浜木綿 「どこか遠くへ・汚れがない」
『どうしたのー?』
携帯から聞こえてくる間延びした声の向こうは、黄色い声のざわめきだった。
望美の学校は毎日朝が早い。
休み時間に電話をくれませんか、などと不躾なメールをしたことを、まずは礼儀正しく謝って。
「先輩、夏休みの7月29日から31日まで、空いてますか?」
『えっ?』
問うと、望美が驚きの声を上げて絶句する。
目前のコンシェルジュの作り笑いと目が合うと、譲はプリントアウトされた空き状況の表を持って、そそくさと席を外した。
すぐに次の順番を待っていた中年男性が、そこへ座り込む。
もうすぐ夏休みだ。
それぞれ長期休暇中の旅行を予約するためだろう、平日だというのに旅行代理店は順番待ちの列ができていた。
「俺の誕生日プレゼントです。一緒に沖縄に行きませんか?俺の分の費用は自分で払います。」
『え・・・?う〜ん、いいけど・・・それじゃあプレゼントにならなくない?』
「そんなことないですよ。先輩に旅行代金を払わせるんですから。」
『ゴールデンウイークに一緒に行こうって約束したの、忘れてないよ。だからお金は大丈夫。でも、私から言い出した約束なのに、結局ちゃんとできなくて、譲くんに埋め合わせしてもらっちゃうなんて・・・私がプレゼントもらっちゃってるみたいだよ・・・』
ん〜、と可愛らしい唸り声、それと、カチャカチャという、電話とこめかみのピンが擦れる音。
それだけで、望美が眉間に皺を寄せながら、手帳を繰ってスケジュールを確認している様子が目に浮かぶ。
「今年のゴールデンウイークは俺も新しい部屋の片付けで忙しかったですからね。それより、空いてますか?」
カチャカチャという音が収まった頃に声をかければ、やはり望美の困ったような、うん、という答え。
「それなら良かった。じゃあ、詳しくは今度会ったときに。とにかく、今回の旅行は俺に付き合ってもらうために誘ったんですから、先輩は気に病まないで下さいね。」
押し付けるように言って、一方的に電話を切る。
自分から言い出したのに、とか、約束が守れなかったのに、とか、望美のそういう一本筋の通ったところが譲はとても好きだけれど、こういう時だけ、少し厄介だ。
もともとは、友人と沖縄旅行に行くと言う望美に、他の男の目に曝したくないという器の狭い考えからあれこれとくだらない小言を言って、その末に何故か着地した約束だった。
だから、もとはと言えば、自分のせい。
望美が気に病むことなど何もないのに、あの頃の自分が残した負の遺産が、未だに純粋な望美を苦しめている。
一年と少し前のあの頃は、まだ望美の気持ちも身体も遠い気がして、説明しがたい焦りが常に自分を苛んでいた。
あのあとすぐ、昨年の誕生日に、望美の身体を知って。
それから何度も身体を重ねるうち、いつの間にか焦りは消えた。
あの頃の自分だったらきっと、南国のホテルで望美と重なる夜を夢想して、鼻息を荒くしていたはず。
けれど今はこうして、純粋に。
あれだけライバル心を燃やしていた将臣に近い場所で、誕生日を過ごそうと。
時計を見て、まだ三限が始まるまで時間があるのを確認してから、譲はまた新しい番号札を手に取って列に並び直し、空き状況の紙を眺めた。
本当は、もっと自分の誕生日に近い7月20日頃にしようと思っていたのだ。
空いているのは7月末だけだと言われて、思わず吹き出しそうになった。
譲は十日ほど遅れて、将臣は十日ほど早い、ちょうど中間の頃。
小さく笑みながら顔を上げると、浜木綿が咲き乱れる海岸の涼しげなポスターが目に入った。