うさぎとかめ
『はい、警視庁少年育成課です。』
「東京地方検察庁特別捜査部の藤原です。」
『夜遅くまでお疲れ様です。今、回線を切り替えます・・・』
パソコンの画面に"接続中"と表示されてから、別ウインドウが開いた。
インカムをつけて目を丸くした勝真の顔が表示される。
『幸鷹じゃないか!』
幸鷹は、息を呑んでから、嬉しそうに顔を輝かせた。
「お久しぶりです。勝真さん。」
『ああ、正月も行き違いだし、本当に久しぶりだな!』
勝真が満面の笑みになる。
「そうですね・・・ご無沙汰してすみません。」
幸鷹が謝ると、勝真が自嘲的な顔をする。
『いや、お互い忙しいからな・・・そうだ、先に用件を聞こう。』
「はい。先日行われた一斉検挙の補導者リストを暗号メールで送信していただきたいのです。」
『いいけど・・・かなりの量だぞ。』
勝真がマウスを操作しながら眉をひそめる。
「そうですか・・・では、麻薬所持容疑の補導者と、中国籍の補導者を抽出したものをいただけると嬉しいのですが。」
『了解。このアカウントに送ればいいんだな。』
「お仕事を増やして申し訳ありません。」
『なあに、10分もあればできるさ。』
幸鷹は、そう言って微笑む勝真がコートを着ていることに気付いた。
帰り支度をしていたところなのだろう。
「すみません・・・」
幸鷹が心底申し訳ないという顔をすると、勝真がニヤリと笑う。
『今ムダ話しても大丈夫か?』
「はい。しかし、貴方の帰宅が遅くなっては花梨さんに申し訳ないです。」
『お前と話してたって言ったらむしろ喜ぶよ。結婚式以来だし、俺も話したい。』
「確かあの時は機動隊に所属していましたよね?」
『ああ。今年の春に移動になったんだ。俺はけっこうあの仕事好きだったんだけどな。』
「でも、警備のお仕事は時間も不規則ですし、心身ともに疲弊したでしょう?花梨さんがお身体を心配する様子が目に浮かびます。」
『まあな・・・去年の災害派遣でもずいぶん長く家を空けたし・・・あいつは今回の移動、けっこう喜んでるよ。』
その言葉に、幸鷹は懐かしく花梨の笑顔を思い出す。
「花梨さんはお元気にしていらっしゃいますか?」
『元気も何も、レコーディングだコンサートだって飛び回ってるよ。ちょっとは千歳を見習って大人しくしてて欲しいぜ。』
「花梨さんらしいですね・・・」
『そっちはどうだ?・・・ま、こんな時間までログインしてるようじゃ、相変わらずろくに家にも帰ってないんだろ。』
「ええ、まあ・・・仕事は面白いですし、千歳さんもしっかり家を守ってくれていますから良いのですが・・・子供がなかなか懐いてくれないのは、辛いですね。」
幸鷹が、デスクに飾られた写真立ての中で微笑む我が子を愛しそうに見つめる。
それを見た勝真が優しく目を細めた。
『幸鷹もついに親父か・・・可愛いだろ?』
「ええ、とても・・・最近は文字を書くようになって・・・」
『知ってる。昼間の事だからお前は知らないだろうけど、千歳のやつ、花梨がオフの度に自慢しに来てるんだよ。幼稚園に入る前からそんなんじゃ、末恐ろしいな。』
「自分で懲り懲りしていますので、特に英才教育を施している訳ではないのですが・・・」
『分かってるよ。お前と千歳の子なんだからそのくらい朝飯前だと思うぜ・・・千歳はまた推理小説書き始めたんだって?』
「はい。」
幸鷹が苦笑まじりに返事をするのを聞いて、勝真が心配そうな顔になった。
『あいつ、取材だとか言って煩いだろ?』
「そうですね・・・守秘義務もありますので、どこまで話して良いものか、難しいです。」
『やっぱり・・・警官が主人公のシリーズ書いてた時なんか、最悪だったぞ・・・』
「新シリーズは、検察官が主人公だそうです。」
幸鷹が悪戯っぽく言って笑う。
『千歳のやつ・・・今度会ったら叱っとくよ。苦労かけてすまない。』
「いえ、このくらい何でもありません。仕事に行き詰ったときには知恵を貸していただくこともありますし。それに、苦労なんてとんでもないですよ。私の考えは難解だと言われることが多いのですが・・・千歳さんは、言わない事まで察して下さるので・・・ツーと言えばカーとは、こういうことかと思う時があります。頼りになる、良妻賢母ですよ。」
『そうか・・・よかった・・・実は俺、心配してたんだ。』
「何をですか?」
『お前が千歳にハメられたんじゃないかって。』
「え?はめられた?」
『お前が昔、花梨に惚れてたのは、俺も何となく知ってたし・・・千歳に押されて付き合い始めただろ?だからさ・・・千歳が嬉しそうにデキちゃったから結婚するって言った時には、青くなったよ。』
幸鷹がクスリと笑って口を開く。
「確かに妊娠は予定外でしたが・・・私は自分のことを、愛のないままベッドを共にできるような性格ではないと思っています。」
『・・・そうだな。すまない。』
幸鷹の率直な言葉に、勝真の方が照れくさそうな顔をする。
