09:あなたはもう、行ってしまう



講堂は、厳粛な雰囲気に包まれていた。
「送辞。在校生代表、有川譲。」
呼ばれて、譲は早鐘を打つ心臓に鞭打ちながら、大きく返事をした。
「はい。」
汗の滲む手で握っていたせいで、少しヨレてしまった式辞用紙を持って、リハーサル通りに演壇へと歩く。
講堂中の視線が、自分に集まっているのを感じる。
その中に、望美の視線があることも、感じている。
譲は演壇に登り丁寧に一礼をすると、式辞用紙を開いて、筆ペンで書いた自分の字を追い始めた。
「日に日に温かくなり、校門脇でも桜の芽が膨らみ始めました。
春めいた日差しが心地よい今日の佳き日に、門出を迎えた先輩方、ご卒業、おめでとうございます。
先輩方の卒業してしまう日が、こんなに早く来てしまったことを、心から寂しく思います。
俺達は、ずっと、先輩方を憧れの目で見つめてきました。
入学式に温かな拍手と優しい笑顔で迎えてくれるあなたを見つけた時、緊張していた俺はどんなに安心したか知れない。」
講堂の空気が、微妙に揺らぐ。
気楽に私語も交わせない中で、大部分の者が微かな違和感を覚えたのだ。
「テニスコートで部活動に励むあなたの姿は、辛い練習に挫けそうになった俺をどんなに奮い立たせたか知れない。」
さわ、と微かに生徒達がざわめいた。
譲は必死でポーカーフェイスを保ち、淡々と字を追う。
何の他意も、ないかのように。
そういう文章なんだと、思わせるように。
「文化祭の演劇で美しく主役を演じるあなたを見て、俺はどんなに嬉しかったか知れない。」
ついに卒業生の一角で、数名のキャーという声が小さく上がった。
それをきっかけに、在校生や父兄までもが、ざわめき始める。
「いつも俺達は、先輩方の姿を手本にして、その立派な姿に近づけるよう努力してきたんです。
あなたに、少しでも近づきたくて、精一杯の努力をしてきたんです。
けれど、いつもあと少しのところで、届かない。
届かないまま、あなたはもう、卒業してしまう。
もっと、そばに居て欲しかった。
もっと、見つめていたかった。
そんな願いも叶わないまま、俺はこうして、あなたを見送らなければいけません。」
ざわついていた講堂は、いつの間にか、水を打ったように静かになっていた。
「先輩方は、それぞれの胸に夢を抱き、それぞれの道に進もうとしています。
きっと先輩なら、大丈夫。
その優しさと、強さと、美しさで、この先の進路でも活躍するに違いないから。
俺は胸を張って、あなたを送り出します。
この学校に残る俺達は、先輩方と一緒に過ごした日々を胸に刻んで、俺達を教え導いてくれた先輩方に恥じないような卒業生となれるよう、引き続き努力するつもりです。
だから、俺のことも、心配しないで。
今は振り返らず、前を向いて、新しい生活に備えて下さい。
けれど、一つだけ、お願いがあります。
俺達は、先輩方と過ごした日々を、決して忘れません。
だから、先輩方も。
新しい生活が落ち着いた時には、少しだけでいいから、俺達のことを思い出して下さい。
そして、できれば俺達を訪ねて、元気な姿を見せて下さい。
俺は、いつでも先輩のことを、待っています。」
譲は、そこで始めて言葉を切り、顔を上げて望美を見た。
周りの生徒達に小突かれたりデコピンされたりしているのに、望美は真っ赤になったまま硬直してこちらを見ている。
譲は再び式辞用紙に顔を埋めると、続きを読み始めた。
「最後に、先輩方のご健康とご活躍を心からお祈りし、送辞とさせていただきます。
さようならは、言いません。
これから先も、そんな言葉を言うつもりはありません。
離ればなれになっても、俺達の心は、ずっと一緒です。
ですから、先輩方には、この言葉を贈ります。
近いうちに、また、会いましょう。
在校生代表、有川譲。」
全てを読み終えて、顔を上げる。
一瞬の後、生徒達の座っている席から割れんばかりの拍手が起こった。
スタンディングオベーションやら、口笛やら野次やらで、卒業式の厳粛な雰囲気はぶち壊しだ。
望美との関係がごく一部の生徒にしか知られていないと思っていた譲は、大きすぎる反響にギョッとした。
完全に、全校生徒にバレている。
バレないように、書いたつもりだったのに。
譲は今さらのように赤くなって、わたわたと式辞用紙を畳むと、ギクシャクとお辞儀をして演壇を降りた。
その様子に、騒いでいる生徒達の間から失笑が漏れる。
舞台の脇、教員席では、事情を飲み込めない教員達が慌て顔で生徒達の騒ぎを鎮めに走り出した。
その中で井上教諭だけは、余裕の笑みをたたえたまま脚を組んで椅子に座っていて。
譲と目が合うと、楽しそうにウインクをして見せる。
どうやら彼は、こうなることが分かっていて譲の原稿にOKを出したのだ。
譲は最後の精神力を振り絞って、何事もなかったような顔で自分の席に戻る。
今さらになって、照れと達成感と緊張が、震えるほどに襲ってきて。
席に座ると、はしゃいだ青木が譲にハイタッチをしようと両手を出してきた。
譲はやり場のない武者震いをどうにか収めるため、青木の両手の隙間に片手を滑り込ませると、いきなり頭にチョップを食らわせた。


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