02:挨拶されるだけでも嬉しい
気付くのが、遅すぎたんだ。
望美は鏡の前で髪を梳かしながら、ふと思った。
譲くんを待たせないように早起きしよう、と思い立ったのは1月末に看護学校の試験が終わってから。
それでも、毎朝決まった時間に門前でインターホンを鳴らす譲を待たせなかったことはない。
鏡の前に居る時間ができた分、そこに居座る時間も増えてしまって。
髪型を変えてみようか、とか。
枝毛ができてる、とか。
そんな風に、朝一番の完璧な姿を見せたいと思っている自分に気付いた時、望美は愕然とした。
誰に、と自問して。
もちろん、答えは譲以外に考えられなかった。
けれど、それは望美にとって初めての感情だったのだ。
失いたくない、側に居て欲しいという感情を、異世界で好きと名付けたは良いけれど。
望美は好きという感情がイマイチ分からないままで。
自分が譲に抱いている気持ちが、恋人として好きなのか、幼馴染みとしての好きなのか、はっきりしないままで。
やっと、最近。
鏡の前に居座るようになって。
自分は譲が本気で好きなんだ、と気付いたばかり。
ついこの間、その気持ちをチョコレートにして譲に渡そうとしたら、その場で何倍もの想いが満載されたキスを返されてしまった。
望美は鏡台に櫛を置くと、そっと唇に触れた。
初めてのキスから、約1年。
譲のキスが、魔力を持ち始めているのを、望美は感じている。
きっと、気付くのが遅すぎたから。
望美がスプーン一杯の想いを伝えられるようになるまでの間に、譲は持っている想いの全てをキスで伝えられる魔法を会得してしまったのだ。
「望美〜?」
母親の急かす声が台所から飛んで、望美は我に返った。
同時にインターホンの電子音が響く。
「ひゃっ、来ちゃった!」
慌ててピンで髪を留め、洗面所から走り出てきた望美に、母親は弁当箱を渡しながら目くじらを立てた。
「もう、髪を梳かすだけでそんなに時間がかかるなら、いっそ切っちゃいなさい!」
わーん、やだー、と泣きそうな声を上げながら望美は弁当箱を受け取ると、リビングに駆け込んでカバンにそれを突っ込む。
「何だ、毎朝毎朝。譲君にもう少し遅く来るように言え。」
リビングでは父親が仏頂面をしている。
「そんなことしたら遅刻するじゃない!」
望美が母親そっくりの顔で目くじらを立てると、父親は仏頂面のまま新聞に顔を埋めた。
もう、決めたのだ。
父親ではなく、譲を選ぶと。
望美は少しだけ寂しそうな父親の横顔を横目で見てから、カバンをつかんで玄関へ走り出る。
門を開ければ、眩い朝の光を背負って、年下の彼氏が爽やかに待っている。
「おはようございます、先輩。」
その言葉だけで、気持ちが浮き立つ。
ただの、朝の挨拶なのに。
異世界で毎朝繰り返し聞いてきた、ただの挨拶なのに。
「おはよ。」
照れ臭さを隠すこともできないまま短く返事を返したら、譲は何だか嬉しそうに目を細めた。
もし、譲が同じ気持ちで居てくれるなら、すごく嬉しい。
こんな日々が、永遠に続けばいいのに、と思う。
「さあ、行きましょう。」
望美のカバンを取り上げて少し急かすように言うと、譲は忙しなく腕時計を見た。
毎朝同じ、譲の行動。
けれど、その横顔に見惚れるようになった望美を、多分、譲は知らない。
「今日は少し余裕がありますね・・・」
そう言って、譲は歩き始めながら少し考えると、続けた。
「・・・言い忘れてしまうといけないので、先に言っておきます。明日から俺、独りで先に行かないと。」
「え・・・?!」
「生徒会行事の準備が思うように進まなくて、朝早くに登校することになってしまったんです・・・もしかしたら、『卒業生を送る会』が終わるまで一緒に登校できないかも知れません。」
望美の心に、譲の言葉が冷たく転がり込んだ。
その行事が終われば、卒業式まで数日しかない。
「・・・すみません。」
言葉さえも発することができないでいると、譲は本当に申し訳なさそうに、頭を下げた。
慌てて気持ちを立て直して。
「あ、ううん・・・譲くんは悪くないもの。でも・・・あと少ししか一緒に登校できないのに・・・寂しいな・・・」
そのまま言葉にすれば、譲も寂しそうな顔をする。
「ええ・・・俺も、寂しいです・・・」
譲はそう答えてから望美の手を取ると、学ランのポケットに突っ込んで握り締めた。
じわ、と、頬に熱が集まる感覚。
いつからだろう。
こんな風に、手を繋いだだけで顔が火照るようになってしまったのは。
譲が、こんな風に躊躇いなく、自分に触れてくれるようになったのは。
手の温もりに胸が締め付けられるのを感じながら、望美はふと思う。
気付くのが、遅すぎたんだ。
もっと早く気付いていれば、こんな瞬間を、胸いっぱいに集めることができたのに。