戻す。
この残酷な幼馴染は、思春期の男女がおでこをくっつけて熱を測るとでも思っているらしい。
安堵と落胆。
自分の醜い下心が望美に知られなくて良かったはずなのに、この奈落の底に落ちるような感覚は何なのか。
「そ、そうですか・・・なら、いいんです。」
混じりあう感情を整理できないままにしては、上出来の回答。
だが、望美は慌てたように身体を起こす。
「ねえ、大丈夫? 顔が赤いけど・・・譲くんの方こそ、熱でもあるんじゃない?」
頬に触れる細い指先の、ひやりとした優しさ。
「・・・っ・・・!」
思っても居なかったところで望美から触れられて、譲は言葉を発する事ができない。
切なさに心臓を鷲づかみにされて、息が止まる。
けれど。
奈落の底に落ちていたはずの心が、一瞬で救い上げられている。
そんな風に、優しくされると。
譲の頭に再び血が上る。
譲は無意識のうちに望美の手首をつかんでいた。
「・・・?!」
驚きを隠せない望美の瞳が、真っ直ぐに譲の心を射す。
譲は。
しばらくその瞳を見つめて。
それから、静かに口を開いた。
「・・・俺のことは気にしないで、先輩はゆっくり寝ていてください。」
なるべく不自然にならないよう、震える手を望美から離し、椅子から立ち上がる。
「・・・あ・・・でも・・・」
望美も我に返ったような声を出してから、何か言い募ろうとする。
譲はそれを無視して、窓際へ向かった。
これ以上、望美のそばに居たら、何をしでかすか分からない。
「遅いな・・・兄さん・・・」
ポケットに手を入れて窓の外を見るふりをしながら、譲は先ほど湧き上がった衝動に戦慄を覚える。
望美の唇を、奪おうとした。
この関係を、壊そうとした。
「・・・もう・・・譲くんはいつもそうやって無理するんだから・・・」
ベッドで望美が可愛らしくぼやいている。
将臣はまだ、迎えに来ない。



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