潔白の花
こんなに長い間、会わずにいるのは久しぶりだ。
譲は2階のベランダから、駅へと続く道路をぼんやりと眺めていた。
携帯電話を開く。
この4日間、何度も開いては閉じているが、望美からはメールのひとつも来ない。
2日目に着信音量を最大に設定しなおしたのだが、そんな事をしたからと言って、望美からのメールや電話が来るわけでもないのだ。
こちらからメールを打とうかと少しだけ操作して、しばらく考えてから、携帯電話を閉じる。
こんな事ばかり、繰り返している。
「譲、何をしているの?」
庭から、母の声。
見下ろせば、取り込んだ布団を抱えたまま、不思議そうにこちらを見上げている。
「別に・・・」
譲は短く答えて携帯電話をポケットに入れると、再び道路に視線を戻した。
「そんな所で見ていたって、望美ちゃんが早く帰ってくる訳でもないでしょうに。」
「っ違・・・!」
慌てて誤魔化そうと庭を見下ろしたが、母の姿は既にない。
「・・・・・・」
母の言う通りなのだ。
日曜日の今日、譲は昼食を終えてからずっと、望美の帰りをここで待っている。
本当は、3年になって初めての中間テストに備え勉強をしなければいけないのだが、全く手につかない。
譲は心配なのだ。
譲の理論で言えば、望美の行き先が沖縄なのがいけない。
こんなトップシーズンに、友達と泳ぎに行くなんて。
開放的になった同年代の虫(男)たちがウヨウヨしているであろう楽園に、水着姿の望美を虫除け(自分)も付けずに放り込んだら、どうなるか。
譲の理論で言えば、ナンパされに行くも同然。
彼氏の居ない友達に気を遣って、あるいはナンパと気付かず、チャラチャラした男達と食事でもしているのではないか。
食事だけで済めば、まだいい。
お酒でも飲まされて、危険な目に遭っていたりしたら。
テスト勉強のため机に向かっていても、考えつくのは問題の解答でなく、そんな事ばかり。
賢明な譲は、望美の沖縄行きを知った時、既にこうなる事を予測していた。
だから譲は、控えめに難色を示すという予防努力をした。
しかし望美はいつもどおり、お願いモードであっさりと譲の"盾"を突破した。
『休講日で連休だし、バイトで初めてのお給料も貰ったし、修学旅行で泳げなかったからリベンジしたいし、どうしても行きたいんだもん。あっ、そうだ!来年は二人で行こうよ!ね、それならいいでしょ?』
来年は二人で行こうという言葉に、クラッときてしまったのが敗因だ。
だって二人で沖縄ってことは星の砂がきらめくビーチで周囲が目を背けるくらいイチャイチャしたあと波音の聞こえるホテルでお互いの焼けた素肌を・・・
「何を考えてるんだ、俺は。」
相も変わらずオトメとオトコが入り混じった妄想。
庭を見下ろしたまま盛大にため息をつけば、鮮やかな白が目に入った。
春先に植えたカラーが、少し早めの花をつけたのだ。
ちょうどこの花を植え付けている時に、望美が訪ねて来て。
しゃがみこんだ譲の後ろから覗き込んで言った。
『何を植えてるの?チューリップ?』
『いえ、カラーという花です。新しい種類に挑戦してみようと思って。』
『ふうん?どんな花なの?』
『先輩のイメージに、ぴったりなんですよ。』
『え・・・』
照れを滲ませた、息を飲むような望美の声を背中に聴いて、思わず口をついて出たのは。
『花言葉は"乙女のようなしとやかさ"です。どうですか、先輩にぴったりでしょう?』
照れ隠しの、意地悪な言葉。
譲が自嘲の笑みを浮かべて振り向くと、望美は頬を膨らませていた。
『もう、からかってるでしょ?!』
いつもそうだ。
想いが通じていたって、気持ちの半分も言葉にできず。
