「勝」
譲は、部屋の中で立ったり座ったりしていた。
先ほどから、赤ん坊の泣き声がひっきりなしに聞えてくる。
どうやら産まれたらしいが、それにしても泣きすぎる。
そういうものなのだろうか。
何か異常でもあるのではないか。
今すぐにでも行って様子を見たいが、それもままならない。
血の穢れがあるとかで、産婆が良いというまでは産室に近寄れないらしい。
非科学的な、と思いつつも、譲は渋々それに従っていた。
自分がここに存在していること自体が非科学的すぎるのだ。
しずしずと衣擦れの音が聞えて、譲は慌てて座り直す。
「失礼いたします。」
入ってきた女房がゆっくりと座し、頭を下げた。
「おめでとうございます。お世継ぎのご誕生にございます。」
大分慣れたが、貴族特有のスローモーな動作は、現代育ちの譲を時々イライラさせる。
「うん。それで、もう先輩には会ってもいいのか?」
返事も早々に問われ、女房が身じろぎをした。
異世界から来たという若き当主は、子供が男児であったことなど、どうでも良いらしい。
神子様大事の当主であるのは重々承知しているが、それ故に。
どう説明すれば、落ち着いて聞いてもらえるだろうか。
「・・・神子様は・・・」
女房が言い澱んでいるのを見て、譲の顔色が変わった。
いきなり立ち上がると、座したままの女房の横をすり抜けて部屋を出て行く。
「御館様!今しばらくお待ち下さいませ!」
慌てたような女房の声を背中に聞いた途端、譲は望美が居る部屋へ駆け出した。
近づいてくる赤ん坊の泣き声が、悲痛なほどだ。
先ほどから泣き続けているのは、望美に何かあったからなのではないか。
「先輩!」
譲が部屋に駆け込むと、横たわる望美の足元に居た産婆が驚いたように振り向いて言った。
「なりません!血の穢れが!」
「この人のどこが穢れているって言うんだ?!」
譲の剣幕に産婆が怯えて黙る。
言い放ったまま譲は望美の顔を見た。
血の気が失せて青白くなった望美は、眠るように目を閉じている。
まさか。
「・・・せん・・・」
震える声を絞り出すと、望美がうっすらと瞳を開いた。
「・・・ず・・・くん・・・?」
「先輩!」
かぶりつくようにして枕元に跪くと、望美は再び瞳を閉じて言った。
「・・・ゆ・・・んに・・・似て・・・しょ・・・っと・・・たま・・・い子・・・」
切れ切れに呟かれる言葉は、望美が現在の状況を把握していない事を物語っている。
うわ言だ。
望美は自分に何が起きているか分からないまま、朦朧とした頭で譲に語りかけようとしているのだ。
産婆を振り向くと、震えながら平伏している。
その横の桶には、鮮血をたっぷりと吸った、おびただしい量の布。
泣いている。
この世の終わりが来たかのように、赤ん坊が、泣いている。
***
「血が止まらない時、ですか?」
薬草をすり鉢ですりつぶしていた弁慶が、不思議そうに顔を上げた。
「ええ、止血できないような、例えば頚動みゃ・・・その・・・首とかに傷を負った場合、この世界では、どう対処するのかと思って・・・止血できないまま放置したら、死んでしまいますよね?」
縋るように言った譲の言葉に、弁慶は目を丸くした。
戦が終わり、以前の様に京で薬師として過ごし始めて久しい。
八葉の神通力があった頃のような、瀕死の人間を救える力はもうないが、逆にそんな大きな怪我を見る事もずいぶん減った。
陣でも食事担当で、あまり怪我の手当てなどには興味を持たなかった譲が、なぜ今頃になってそんな事を言い出すのか。
弁慶は薬草の入った籠とすり鉢を脇へどけると、譲に向き直って言った。
「詳しく聞かせてくれませんか。望美さんの事なのでしょう?」
***
「今までどおりの話し方でいいのかな?」
景時がポリポリと頬を掻いた。
「もちろん、そうして下さい。」
譲が頷いても、景時は言いにくそうに続ける。
「でもさ、家督を相続したってことは、官位も貰ったんでしょ?」
「ええ、まあ。まだ宮仕えには慣れませんけど。」
「そうだろうね〜。狸やら狐やらがいっぱいいそうだもんな〜。」
景時が小声で言って、あからさまにうすら寒いという顔をして見せる。
「今のところは何とかなってますよ。もしかして、その事で何か?」
「いやいや、そうじゃないんだ。譲くんの事。」
「俺の事ですか?」
譲が目を丸くすると、景時はしばらくキョロキョロとあらぬ方向を見たりしてから、意を決したように言った。
