「約束の束縛」
放課後の廊下は、話し声がよく響く。
「・・・やっぱり春日さん、子供いるんだって。」
「えっ・・・じゃあ先輩達が言ってた休学の理由ってホントだったんだ?」
「へ?過食症じゃなかったの?尋常じゃない量のお弁当食べては全部吐いてたって噂でしょ?」
「それ、悪阻らしいよ。」
「じゃあ、父親が有川君っていうのも?」
「ホントなんじゃない?」
「私は本当だと思う。一年の時に同じクラスだったけど、急に部活やめてバイト始めたの、たぶんその頃だよ。」
「でもさー、休学して産むくらいならさー・・・」
「うん、私も思った。有川君のバイトだって養育費ってやつでしょ?彼氏にそんな苦労かけるの嫌じゃない?」
「そうそう。私だったら普通に堕ろすって。」
教室に残っている生徒達にも、その小声は漏れなく届いているのだろう。
聞いていないフリをしながら、生徒達は哀れみや好奇の入り交じった視線をそれとなく譲に向ける。
譲もそれに気付かぬフリで身支度を終えると、教室を出て会話の主を追いかけ、追い抜きざまに言った。
「聞えてるよ。」
分かるはずもない。
望美がどんな思いで譲の子を宿したか。
分かって欲しいとも思わない。
だが。
譲は少し歩いてから急に振り向いて、悪戯を見つかったような顔を見合わせている女生徒達と、聞き耳を立てているであろうクラスメート達に言った。
「誤解のないように言っておくけど、春日さんに休学してでも産んでくれって頼み込んだのは、俺だから。」
絶句する女生徒達をそのままに、譲は早足で立ち去る。
望美が悪く言われることだけは、許せないのだ。
・・・あと一年。
もうすぐ、この居心地悪く無駄の多い学生生活から抜け出せる。
少なくとも高校は必ず卒業すること。
両家の親との約束が、果たされる。
そうしたら。
そうしたら、すぐに。
「有川。」
階段を降りている途中に後ろから声を掛けられて、譲は顔だけ振り向いた。
「・・・俺に何か?」
譲に声をかけた進路指導担当の教員は、譲の冷たい声音に一瞬怯んでから、言いにくそうに口を開く。
「昨晩、お母さんと電話で話したんだけど・・・」
「そうみたいですね。聞きました。」
「説得してくれって泣きつかれてしまったよ。」
これ見よがしにわざとらしいため息をつくと、教員は二階の教室のドアを開けて、誰も居ないのを確認してから譲を手招きした。
「俺、これからアルバイトがあるんです。」
「少しだけだから。」
「何を言われようと俺の意思は変わりません。」
にべもなく言い切った譲に、教員は困り果てた顔で鼻の頭を掻いた。
「・・・有川もさ、俺の年になったら分かるよ。少年老い易く学成りがたし。勉強はね、できる時にしておかないと。」
二階の踊り場と階段の途中でやり取りされるには、込み入った話。
下校する生徒達が、興味津々という顔で譲の横を通り過ぎていく。
譲は仕方なく、教員の居る二階の踊り場まで階段を登りながら返した。
「大学に行くことだけが勉強ではないでしょう?」
「でもさ・・・もったいないじゃないか・・・この成績なら、難関私大の推薦だって欲しいままなのに・・・」
教員が手にしていた資料らしきものを開くと、指でトントンと叩きながら続ける。
「・・・こんな高成績をキープするのは、並大抵の努力じゃなかったはずだよ?」
「俺は、大学に行きたくて頑張っていたわけじゃないんです。」
譲が初めて表情を緩める。
譲の心が全くつかめない教員は、半ば呆れたように言った。
「じゃあ、どうしてさ?」
「好きな人に、振り向いて欲しかったんです。」
そう言って自嘲的に微笑んだ譲を、教員は哀れむような顔で見る。
「・・・事情は担任から聞いてるよ。」
この一年間、何度も見てきた、赤の他人の薄っぺらい哀れみ。
幸せなのに。
二人は、とても幸せに産むことを選んだのに。
譲は小さく怒りを滲ませる。
「だったら・・・」
「子供の幸せのためにも、最良の大学を出て、最良の企業に就職した方が、いいんじゃないかな?」
すかさず教員が畳み掛けるように言った。
「・・・・・・」
譲が黙る。
だが、それは一瞬だった。
譲は突然、床のタイルに膝をつくと、教員に頭を下げた。
「先生、お願いします。その内申書を使って、高卒ででき得る、最良の就職を。」
「あ、有川・・・!」
教員も慌てて膝をついて、譲の身体を無理矢理起こす。
「・・・そんな事しなくていいから、分かったから・・・」
抵抗もせずに譲は顔を上げるが、睨むようなその表情にはなおも固い意思が現れている。
「あーあ、難関校の進学実績資料として最高なのになあ・・・教頭がうるさいぞ・・・」
教員が、今度は演技ではないため息を吐いたのを見て取ると、譲はやっと本当の微笑みを見せた。
「・・・学生として最後にお世話になる先生が、あなたのような人で良かったです。」
帰宅した譲は、着替える時間ももどかしく台所に入り、昨晩作っておいた菓子を仕上げると家を出た。
隣家のインターホンを押せば、望美の簡単な返事と同時に、門の自動ロックが開く。
何かを届けるという理由がなければ、我が子の顔を見ることもできない生活。