それなのに、怒った顔も可愛いなんて幸せに浸っている。
そうやって、本心はいつも、闇の中。
あの時、望美には言えなかったが、カラーの花言葉は他にもあるのだ。
"愛情"
"すばらしい美"
"夢のように美しい"
譲の想いをそのまま表すような、言葉。
それだけではない。
初夏の庭に溢れる色の中で、凛と浮かぶ、白。
だが、花のように見える白い部分は花ではなく。
中央の芯のような部分が花で。
白い部分は、それを守っているのだという。
触れる事を拒むような、凛と美しい潔白。
その潔白さに守られているものこそが、美しい、華。
そんな所も、望美にぴったりだと思う。
「・・・るくー・・・!」
遠くで、望美が呼んでいるような気がする。
微かな期待に顔を上げれば、角を曲がった所で、望美が手を振っているのが見えた。
「先輩!」
身を乗り出して答えると、望美はキャスターつきの旅行カバンを重そうに引きずりながら、こちらへ走ろうと無駄な努力をし始めた。
譲は弾かれたように家の中へ駆け込み、階段を駆け下りる。
「帰ってきたの?」
ドドドという足音に思わず顔を出した母親の声を背中に聞きながら、玄関を飛び出て。
靴を履きながら転がるように門を開けて道路に出れば、こちらへ向かってくる望美の、満面の笑顔。
4日分の心配も不安も、全て吹き飛ぶほどに、望美は譲だけをめがけて向かってくる。
4日間メールも電話も寄越さなくたって、望美の心はここにあるのだ。
ああ、何と言って迎えようか。
抱き締めて、キスをして。
道路の真ん中だって構わない。
それから、ずっと待っていたと囁いて。
そして、もう一度。
息もできないくらいに、4日分のキスをして。
ああ、望美がもうすぐここに。
帰るべき家を素通りして、真っ直ぐに、自分の元へ。
少し日に焼けただろうか。
それでも、美しさは変わらず。
4日ぶりに会うせいか、ますます凛と輝いて。
輝いて。
そう。
触れてはいけないような気持ちに、なる。
譲は踵を返すと、庭に戻ってカラーの花を摘んだ。
軽く茎を引っぱれば、すぐに抜けてしまう。
カラーという花を摘むのは、あっけないほど簡単なのだけれど。
譲はそれを持って再び道路に出る。
息を切らせながら譲の元へ着いた望美は、どんな美しい花にも負けない笑顔を、譲に向ける。
「譲くん、ただいま〜!」
そして譲は。
摘んだばかりの花を差し出しながら、微笑んで言うのだ。
「お帰りなさい、先輩。」
「うわぁキレイだね、何の花?」
「カラーですよ。今年最初の花を付けたんです。」
「えっ、最初のお花、もらっていいの?」
「ええ。先輩のイメージフラワーですから。」
「あ、おしとやかってやつ?もう、そんな事言うと、お土産あげないよ!」
「それは困るな・・・けっこう好きなんですよ、"ちんすこう"。」
「・・・何で"ちんすこう"だって分かるの?」
「長い付き合いですからね。」
怒った顔も驚いた顔もやっぱり可愛い、と頬を緩ませながら。
譲は、この4日間の想いを仕舞い込む。
そうやって、本心はまた、闇の中。
けれど。
「ね、"ちんすこう"でお茶にしない?」
「そうですね。父さんも母さんも、きっと喜びますよ。」
「うん・・・でも・・・ちょっと疲れちゃったから、譲くんの部屋でゆっくりしてもいいかな?」
言ってから、望美が恥ずかしそうに目を伏せる。
それは、望美なりのサイン。
「・・・ええ、もちろんです・・・」
カラーという花を摘むのは、あっけないほど簡単なのだけれど。
譲は、望美の潔白さを汚さないよう、闇の中に本心を仕舞い込んだまま。
密やかに。
控えめに。
4日分の、キスをする。