「嵐山の貴族が呪詛をしているらしいっていう相談があったんだけど、どうやら譲くんの事みたいなんだよね〜。朔も心配してるしさ〜。オレもこの手の相談が増えるのは不本意なんだよ〜。」
「なるほど、獣の肝で呪詛ですか。」
譲が挑戦的に言ったのを見て、景時は慌ててまくし立てた。
「あ、もちろん、上手く説明しといたし、どうしても肝が食べたいって言うならしょうがないんだけどね、うん。」
譲は景時の言葉を聞いていないかのように、ふと何かを思いついたような顔で言った。
「景時さん、この世界では、陰陽師も怪我や病気の治療をするんでしたよね?」
***
小さな灯火の下で、譲は一心に文字を書いていた。
A4程度の大きさに切った紙に、慣れない筆で大きく文字を書く。
何枚も。
何枚も。
外から聞こえてくる虫の声が、譲の集中力を高めていく。
ピシ、と床板の鳴る音がして顔を上げると、部屋中に散らかっている紙を望美が拾い上げていた。
「勝つっていう字?」
一瞬だけはっとした顔をした譲だったが、すぐに笑みを作る。
「・・・起こしてしまいましたか?」
「ううん、眠れなかったの。胃がもたれちゃって・・・ねえ、譲くん、レバニラやめた方がいいんじゃないかな?朔がね、『獣の肝をあんな風に探し回ったら悪い噂が立つんじゃないかしら。』って。」
譲は、再び文字を書き始めると、素っ気無く言った。
「その件なら少し前に景時さんから聞きました。まあ、近所の人に何を言われようと、やめる気はありませんけどね。それより、味はどうでしたか?食用に育てられた牛じゃないせいか、なかなか臭みが取れなくて。」
「大丈夫、味が違う気はするけど、美味しいよ。でも・・・いくら妊婦にレバニラがいいからって、食べすぎも良くないんじゃないかなあ?」
言いながら、望美は最近になって急に膨らんできたお腹をさする。
「栄養バランスなら考えてますよ。胃がもたれるようなら・・・そうですね、次は大根サラダと一緒に・・・梅雨入り前に蒔いた大根がそろそろ食べられるでしょうから・・・」
「ふうん?」
望美は首を傾げると、先ほど拾い上げた紙を見て言った。
「譲くん、また悪い夢を見てるんじゃないの?」
譲の筆がぶれる。
「・・・どうしてですか?」
書き損じた紙を丸めながら、譲は努めて冷静に返した。
「だって、あまり眠れてないみたいだし・・・そうじゃなければ、陰陽師でも始めたみたい・・・景時さんと、何の相談してきたの?」
そう言って、望美は部屋中に散らかった"勝"の字を気味悪そうに見回した。
譲が苦笑を浮かべる。
真夜中に起き出して、ただ"勝"という字を一心不乱に書き続けている自分は、端から見れば精神を病んでいるかのように見えるだろう。
譲は筆を置くと、小さくため息をついて言った。
「たいした事では、ないんです。」
望美が不安そうに譲の隣へ座る。
「どんな夢?」
「今は言えません。」
「でも・・・」
「大丈夫ですよ。俺を信じてください。あの時も言ったでしょう?俺は、どんな運命にも打ち勝ってみせるって。」
そう言って、譲は近くにあった紙を拾って、望美に見せた。
大きく書かれた、"勝"の字。
「俺の決意表明だと思ってください。そういう意味では、呪いのようなものかも知れませんね。」
そう言った譲の表情に、昔見た陰りはない。
望美はほっとした顔で言った。
「うん。信じてる。」
だが、望美の微笑みに、譲は笑みを返さなかった。
熱を帯びた瞳。
作られた沈黙。
口付けを、強請っているのだ。
望美が照れくさそうな顔になってから、譲の膝に手を置く。
悪阻の惨状を見てからというもの、譲はこんな風に口付けを望美の意思に任せている。
したくない気分の時もあるでしょうから、と。
だから、望美はその瞳の熱に気付かない振りをしても良いのだ。
けれど。
どこか強引なその瞳に見つめられると。
「キスして・・・」
望美が熱に浮かされたような声で言えば、譲が呪縛を解かれたように唇を貪り始める。
譲の手中にあった紙が、抱き寄せた望美の背中で皺になった。
「・・・ん・・・」
望美から気持ち良さそうな声が漏れる。
身体が火照らない内に譲が唇を離すと、望美が小さな声で言った。
「・・・続きも、しよう・・・」
譲が首を振る。
「どうして・・・?」
「何かあったら困るでしょう。100%大丈夫という保障がなければ、俺はしませんよ。」