譲はほとんど毎日、アルバイトの合間を縫って菓子や惣菜を作り、届けている。
玄関を入ると、リビングから数人のはしゃいだ声がした。
「きゃあ〜!飲んだ飲んだ!」
「なんか嬉しそうな顔してない?」
「うん、かっわい〜い!」
望美の友達が来ているらしい。
別室から顔を出した望美の母に会釈をして、譲がリビングを覗き込む。
「こんにちは。」
見ると、制服姿の女生徒が数人、望美の腕の中で哺乳瓶を吸う赤ん坊を覗き込んでいた。
譲は少なからず驚く。
4月から復学して半月も経っていない望美に、家に呼ぶほどのクラスメートが居ると思わなかったからだ。
「あ、ほら、パパが来たよ。」
「あははっ、有川君がパパだって、変な感じ〜。」
黙って首だけ振り向いた望美よりも早く、女生徒達が口々に勝手なことを言う。
譲はその中で気まずそうに顔を上げない女生徒が居るのに気付いた。
先ほど見たばかりの顔だ、忘れるわけもない。
望美の陰口を言っていた女生徒の一人。
譲は一瞬だけ固まったが、すぐに笑顔を作って女生徒達に言う。
「・・・丁度良かった。ミルクプリンを作ってきたんだ。多めに作ってあるから人数分あるよ。」
すぐに、耳をつんざくほどの声が上がった。
「きゃ〜っ、やったぁ!」
「いいなぁ〜!私もプリン作ってくれる彼が欲しい〜。」
「春日さんは幸せだね〜。」
ほんの微かな違和感。
女生徒達の様子にわざとらしさを感じた譲は、すぐに台所へと引っ込む。
本当は、赤ん坊がミルクを飲むそばで、あまり大きな声を上げないで欲しいのだ。
けれど、もともと女生徒達がそんな気遣いをするような、赤ん坊を慈しむ気持ちでこの家に来たようには見えなかった。
陰口を言っていた女生徒まで混じっている始末だ。
望美に子供が居ると知って確認しに来た、ただの物見高い連中か。
それでもどこか冷めた顔で、譲はバットのミルクプリンを皿に盛りつけている。
見せ物のような目で見られることには、だんだん慣れてきた。
いちいちそれに怒りを向けることが不毛だということも、分かってきた。
見せてやれば良いのだ。
自分達は、心から幸せな選択をしたのだから。
譲が人数分の皿をトレイに載せて台所を出る。
リビングのテーブルにトレイを置くと、再び大袈裟な歓声が上がった。
赤ん坊にミルクを飲ませているため動けない望美などあっさりと放って、女生徒達はそれぞれソファに陣取る。
譲は女生徒達に丁寧な動作でプリンを配ってから、ミルクを飲ませる望美の横に膝をついた。
「ありがとう。」
望美がほっとした顔で譲を見上げる。
どうやら望美の方も、少々デリカシーのない来客に困っていたようだ。
「うん。」
譲もそれに答えるように笑顔を返し、それからミルクを飲む赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「良い子にしてたって?」
唯一の生きる糧を得るため一生懸命なその表情を見れば自然、食事を邪魔すまいと囁くような声になってしまう。
「うん、今日はよく寝てくれたみたい。」
一日のうち、ほんの少ししか交わせない夫婦としての会話。
けれど、譲は女生徒達がプリンを食べながら聞き耳を立てているのを感じている。
「・・・今日のおやつはミルクプリンとプルーンのソースにしたんだ。カルシウムと鉄分をちゃんと摂って、今夜は良い母乳を出してあげて。」
言いながら赤ん坊の小さな足を優しく撫でると、赤ん坊が迷惑そうに足を引っ込めた。
食事を邪魔すまいと思っているのに手を出したくなってしまう、愛しさ故のジレンマ。
申し訳なさそうでもあり寂しそうでもある譲の様子を見ながら、望美はクスクスと笑って答える。
「そうするね。」
女生徒達には絶対に分かるまい、小さな、小さな幸せが、二人を強く結びつけている。
静かに微笑み合ってから、譲は立ち上がった。
「じゃあ俺、バイトに行ってくるから。」
「行ってらっしゃい。」
座ったまま見送る望美に頷いて、譲は女生徒達に向き直る。
「ごゆっくり。」
女生徒達がはっとして居住まいを正した。
聞き耳を立てていたことに少なからず罪悪感を覚えているのか、それとも。
「あ、ありがとう、有川君。」
「そうそう、プリン美味しいよ。」
「う、うん、バイトも頑張って。」
譲は急にしおらしくなった女生徒達に苦笑して、軽く手を挙げて返すとリビングを出た。
背中に、先ほどに比べてずいぶん小さくなった女生徒の声。
「ねえ春日さん、有川君が部活やめてバイトしなきゃいけないほど、赤ちゃんってお金かかるの?」
見物人にしては殊勝な質問に、思わず小さく吹き出す。
同時にクス、という望美の笑い声。
「ううん、赤ちゃんのミルク代とかは、卒業するまで親が出してくれる約束なんだ。」
「え、じゃあ・・・」
「卒業したらすぐにでも一緒に暮らすんだって・・・譲くん、引っ越し資金を貯めてるの。」
何を思うのか、女生徒達に返答の声はない。
「・・・私も、早く譲くんとこの子と、本当の家族になりたいんだ。」
続けて言った望美の幸せそうな声を聞きながら、譲は春日家の玄関を静かに閉めた。