10:最後の日に、ささやかな約束を
こんなもんなんだ、と望美は意外に思っていた。
卒業式が終わった後にはもう、最後のホームルームがあるだけで。
それが終われば卒業生は、三々五々、写真を撮ったり別れを惜しんだりしながら、家路につくだけ。
中学校の時の方が、もっと長い間、友達と喋っていたような気がする。
戻ってきた教室に誰も残っていないのを見て、望美はもう一度、こんなもんなんだ、と思った。
もちろん、この日に想いを伝えようとする男女はきっとどこかに居るはずで。
だが、望美が思っていたような、そこかしこで告白タイムの嵐、というような光景は見られなかった。
在校生のホームルームは、まだ終わっていないらしい。
後輩に想いを伝えたい先輩や、先輩に想いを伝えたい後輩は、事前に何らかのアクションを起こさないと、お互いを捕まえられないことになる。
望美はぼんやりと、きっと、大切な言葉を言えないまま終わってしまう恋もあるのかも知れない、と思った。
親友達は、カラオケボックスで待ってるから、と言って先に帰って行った。
望美には、言わなければいけないことがある。
だから、譲の下駄箱に『教室で待ってます』と書いた紙片だけ、置いてきた。
どんな顔をして待っていれば良いのかも分からず、望美は高鳴る心臓を抑えられないまま、窓の外を見ていた。
本当に、どんな顔をすればいいのか、分からない。
あんな告白をされた直後で、どう応えれば良いのかも、全く分からない。
ただ、ただ、嬉しくて。
譲を好きだという気持ちが、溢れそうで。
「先輩・・・」
小さく呼ばれて振り向くと、教室の入り口で、譲が遠慮がちに立っていた。
その姿を見た途端、望美に切なさと涙が急激に込み上げる。
譲がそれに気付いたらしく、焦った顔をした。
望美が泣きながら譲に駆け寄ろうとすれば、同時に譲もカバンを放り捨てて望美を目指して。
二人は、教室の真ん中で、お互いに到達する。
抱き付いて、抱き締められて。
望美は何も言えないまま、ただ溢れる気持ちを涙に変えて、嗚咽を漏らした。
「すみません・・・こんなことになるなんて、思わなくて・・・先輩だけに伝わるように、書いたつもりだったんです。」
涙の理由を誤解した譲が、困り果てた声で言いながら望美の髪を撫でる。
そんな風にされると。
「いっぱい、からかわれた・・・」
望美は心にもないことを甘えた声で言って、譲に強く抱き付いた。
「す、すみません・・・」
譲が更に困った声で、望美を強く抱き締め返す。
「その・・・俺も・・・知らない奴にまで、からかわれました・・・」
けれど、そう言った譲は、少し嬉しそうだ。
「バカ・・・」
望美だってそんな譲が嬉しいのに、口からは素直じゃない悪態が出る。
「はい。本当に、大失態です。」
それに引き替え譲は、いつも望美の悪態に従順で。
むしろ爽快そうなその言い方は、譲が全く後悔していないことを示している。
望美は譲の胸に顔を埋めると、小さく呟いた。
「・・・嬉しかった。」
「え?」
聞き取れなかったらしく、譲が間抜けな声で聞き返す。
望美は涙を手で拭ってから顔を上げると、間近で譲を見つめて言った。
「嬉しくて、泣いてるんだよ。」
「え・・・」
譲が意味を飲み込めないまま小さく言葉を発して、それから一瞬遅れて息を飲む。
「すごく嬉しかった。最高の送辞だったよ。」
言っているうちに、望美の瞳からは、再び想いが溢れてしまう。
やっと全てを理解した譲は、驚きから喜びに表情を変えると、唇で望美の涙を拭った。
そのまま譲の唇が、望美の唇へ、そっと移動しようとする。
「ま、待って・・・」
望美は慌てて身体を離すと、キョトンとする譲に向かって居住まいを正した。
「私も、譲くんに言わなくちゃいけないことがあるの。」
譲はキョトンとしたまま、小さく頷いて望美の言葉を待つ。
望美は気を付けをして、一息に言った。
「譲くんの第2ボタンを、私に下さい!」
それを聞いた譲が、泣きそうな笑顔になる。
その表情が意味するものは、きっと、望美の涙と同じで。
「はい・・・喜んで。」
譲は胸の奥深くから出したような声で言って、学ランのボタンに手をかける。
「あ、違うの・・・」
望美は慌ててその手に自分の手を重ねてそれを止め、続けた。
「・・・予約でいいの。来年の卒業式に、要らなくなったら貰うから。」
「そうですか?」
譲は少し残念そうな顔をしたが、望美は頷いて念を押す。
「だから、約束して。他の女の子に、あげたりしないって。」
譲はそれを聞くと、嬉しそうに目を細めて、望美の背中を抱き寄せた。
「当たり前です。予約がなくたって、そんなことをするつもりはありませんよ。」
言いながら、譲の顔が近づいて。
望美は譲の首に腕を回し、背伸びをする。
そして、二人が交わすのは。
最初で最後の、校内キス。