「でも・・・この間、ヒノエ君がうちに寄った時に・・・」
そこまで言って、望美は口ごもった。
ヒノエという言葉が出た途端、譲の顔が強張ったのだ。
望美も、譲がヒノエに対して友情以上にライバル心を抱いているのはよく知っている。
「ヒノエが何て?」
望美が口ごもったのを見た譲が、手に持っていた紙を両手で丸めながら続きを促した。
仕方なく、望美は言いにくそうに口を開いた。
「あのね・・・『譲は貴族様のお仲間入りしたってのに、他の姫君と遊んだりしないらしいね。望美はその身体で毎晩お相手しているのかい?』って。」
「ヒノエの奴・・・余計な事を・・・」
譲が盛大にため息をついて、丸めた紙を傍らに放り捨てる。
「もちろん、いつもの冗談だって分かってるけど・・・やっぱりちょっと、気になっちゃって・・・」
顔を赤くして上目遣いをする望美の髪を撫でて、譲は慰めるように言った。
「俺のことなら大丈夫です。それより先輩は自分の身体を大事にして下さい。お腹の赤ちゃんの為に、眠れなくても横になって・・・今夜はもう遅いですから。」
「・・・うん。」
望美が渋々頷くと、譲は望美から身体を離して再び筆を取った。
「おやすみなさい。」
促すような譲の言い方に急かされて、望美が立ち上がる。
「・・・おやすみ。」
譲は再び字を書き始めてからふと顔を上げると、"勝"という字を踏まないようにしながら部屋を出て行く望美の背中に言った。
「あ、そうだ・・・先輩、赤ちゃんの名前ですけど・・・俺につけさせて貰えませんか?」
***
赤ん坊が、ひっきりなしに泣いている。
望美は横になったまま、泣き声に負けないよう声を張り上げた。
「譲くんに似てるでしょ?きっと頭のいい子だよ!」
「そうですか?この元気の良さは先輩でしょう?」
譲も負けずに声を張り上げる。
「そうかな?さっきお産婆さんに聞いたら、お腹が空いてるだけだって。まだ、私のお乳が出ないから。」
それを聞いた譲が目を伏せて微笑んだ。
「ああ、先輩に似て食いしん坊なんですね。」
「もう・・・!」
怒ったように言いながらも、望美が晴れやかに笑う。
弁慶と譲が、景時まで巻き込んで開発した止血効果のある薬湯は、見事に望美を救った。
レバニラも少しは功を奏したのだろう、それなりに出血もあったらしいが、望美の顔色は良い。
「名前、決めてくれた?」
「ええ。」
譲は、懐から紙を取り出すと、広げて望美に見せた。
"勝"の字。
「これって・・・」
「ええ、一番上手に書けたものを保存しておいたんです。」
「あの時から、そのつもりで?」
「男の子なのは、夢で見て知っていましたから。」
「そっか、それで秘密だったんだね・・・何て読むの?」
「まさる、です。」
「まさる・・・」
望美は口の中で言ってから、にっこりと微笑んだ。
「譲くんと将臣くんを合わせたみたいな名前だね。」
「ええ・・・」
微笑んで頷いてから、譲が真顔になった。
「・・・多少は兄さんみたいに身勝手になってもらおうかと思って。」
「ええっ?譲くん、そういうの嫌いじゃなかったの?」
望美が目を丸くする。
「そうですね。昔は・・・」
譲はそう言うと、しばらく黙って、子供の泣き顔を見つめた。
そして、まだ不思議そうにしている望美を見て、再び口を開いた。
「・・・俺はずっと、自分の名前が嫌いでした。」
「どうして?」
「俺にだって、譲れないものがあるんだ、と思うことが、一度や二度じゃありませんでしたから。」
望美を見つめる譲の瞳が熱を帯びる。
望美が照れくさそうな顔になると、譲は小さく笑んで、続けた。
「だから、この子には・・・」
望美が頷いて、譲の言葉を繋ぐ。
「・・・勝ちに行って欲しいんだね。」
「ええ。先輩が教えてくれたことです。運命を、勝ち取ること。」
「うん。」
望美が幸せそうに微笑む。
それを見た譲の中に、強い達成感が湧き上がった。
この数ヶ月、寝不足を押して奔走し、勝ち取った幸せがここにある。
譲が久々に自ら望美へ顔を近づけようとすると、望美が慌てたように言った。
「だ、だめだよ、勝が見てる・・・」
譲が動きを止めて勝を見る。
相変わらず、泣き続けている。
だが、その声は、夢の中で聞いた声と違い、この世の終わりのような響きを持たない。
どこか、甘えたような。
「・・・譲らないからな。」
譲はそう呟くと、泣いている勝の目を手で覆って、再び望美に顔を近づけた。