08:次の春が来なければいいのに
「おはようございます、先輩。」
「おはよ。」
そしてまた、幸せな朝がやってくる。
「今日は早いですね。」
譲はいつものように時計を見ると、これなら歩いても間に合いそうだ、と嬉しそうに呟いた。
「早起きしたもの。」
望美が笑顔で胸を張る。
遅すぎた努力が、やっと実を結んだのだ。
「その言葉を、もっと前に聞きたかったですね。」
譲が、からかうように言う。
けれど、その声にはしみじみとした思いが混ざって。
「本当だね・・・」
望美も、寂しさを堪えて笑顔を作った。
「・・・あと少しで卒業式なのに、今さら早起きしても、ね。」
譲はその言葉を聞いて寂しそうな顔になったが、すぐにそれを振り切るように首を振る。
「いえ、終わりよければ全てよし、という言葉も有りますから。」
「うん・・・」
望美は小さく頷くと、譲の手を握って歩き出した。
「先輩・・・」
譲が戸惑った声を出す。
近所の人や他の生徒に見られるのが恥ずかしいので、二人はあまり登校時に手を繋いだりしない。
「終わりよければ全てよし、でしょ?」
望美が悪戯っぽく言うと、譲は苦笑を浮かべて、それでもしっかりと手を握り返してくる。
「もっと前から、こうしてれば良かったね。」
言うと、譲は目を伏せて、ええ、と頷いた。
その横顔に、大人びた憂いの色を見て、望美は小さく息を飲む。
譲は望美の視線に気付いたらしく、ふと横目で望美を見てから、顔を背けて言った。
「・・・あまり見ないで下さい。」
「どうして?」
望美は背けられた顔を追いもせず、こちらに向けられた後頭部を見つめて言う。
何の表情も表さない後頭部さえ、望美にとっては見つめていたい譲の一部。
「・・・恥ずかしいです。」
後頭部が、小さな声で言った。
「もしかして、昨日も見てたの、気付いてた?」
「ええ・・・まあ・・・」
何度も目が合ったのだ、気付いていない訳がない。
「桑島先生と、ピッタリくっついて何か話してた。」
照れ臭くなった望美が仕舞い込んでいたヤキモチを口に出すと、後頭部を見せていた譲が慌てて振り向いた。
「先輩だって、知らない奴と楽しそうに伝言ゲームしてたじゃないですか。」
望美は少なからず驚く。
まさか伝言ゲームで妬かれるとは思っていなかったのだ。
「えっ・・・それは・・・だって、たかがゲームだし・・・」
しどろもどろで言うと、譲は大きく息を吐いてから、言った。
「分かってます。すみませんね、たかがゲームで妬いたりして。」
声は落ち着いているのに、言葉は何だかトゲトゲしい。
それは、いつも大人びている譲が、幼い駄々っ子のようになる瞬間。
望美は堪えきれずに吹き出す。
「じゃあ、譲くんに、伝言ゲーム。」
そう言ってから、望美は背伸びをして、譲に耳打ちした。
「・・・生徒会の仕事してる譲くん、格好良かったよ。」
譲が絶句して、鈍感な望美にも分かるくらい、赤くなる。
望美は今さら、譲くんが照れてる、などと暢気に思いながらそれを眺めた。
しばらく黙って歩いてから、譲はやっと誤魔化すように顔を背ける。
「・・・だから嫌なんです。恥ずかしいですから、これからはもう、俺のことを見ないで下さい。」
「ええっ、そんなあ〜!」
抗議の声を上げていると、譲が急に繋いでいた望美の手を離し、手首をつかんだ。
「ひゃ?!」
驚く間もなく腕を引っ張られる。
数十メートル先の踏切が、点滅している。
譲に力強く腕を引かれて走り出しながら、望美は駅前の桜が蕾を膨らませているのを見つけてしまった。
前を走る譲の背中を見つめて、咲かないで、と祈る。
そうすれば、こんな幸せな朝が、永遠に続くような気がして。
息を切らせて満員電車に駆け込むと、いつものように譲は閉まっていく扉に手を突いた。
望美を他の乗客からかばうためだ。
けれど。
譲は電車が走り出すと、突然、扉に突いていた手を下ろした。
すぐに他の乗客の圧力が、譲と望美を密着させる。
下ろされた譲の手は、望美の背中を引き寄せて。
ギョッとして望美が顔を上げると、譲は仕返しとばかりに悪戯っぽい顔をしていた。
「終わりよければ全てよし、ですよね?」
言いながら、譲は電車の揺れに乗じて、一瞬だけ、誰にも分からないように望美を抱き締めた。
ジュッ、と音を立てて、こめかみの辺りに血が上って。
「譲くん・・・」
嗜めるつもりで出した声が、掠れてしまう。
それを聞いた譲が、二人きりで触れ合う時のような真顔になった。
「俺も伝言ゲームをします。」
怒ったように言って。
譲は身を屈めると、望美の耳もとで囁いた。
「・・・もっと前から、こうしていれば良かった。」