「いいえ。私は今、とても幸せですよ。貴方のような方が義兄になった事も、花梨さんが義姉になったことも、千歳さんが生涯の伴侶である事も・・・それから、愛するbabyが居る事も・・・」
勝真が呆れた顔をした。
『恥ずかしい事ポンポン言うなよ・・・ベビーか・・・甥っ子であれだけ可愛いんだから、自分の子だったらたまらないだろうな・・・』
「ぜひ、お勧めしますよ。早く貴方と子供が居る幸せを分かち合いたい。」
『そうだな・・・俺も、もう30だしな・・・花梨と相談するか・・・』
「お二人のお子さんなら、とても愛らしい女の子でしょうね。」
『なんで女限定なんだよ?』
「息子の嫁に。」
『はあ?従兄妹だぞ?』
「法的に何の問題もありません。」
『おい・・・産まれる前からやめてくれ・・・それに・・・女の子だったら嫁になんかやらないからな。』
憮然とした顔をする勝真の様子に、幸鷹は思わず吹き出した。
「産まれる前から親バカですね・・・」
回線を切ってインカムを外した幸鷹は、自分の周りに幸せが溢れている事に感謝した。
この幸せを守りたい。
ひとつひとつ、悪を法の下にさらしていく仕事は、危険で時間がかかり、きりがない。
ひとつ取り除いているうちに、何百もばら撒かれる地雷を撤去する作業のように。
しかし、それでも、幸鷹はこの仕事に誇りを持っている。
家族の幸せを守ることにつながる、この仕事に。
息子の写真に目を向ける。
勝真からメールをもらったら、今日はもう帰ろうか、と思ったときだった。
胸ポケットの携帯電話が震える。
幸鷹はデスクからイソップ童話の本を取り出しながら、携帯電話の通話ボタンを押した。
ベビーベッドの中でぐずって泣いている子供が小さな画面に表示される。
スピーカーから千歳の声がした。
『お仕事中ごめんなさい。いま大丈夫なら、いつもの、お願い。』
「分かりました。」
幸鷹は微笑みながら、付箋のついているページをめくると、ゆっくりと読み始めた。
「うさぎとかめ・・・」
画面の中で、子供が泣き止んで、しゃくりあげながら耳を傾ける。
「ある日のこと、うさぎが・・・」
『ボク、うしゃぎしゃんのう、かけゆよ!』
携帯電話を持つ千歳に言っているのだろうか、天井の方を見て可愛い声を上げる。
千歳の声がしないのは、興奮させないよう、黙って頷いているからだろう。
そのまま読み続ける。
千歳が電話を枕元に置いたらしく、画面がタオル地の布のアップになる。
たまに、かめしゃんがんばれ、などと呟く声が聞こえるが、大人しく聞いてくれているようだ。
こうしてほとんど毎晩のように「かめしゃんいちばん」のお話を読んでいるのが、たまに家に居る眼鏡が怖い人なのだと、そして、それが父親なのだと、分かってくれる日はいつだろうか。
本当は花梨のCDを使って寝かしつける事もできるのに、千歳がわざわざ自分に役割を与えてくれる事に感謝する。
幸鷹がうさぎとかめを読み聞かせるのには理由がある。
幸鷹は、自分がうさぎだったと思っているのだ。
童話の中で言えばお昼寝の時期、自分はとても辛い思いをした。
自分の子には、周りと同じテンポで育って欲しい。
ゆっくりでいい、着実に。
「・・・うさぎは飛び起きました・・・」
『ありがとう。もう寝たわ。』
千歳の囁き声がして、幸鷹が本から顔を上げる。
「残念。これからクライマックスなのですが・・・」
画面の中で千歳がクスッと笑う。
寝室を出てリビングに向かっているのか、背景が流れている。
『あなたのアルファ波が強烈なのよ。私まで眠くなっちゃうわ。』
「それは困ります。もう私の声では興奮できませんか?」
『・・・バカね・・・』
呆れた顔の向こうに、女の喜びが見え隠れする。
「今日はそろそろ帰ります。」
『あら、珍しいわね。ついに麻薬密売組織を立件?』
千歳が瞳を輝かせた。
「千歳さん・・・私はそんな話をした覚えはありませんが・・・」
『分かるわよ、そのくらい・・・あなたは嘘がつけない人だもの。』
「立件が終わったら、あらかたお話しますので・・・あまり深入りすると、貴女にまで危険が及びます。」
『分かってるわ。でも私、中国人ってアコギなだけでけっこう素直だと思うのよ・・・』
「千歳さん!」
幸鷹が画面を睨むと、千歳が肩をすくめて瞳をそらす。
『はーい・・・大人しく夕飯作ります。』
「お願いします。」
『ちゃんとした夕飯は久しぶりだから腕が鳴るわ。じゃあね。』
「はい。」
携帯電話を閉じた幸鷹のお腹が鳴る。
千歳は、掃除はイマイチだが料理は上手い。
こうして急に早く帰ると言っても、冷蔵庫にあるものでフレンチのようなコース料理を作ってしまったりする。
しかし、最近は幸鷹の帰宅が遅いせいで、消化の良いうどんやおじやを作らせてばかりだった。
それにしても。
「チャイニーズマフィアだという事までどうして・・・」
幸鷹はパソコンに向かいながら、首を傾げた。